100年後芸術祭に行ってきたよ
はじめに
100年後芸術祭内房総アートフェスに行ってきました。あまりにもインプットが多すぎて整理しきれなかったので忘れないうちにまとめたく…。
いくつか特に記憶に残ったものをピックアップしてコメントを記録しておこうと思います。一方で、まだ自分の中でも整理がついていないものや解釈が追いついていないものについてはスルーしており、また後日追記したいと思います。
私は普段芸術などにはあまり親しんでおらず、これといって体系立てた勉強をしたこともないんですけど、そんな私でもめちゃくちゃ楽しめましたという記録。
5:00 起床
肌寒い。楽しみにしすぎていて浮かれたアロハシャツだったけどもしかしたらまだ夏じゃなかった可能性があると思って不安になった。杞憂。
8時に上野のレンタカー屋さんから出発。日本各地にレンタカー屋さんがあるのって江戸時代に駅で馬を借りて移動してたのの現代版みたいでいいなと思いました。ガソリンで走る鉄の馬🐎
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10:00 市原湖畔美術館
最高の天気で最高の気分。最高の旅行になることを確信。
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アコンチ・スタジオ《MUSEUM-STAIRS / ROOF OF NEEDLES & PINS》
なんかゆらゆらとしてるチューブと、それを少しだけ補助するようにぐらぐらの鉄の芯が入っていた。天井に設置されているそれらをかき分けて奥に進むと湖を一望することができる。
美術館入ってすぐに《Heigh-Ho》という造形物があり、それを見上げると上にゆらゆらとした物体が見えて興味を惹かれて見に行った。今にして思うとすでにその時点から展示が始まっていた。
その場にいるだけで新鮮でいい気持ちになれた。ゆらゆらしてるチューブのとげとげって自分の中の「天井」のイメージと真逆かも。というかそもそも階段や天井って平面でかっちりしているものだと思い込んでたんだな、と思った。市原湖畔美術館がコンクリートの打ちっぱなしみたいなデザインだったから余計にそう感じたのかな。
木々をかき分けて山に入っていく時のイメージで探検できる場所だった。
CHIHARA×ART×CONNECTIONS-交差する世界とわたし
市原市はベトナムや中国にルーツを持っている人も多いらしく、多様な文化的背景をもつ人たちが一緒になって暮らし、新たな彩りを生んでいくといった趣旨の展示だった。
展示パネルで地元での生活が紹介されていたけど、その中に教会での生活も展示されていた。1階と2階で集まっている人種も異なり、一つの建物に同じ宗教を信じる人たちが集まるコミュニティとなっているらしい。
その中のインタビューで紹介されていたベトナムの方の「でも天国ではみんな同じ言葉だからね〜!」という言葉に胸を打たれてしまい…。困難から救ってくれるという天国・極楽に対して言語がないことを期待してるんだ。あまりにも生活すぎる。生活と呼ばれたり人生と呼ばれたりするものを背負った言葉を見ると受け止めきれなくて脳が焼き切れてしまう。
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リュウ・イ《はじめまして》
中国にルーツを持つ作者が中国から市原に来て中華料理屋さんで働く人にインタビューして作ったというアニメーション。展示室の隅にひっそりをアニメーションを投影できる空間を作り、壁に向かって映写されていた。
アニメの前ではネットが波のような不思議な動きをしており、見上げてみたら機械によって規則的な動きを与えられていた。異国での労働という人間の営みを描いた作品の前に無機物が波を描いているのが面白かった。私たちはフィルターを通してしか他者の生活を想像できず、逆にいうとフィルターを通すことで他者の生活を想像することができるんですね。
クワクボリョウタ《Lost Windows》
かっこよすぎ。真っ暗なコンクリートの地下室で窓枠だけがぐるぐる回っていた。かっこよすぎ。かっこよすぎ空間にいると自分が何者かになってしまったかのような思い違いをしてしまいそうになります。
篠原勝之《飛来》
遠くから飛んで来た弾丸が何枚もの壁をぶち抜いているオブジェ。かっこ良すぎる。そもそも湖畔に美術館があるというかっこよさがあるのに、野原に弾丸が突き刺さっているというかっこよさをプラスしている。都会の喧騒も車の排気ガスも感じられない長閑な湖畔なのに、この一帯だけ緊張感が漂っている。息を潜めておかないと三発目、四発目と飛んで来そうな緊張感でしょうか。私はゲーム脳なので氷属性魔法と土属性魔法の戦いの跡だとか妄想してたけど、そんなことを口に出すのも憚られるような展示だった。
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12:00 上総牛久駅周辺
駐車場が分からなくて困っていると、地元のおじいちゃんが案内してくれた。 無事駐車場に辿り着きお礼を言うと「もし2時間ぐらいだったら近所のスーパーの駐車場もあるからそっち行こうか」と教えてくれた。いいのか?
