すべての空に夜は更けて ~戸田真琴さんの話をするよ~

まったく個人的なこだわりで申し訳ないのだけど、この「すべての空に夜は更けて」というタイトルは、かつて参加したミニコミ誌で書いていた小説まがいのものになんとなく付けたものが始まりで、あまりにも出来が悪く、その後仲間から抜けたことで尻切れトンボに終わったのだが、以来僕が〈まなじりを決して〉〈並々ならぬ決意をもって〉文章を書くときに使っている。心身を壊して以来そんな心境になることもなかったが、そんな僕に火をつけた戸田真琴さんには本当に感謝しています。
とりとめのない文章ですが、よかったらお付き合いください。

逡巡

大好きな戸田真琴さん(a.k.a.まこりん)のAV女優引退の日が近づいてきた。もう引退作の配信も始まったので、年末から1月いっぱいにかけてのイベントが終われば、AV女優・戸田真琴は戻ることのない時間の中へ消えていく。

「業界にいるうちに会わねば」
そうしなければいけない気になった。AV女優と愛好者という立場のうちに接触を持たなければ、そこそこ長めのファンと自負する自分の履歴に嘘をつくことになる。そう思えた。

イベントが続いていることもあり、その願いを叶えることができたのは素直に嬉しいし、頑張った自分を(誰もしてくれないので)称賛したい。本当はもっと早く、握手とかハイタッチとかが許された時期にやっておきたかったがなかなかタイミングが合わず、そこは悔いが残る。デビューして1年経つか経たないか・・・あたりの時期からのファンなのでチャンスはいくらでもありそうなものだったが、そうもいかないということはあるのだ。

今年1月に移籍と「あと1年で引退」を発表してからも、なんだかんだで9月の写真集『神画』お渡し会が初の機会だったから、相当な数を逃したことになる。心身の事情で無職無収入なのが響いた形だ。

いや、違うな。会いたいはずの戸田真琴さんなのに、会わないために手元不如意を言い訳にしたのだ。そう考える方がしっくりくる。

面識のない相手を極度に警戒してしまう癖が僕の方にあることも要因の一つだが、戸田真琴さんは容赦なく僕の心の一番センシティブな場所に肉迫してくるコワイ人、愛で鍛えた刃のような人だから。

畏れ多い。そう、いつもどこか神々しい、触れ得ざるものという空気をその身にまとっているのが、僕にとっての戸田真琴さん。触られまくる(ただし台本にしたがって、撮る方撮られる方が十分な合意を交わした上で)職業なのにね。

そう感じる自分にとって、写真集『神画』(写真・飯田エリカ、主婦の友インフォス2022)はドンズバだった。アウトローのストライクゾーンいっぱいにストレートを決められ三振をとられた打者のように、天を仰いで首を垂れるほかなかった。野球好きにしか通じない例えで申し訳ない。

『神画』の衝撃・1

人類がその歴史を終えた地球に一人の女神(あるいは天使)が降り立つ。
美しく咲いた一輪の花に、女神は語りかける。

「どうしてこうなっちゃったんだろうね? 私は人間を愛していたのに」

その表情は、滅びしものの運命を嘆き、悲しんでいるように見えた。
・・・そんなイメージ。

それほどまでに静謐で、だけど決して硬質ではない。生命と太陽の暖かさは残っているけれど、動くものの姿はない。

これホントに地球で撮りました!? 

そんな印象を持つほどに、僕らの住むこの世界とまったく違う異界。僕らの目の前にある、もっとも遠い場所。そんな世界を創出することに、これ以上ないくらい成功している。
あと1センチ寄っても引いてもだめ、光の具合もこれしかありえない、というギリギリの線を突いた構図による、とても緊張感のある、それでいて優しい美しさに満ちた幾葉もの写真。写真家と映画監督が手を組むとこれほど痺れるものが出来上がるのか。感動より畏怖のような感情に震える。

神や天使といった造物主との闘いを描く(≒神を描く)はずだった『サイボーグ009』の〈天使編〉〈神々との闘い〉編を描き上げることなくこの世を去った石ノ森章太郎。

神の名を冠した『ヴィーナス誕生』というアルバムを世に送り「この先どんな高みに到達するのか」と思わせた矢先に自ら命を絶った岡田有希子。

『THE IDEON』で二つの人類の運命を決する〈無限力〉を描き『聖戦士ダンバイン』で〈輪廻する魂の休息と修練の場〉を手がけた後、しばらくして鬱病を患いアニメ作家として一度終わった富野由悠季。

「これ以上のライブ、パフォーマンスは人間には難しいのでは」と言われるまでの境地に至った後、もはや「解散コンサートを悔いなくやりきる」ことにしかモチベーションを見いだせなくなった℃-ute。

