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絶望の向こうを見る

ヨハネによる福音書1章29節からは、イエスとその後同伴する幾人かの弟子たちの出会いが書かれています。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネという漁師たちが弟子になる物語の変奏曲のようにヨハネではバプテスマのヨハネの弟子であったペトロとアンデレ、そしてベトサイダ出身(他の福音書ではカファルナウムになっています)のフィリポとナタナエルに会います。このように福音書が書かれた時代やその強調点によってイエスについての証言は複層的です。同じ物事もそれを見つめる人によっては異なる物事となるように。
最初の四人の弟子たちとイエスの出会いの軸になる言葉が「見る」です。29節以降、何度も「見る」という言葉が使われています。その意味が問いかけられているかのようです。皆さんはどう思いますか。まずバプテスマのヨハネが見ます。次にヨハネは見るようにと伝えられていたと証言します(33)。そしてヨハネのイエスに関する証言は「見たからだ」と(34)。ヨハネに続くように弟子たちはイエスを見ます。歩いているイエスを「見つめ」(36)、ヨハネはイエスを「神の小羊」と述べます。その言葉に触れ二人はイエスに従うことになります。問題はその次です。イエスはいつまでも「見られる」対象にとどまってはいません。
イエスは彼らを「見る」のです(38)。その後、二人の従者もイエスを見ます(39)。さらにイエスはペトロを見つめ、彼をケファと名付けています(42)。これほどに、「見るー見つめる」ことが繰り返されているとは驚きです。フィリポとの物語では「出会った」という言葉が挟まれます。そして出会いから見ることへと促されています。ヨハネもペトロもフィリポも、イエスを見た、イエスも見つめた、と実質的な「見る」つまり「見たこと」がここまでは語られていました。見るということはイエスと弟子たちとの信頼を作る大切な行動でした。しかしナタナエルとの物語の結びの部分で、イエスは「見た」ことを「見る」ことへと拡大していきます。今、視覚的に感覚的に見る(見た)ことから、これから「見ることになる」未来の出来事、向こうを見ることへとイエスは「見る」を広げていきます。
今は見えないもの、今は掴めないままでいることが私たちをどん底へ突き落とします。29年前に崩れ、焼け、傷という言葉では不十分なほどの地平に立たされたことが、今も私を覆います。悪夢。身体が動かなくなるほどの恐怖です。ガザで焼かれた地、災害現場、執拗な軍事作戦を受けた地が2024年の地です。子どもはいじめに怯え、高齢者は生活の不安を抱え、家族、健康、労働、どこを切り取ってもそこに疼く痛みがあります。そこに落とし込まれ私たちは絶望の虜です。しかし本当に傷ついているのは誰でしょうか。イエスはこれからも起こるその先を見よう、眼差しを交わし合ったら次にはその向こうを見ようと私たちを呼び出しているのです。その呼び声こそが、絶望の向こうを確信させてくれるのです。

これは、1月7日発行の駒込平和教会の週報に記載した巻頭言です。

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