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沼田侑香《MEAT SHOP》《JAPANESE SWEETS SHOP》
かなり好き。普通の和菓子屋さん、普通のお肉屋さんに突然現れる異形の造形物。ただこれが異形であるということは普段からゲームとかPCとか触ってるから思うことなのかしら。ともあれ現実世界でエラーやバグを吐き出してくる存在を見るの面白すぎる。
同時にこれらはソフト側のバグというよりハード側の損傷のようにも見えてよかった。現実世界でバグを起こすことはできそう(もし現実世界に守られるべきルールや法則が存在するとしたら)だけど、ハード側の故障に対応するような出来事は私たちにはどうにもできないというか。PCの画面を割るような行為って現実世界じゃどうにも起こせないような気がするなーとぼんやり思ったりした。
うまく言えないんだけど、ポテチを食べてケーキの味がすることはあるかもしれないけど、ポテチがこうなることはありえないんだよな。地元のお店の方の優しい対応も含めて本当に素敵でした。
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千葉泰広《アナレンマ》
体験としては一番記憶に残ったかもしれない。古民家に受付の机が置いてあって、展示場の入り口から50代ぐらいの女性の方が出てこられて、机に座った。受付の方だった。「私も見ましたけどね、なかなかよかったですよ」と言われて「なんじゃそりゃ」と思いながら入ると目の前には無数に空間を端に回る光があった。痺れた。ニューロンの電気信号みたいにも見えたし、自動車が走り回る夜の大都会のようにも見えた。自分たちがスキャンされてるみたいでもあったな。街の古民家なんだけど、なぜか3kmぐらい奥行きがあるように見えた。本当にすごい体験だし、もうどうにも文章にできないので行ってください。
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柳建太郎《KINETIC PLAY》
入ってすぐ、どかーん!と大量のガラス細工が展示してある。展示場内の壁はほとんど真っ黒と言っていいようなグレーで、暗闇にキラキラと浮かぶガラス細工に目を奪われた。
ここでは作者の柳さんが自ら解説をしてくれた。この写真のガラス細工、全て食器らしい。「またまた〜」と言っていたらするすると解体を始めてくれた。あるものはワインのデキャンタだったり、ティーポットだったり、徳利だったりした。すげー!機能を求めた結果の美を機能美というなら、美を求めた結果の機能なので美機能でしょうか。次々と種明かしのようにガラス細工が分解されてその機能を紹介されていく光景は、陳腐な言葉ですがワンダーランドみたいでした。最後は写真まで撮ってくださり、本当に素敵な時間と空間だった。瀬戸内でも出品すると聞いたので見に行きたいな。
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岩沢兄弟《でんせつのやたい》
商店会の電気屋さんに突如として展示されている屋台。そこではコンセントやマイクなど、さまざまなものに電球が仕込まれ暖かい光を放っていた。初めて街に電気を持ち込んだ時の屋台があったら、というコンセプトらしい。絵本すぎる。
その屋台を見てたら小学校低学年ぐらいの男の子が話しかけてきてくれた。「これお父さんが作ったんだよ!」ととても誇らしそうだった。またまた「またまた〜」とか言ってると奥から優しそうなメガネのおじさまが出てきて、本当にその子のお父さんだった。駅前の文房具屋さんからバインダーをもらったことや、瀬戸内芸術祭では高松で宿を借りて回るといいということなど教えてくれた。前回の瀬戸内では「桃太郎の鬼が人間から貢物でもらう時の紙袋が大量に余るので、それをきらきらに加工して人間に高値で売っている」というコンセプトの展示をしたと仰っていた。絵本すぎる。最高。俺もAmazonの段ボールをきらきらにしてAmazonに売りつけようかな。
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14:00 内田未来楽校
案内してくれる地元のおじいちゃんたちが元気で優しくて、こんなおじいちゃんになりたいと思った。焼き芋食べた。激かわ財布も買った。
角文平《Homing》
廃校になった木造建築の中に緑の球体が浮かんでおり、その頂点には内田未来楽校のミニチュアが建てられている。そしてそれを囲うように市のマークやチーバくんなど、さまざまな文様をした凧が上がっていた。緑の球体は地球のようにも。