そういう表現者たちを見てきた僕は、

「人の域を超え神のそれに触れようとすることは〈終わりの始まり〉であり、それをしようとする表現者はイカロスのごとく滅びの道を進む」

そう考えるようになった。そんな僕だから、

「『神画』はAV女優・戸田真琴のキャリアが終わるこの時でなければ出来なかった」

「神の怒りに触れず、あるいはそれを受け流して神を描くには、あらかじめ〈終わり〉を約束しておかねばならなかった」

なぜなら、すでに終わりに向かっているものをさらに終わらせることは神にもできないから。そんな風に捉えている。
神さえも干渉できない表現。孤高、極北、・・・そんな言葉が頭に浮かぶ。


『神画』の衝撃・2

驚いていいことは、まだある。

AV女優のヌードが載っている(ただし全体に占める割合は多くない)写真集なのに、エロスの匂いがない。DVDを再生するモニターの中ではあんなにいやらしい戸田真琴さんの裸体が、まったくいやらしくないのだ。

実をいうと、ただ単に「エロさを感じない」AV女優さんというのは、僕にはいる。その人には動画でも静止画でもどんな媒体でもいつもいやらしさを感じないのだけど、さんざんお世話になった程度にはいやらしいはずの戸田真琴さんはそうではない。
それなのに、まったくいやらしく見えない。そう撮ることができる/できているというのは衝撃だったし、逆にいやらしいAVを撮るにも才能と技術が要るという当たり前のことも、あらためて認識する。

「いやらしくない裸」を、ヘテロセクシャル男性の性的興奮をかき立てるような「いやらしい裸」を提供してきたAV女優の身体で表現してみせる。アイロニーかもしれないし、一糸まとわぬ肉体の美しさという古来数多の芸術家が向き合ってきたテーマを「これ、忘れてない?」とあらためて突きつけたものかもしれない。

美しいのだが、それよりも、かなしい。そんな裸像がそこにはあった。

写真とは恐ろしいもので、白飛びするくらい光を当てて撮っても、それがかえって被写体の〈陰〉や〈闇〉を際立たせてしまう。そんなことを『神画』は教えてくれる。同時にその〈陰〉や〈闇〉が、これは間違いなく戸田真琴さんを写したものであるという説得力にもなっている。そうそう戸田真琴さんってこういう人だよね、と納得させる力。ヌードのあるなしに関わらず写真というものは、いやあらゆる表現は対象と表現者を丸裸にするのだ。

裸といえば1980年代に好事家の熱烈な支持を集めた『プチトマト』シリーズの清岡純子は、同性愛者だったこともあって被写体を性愛の対象として捉えるエロスの写真家だったが、『神画』からエロスの匂いがしないところをみると、飯田エリカさんは(比較するなら)アガペーでもって作品を形作りたいと考える写真家なのだろうか。
この流れでいえば、戸田真琴さんは人間はアガペーでありながらタナトスの薫りも漂わせ、さらに職業はエロスであるという複数の矛盾をはらんだ存在。その矛盾に惹かれるのかもしれない。

表現者・戸田真琴と僕

「解釈に〈間違い〉はないので」
感想書きますね、とお渡し会で伝えた僕(その時はこんなに長くなると思わず、ファンレターにするつもりだった)に、戸田真琴さんはそう返してくれた。誠実な表現者だという思いを強くした。

初めて会った戸田真琴さんが〈表現者〉だったことは、僕にとって幸運だったのか不幸だったのか。そんなことを考える。

2023年以降の戸田真琴さんは、表現者として文章を書いたり映画を撮ったり、あるいは何か話したり発信したりという風に活動したりしなかったりしていくのだと思う。

エッセイ集やコラム等を読むかぎり、戸田真琴さんの文章は好きだ。伝えたい思いが止まらない、いま自分の中にあるものを全部言語化して書き出さなければ意味がない、そんな心が見える。

だけど、やっぱりコワイ。
一切の言い訳やごまかしを自分に許さない、内心に背く言葉は絶対に発しない、それによって誰を敵に回そうと一切かまわない、なぜなら私は私(とあなた)を愛するからだ、・・・という感じの「覚悟」を持った言葉。
それは強い。その強さにしばしたじろぐ。やはり戸田真琴さんは愛で鍛えた刃なのだ。

ことに、彼女の愛の障壁になるもの、愛するものの尊厳を傷つける者と対峙する時、戸田真琴さんは一切の容赦をしない。怒り、嘆き、悲しむ。誰かのために涙を流せる優しさを持つ人だからこそ、その涙のような言葉のひとつひとつが胸に刺さる。

