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暇は空しいか コヘレトの言葉②

コヘレトの言葉を読み始めてワクワクしていると、いきなり頭をガーンと打たれるのです。

「なんという空しさ、
すべては空しい」(1:2)

だ、大丈夫か、コヘレト。いや一応ソロモン王!と言いたくなるところです。「栄華を極めたソロモンでさえ」なのに!本当は空しかったの?ああよかった。ただの金持ちじゃあなかったのねとちょっとホッとしたり。でも意気込んで聖書の中にはライフガイドがあるかしらん?と思って読んでいたのに一体どう言うことよ〜って思うひとがいるとしたら、きっとその人は勝ち組モードで聖書を読んでいるのかも。
私なんてかなりやさぐれているから、こんな出だしには正直相当ヒットフィットしてしまいます。そうだよ、空しいだ!と。でもちょっと待って、絶対これ、男の言葉じゃない?空しいわ〜とかいってニヒルなアヒルをやっていられるあなた!退屈なら手伝ってよね、と言いたくなりませんか?

半生を反省。本当に忙しかったことが多かったです。自分の記憶の中でものすごく強く刻まれた「暇」は私は双子妊娠でどうしても動いてはいけないと言われて、第一子が保育園へ行ってしまって日中本当に何にもしてはいけない(医師の指導ではトイレ以外は動くな。できればトイレもポータブルトイレをベッドの横に)の時です。あれは暇をやるのが辛かった。それ以外で自分が「時間がある」とか「休み」とかがあっても心のどっかで「これ終わったらあれやるんやな〜」と思ってた。だから空しさを手にすることができずに、つまり考えることすら許されなかった。ああ、こうなると暇と空しいが同質として扱われてしまっていますが、実は次に何かやる必要があるという暇ではない状況は空しさの欠如の状況。空しさを考えられないほどに人がモノ化されていることを言い当てるのが、この「なんという空しさ」なのかも。なんでこんなに空しさまでもが奪い去られるのか。
最近じゃあ、女も活躍させられるまでになり、本当の意味での空しさすら奪取され、ただただ日常がしんどい=空しいにされている。これが暇と空しさが同じであることの逆。暇を空しいと言いたい!!

コヘレトのこの言葉は全体をあらわすテーマです。
こう言う注解をすることも、本当は暇人やからできることなのですぞ。

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