とにかくでっかい。でっかくて楽しい。そして凧がこの内田未来楽校を見守っているように囲んでおり、木造の建築の雰囲気も相まって暖かい空間になっていた。
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イ・ビョンチャン《クリーチャー,2024》
こーれもすごかった。でっかい!でっかくて足とも手とも皮膚とも爪ともつかない部位がポンプみたいにゆっくりと、だけどずっと動いている。見るだけで圧倒される。デビルメイクライにこんなボスが出てきた気がする。
クリーチャーって名前だけど、こんなやつ出てきたら勝てないよって思いながら見た。毒々しい色と尖った先端から勝手に敵として認識していたらしい。
でも最後にこいつと写真を撮ったら一気に距離縮まった気がする。今では友達。言葉は通じないけどご飯とか一緒に食べたら「キュイイー!」とか言って喜んでくれそう。想像していたよりも大きく、存在感があり、見たことがない生き物と接することができる激ヤバ空間だった。
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15:30 旧平三小学校
駐車場から川に降りられる階段があってめっちゃ夏でした。
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富安由真《Jacob's Ladder(Dream For Ascension)/ヤコブの梯子(終わらない夢)》
学校の階段を登ることがそのまま展示となっている作品。階段や梯子がモチーフとなっている絵を飾られた仄暗い階段を登ると、机とどこかわからないところに続いている梯子を目にする。チカチカと明滅する照明に照らされる梯子は単なる学校の一設備ではなくなっていた。絶対に登ってはいけないが、どうしても登りたいという誘惑にも駆られる。天国まで続いちゃいそうなかっこいいハシゴがあるのに登れないの、かなり憎いな。無限に想像力を掻き立てられるような場所でした。
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笹岡由梨子《Animale(アニマーレ)》
うおーーーなんなんだこれは。機械?廃材?のような物体の集合体に目と口と鼻と腕とが映し出されたタブレットが設置されていて無理やり人間の形を取って勤労讃歌のようなものを歌っていた。ものって役割を与えられて初めて意味を成したり名前をつけられたりというようなことがあると思うんですが、その役割を「労働」と呼んでいるのか?我々も労働や役割を通して初めて名前をつけられるのか?そして彼らに労働を与える存在=この展示を見ている人を「お父さん」と呼んでいるのか?謎は深まるばかり。不気味な雰囲気、突如鳴らされる大きい音。我々が対峙しているのは3つの無機物でしかないんだけど、今にも襲い掛かかって復讐されそうな瞬間がたくさんあって怖かった。彼らが歌う悲哀だったり喜びだったり、それが廃校という既に役割を終えた施設に設置されているということだったり。見ているのがストレスではあるんだけど、目の前で何が起こっているかを探り続けたくなるような怪しい魅力を持つ展示だった。まぼろし博物館に行った時のことも少し思い出した。
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秋廣誠《時間鉄道》
教室の中にでっかいレールが敷かれてあり、そこをゆっっっっっっっっっっっっっっくりと巨大な歯車が降りていっている。2ヶ月かけて6mのレールを下るらしい。どういう作りをしているんだ。目の前のピクリともしていない物体が、実は巨大なエネルギーを秘めながらゆっくりと動いているという事実、怖すぎる。早いスクワットよりゆっくりとやるスクワットの方がきついように、重たいものをゆっくりと動かすのには大きなエネルギーが必要なはずで、それをただレールを降りるというためだけに発散されているということが恐怖であると同時にとても力強い存在だった。また、2ヶ月かけてゆっくりと下降していく歯車が廃校となってしまった小学校の教室に展示されているというのも、どうしても止められない時間の進みや、だけど確かにそこにあったエネルギーというものを感じさせて、あえて有り体な言葉で言うと「エモ」でした。
アブドゥルラーマン・アブダラ《最後の3人》
この小学校が廃校になった時に、最後の三人となった生徒が書き残していった黒板のメッセージと、その三人を象徴するかのように3つのリンゴが置いてある。リンゴにはそれぞれシャングリラがかざしてあり、祝福的な色味を見せていた。
これはもう、この黒板がそもそもすごすぎて。もちろん照明やモチーフなどによってこの空間は演出されているんだけど、黒板に残された輝きが本物すぎてそれ以上に何も言うことがない。とにかく素晴らしい空間。ARみたいに黒板から最後の日の様子が立ち上がってきて、それが教室の中心のリンゴにピントを合わせて像を結ぶような、そんな空間だった。
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富安由真《Three on the Level》
理科準備室の掃除ロッカーの奥に秘密の理科室が続いている。理科室はかなり薄暗い。机の上には実験道具が並べられていて、自分から足を踏み入れたはずなんだけど、まるで迷い込んでしまったような感覚を覚えた。
色々と見ていたら突然緑のレーザービームが三角形を結び、真ん中からでっかい鹿の剥製が!ズガーンと音が鳴ったような気もする。何を言っているかわからないと思うけど実際にそうだった。突然姿を現した鹿は間抜けた愛らしい顔をしていて、よく見ると理科室の机の上に乗っていた。あまりにも異物すぎて理科室に一気に緊張感が走った。本当に衝撃的な体験だった。単なる鹿の剥製にここまで衝撃を受けるとは。かっこよすぎ。
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16:30 月出工舎
山奥にある駐車場からさらに少し山を登ったところにあった。もともとは小学校だったらしいけど、ここに登校していた小学生たちの足腰すごいことになっていただろうな。
田中奈緒子《彼方の家》
古民家がまるっとインスタレーションになっている。確かにそこにあった生活の跡を残しながら、それでいて超現実的な空間を立ち上げてくれている。ダリとかに近いのかもしれないです。美術的な文脈はわからないけど。
私がこの家に足を踏み入れたときに思ったことは「なんか見たことあるな」だった。見たことあるわけないんだけど。というか誰も見たことないはずなんだけど、記憶の奥底にあった風景だったんだよな。あれなんだったんだろう。もしかしたら「昔夢で見た」とかなのかもしれない。誰も見たことない設計が逆に誰もが見たことある設計につながっているんだとしたら面白い、わかんないけど。
家としての機能の一つ一つを分解して、それらに加えた一捻りがずっと新鮮だった。作者のアイディアとそれを形にする力に感嘆しっぱなし。特にでっかい穴がただ広がっている空間。でっかい穴の周りをゆっくりとみんなで周る。穴の底に何かあるかもと思い覗き込もうとしても絶妙に見えない作りになっている。自分自身がそこにいることすらあやふやになるような家で、ずっと愉快な気持ちだった。
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毛利悠子《I Can't Hear You》
丘の中腹みたいなところに開けた野っ原があった。そこでは二つのスピーカーからチャイム音と英語がリピートされて聞こえてくる。それに加えて山から出る音や人々の話し声とかも聞こえてきて、なんだか気持ちいい空間だった。
結構な時間ここにとどまっていたんだけど、よく考えるとかなり変だな。特に意味を成すわけでもない音声が流れるだけの何もない空間をうろうろしてるだけの時間。ポーン、ポーン、という音に思考をジャックされていたような気にもなる。例えば通勤途中に突然あの空間があったら足を止めてしまうかもしれない。意味もなく。目は虚ろで焦点も合わず、口を半開きにして彷徨っちゃうかも。快か不快かで言えば間違いなく「快」なんですけど、その理由に言語化できないような不条理さが含まれているのかもしれません。
1日を通して
ここら辺で時間がなくなりタイムアップ。そのあとも穴子天食べたり、スーパー銭湯行ったりと大満足の1日でした。
1日を通して心に残っているのは案内をしてくれた地元の人たち。私は芸術祭って当然芸術の人たちが運営していると思い込んでいたんですが、全くそんなことはありませんでした。現地の人が地元にやってきた芸術祭を受け入れ、そして芸術祭側も地域に開く努力をしてきた結果のあの雰囲気だったんだろうな。内輪で完結せずに地域の人と協力しながら表現したいことを表現しているということに本当に感動したし、地域の人の笑顔を見て「芸術って無駄じゃないんだ」と思わせてくれました(唐突な自分語りとして、私が劇団をやっていた時に「この活動は誰に向けてのもので、社会的に何の役割があるんだろう」という疑問と向き合わざるを得なくなった経験があり余計にそう思ったのかもしれない。社会に芸術が開くことに関する意義やパワーをありありと見せつけられたというか)。
芸術祭って素敵かも。もっと行ってみたいかも。二日目編に続く。
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