齢五十を過ぎて来し方を振り返れば、支配欲が強くつまらないことですぐキレて、他者への共感性をほとんど持たない・・・そんな特性のせいか、親密な人間関係というものを築けず、いつも利用し利用され、傷つけ傷つけられてきた。異性に対してはなおさら。

戸田真琴さんの怒りと悲しみの言葉は、かつて傷つけてきた女性たちの姿をとって、
「これがお前の正体だ。お前が愛を語るな。お前は愛することも愛されることもない、その資格もない者なのだ」
と突きつけてくる。これは真剣に疲弊する。

誰かのために本気で怒れる戸田真琴さんと、自分にしか興味がなく、いつも誰かを無意識かつ徹底的に踏みにじってしまう、時としてそれに悦楽をおぼえてしまう僕とは、きっと本質的に理解しあえない。いつか必ず決定的な対立を迎える。
それがわかるから、DVDを売り払い、あらゆる情報をシャットアウトして、まったく関係ない人生を送ろうと何度も考えた。
だけど、そのたびに引き戻されてしまう。気が付くとFANZAで、ラムタラで、DVDを買う自分がいる。

AV女優・戸田真琴と僕

戸田真琴さんの作品を初めて見たとき、
「どうしてこの人は自分を罰するように行為するのだろう」
その印象はどの作品にも、年数を経ても続いた。

「ここではない、どこか」へ行きたい。そのために、昨日までの自分を破壊したい人。あるいは、観念的に自己を破壊することで抑圧からの解放、ブレイクスルーを目指す人。
・・・〈めちゃくちゃにされる〉ことで疑似的に自己を破壊できるこの道に進まなければ、本当に自分を(もしかしたら肉体ごと)破壊してしまったかもしれない人。
それが、作品から僕が感じ取った戸田真琴さん像になった。

快楽を表現するはずの声が、表情が、痛みと恐怖の悲鳴、苦悶の表情に感じられたことが何度あっただろう。
それでいて、
「もっと痛みを、苦しみを。この罪深い私を壊して、ここから解き放って、新しく生まれさせてください。そうでなければ私は私を愛せないのです」
そんな願い、祈りのようなものが込められているような行為。

一方で、成人向け映像作品としてちゃんと刺激的にできている。それは単に僕の性的嗜好の問題なのかもしれないが、嗜虐も被虐も、コミカルもシリアスなドラマ作品もできる非常に優秀な女優なのだ。

僕が戸田真琴さんに惹かれたのは、彼女のブレイクスルーの道程、その物語がどこにたどり着くか、きっとそれを見たかったのだと思う。
だから、エッセイ集を上梓し、映画を撮り全国を回って上映・・・ときての引退(前段階としてメーカー移籍)発表は、とても自然かつ最高の展開と感じられた。

ああ、もう観念的に自分を破壊しなくても、自分を愛せるようになったんだ。
戸田真琴さんの魂は「ここではない、どこか」へたどり着いて、実際に服を脱がなくても表現者として〈丸裸〉になれるから、脱ぐことをしなくてよくなったんだ。

これ以上ない帰結に感動し、涙が出るほど嬉しかった。
言葉は〈引退〉であるが、言い換えでなく本来の意味での〈卒業〉を迎えたのだ。言い換えで消費しつくされ陳腐化した〈卒業〉という言葉を使いたくなかったのか、移籍の時に一度使ってしまっているから、それこそ陳腐化してしまうことを避けたのか。どちらにせよ〈引退〉に間違いはなく、覚悟の伝わるいい言葉だと思う。

何かを成し遂げた人間は内面から輝き、とても魅力的だ。戸田真琴さんもそういう人間の一人になった。女性ファン、成人向け映像作品を見たことのないファンが一定数、存外多くいるのも理解できる。

そんな戸田真琴さんだから、最後の一年、12本の作品に自分のやりたいことだけを詰め込むための移籍だろうというのは、容易に想像できた。前所属先は、撮る側のクリエイティビティを優先するような空気が作品群からも伺えたから。そこが魅力でもあり、ノっていける女優なら長く活躍できるのだけど、すでに「撮る側」でもある戸田真琴さんが、自分の表現をもっと追求したくて導いた答えだったのだろう。あくまでも想像だが。

移籍後の戸田真琴さんは、解放された魂のおもむくまま「AV女優・戸田真琴」の表現したい性愛の姿を叩きつける作品群を世に放った。

明確な意思を持って能動的に、貪るように行為に溺れてみせる(狂う、とすら形容したくなる)姿は輝きを放ち、性的興奮とは違うエモーショナルな感動を呼ぶ。
正直いって僕の性的嗜好からは外れるのだが、圧倒的な魅力があるのだ。
性的欲求の解消を目的としないAV鑑賞は、初めての経験だった。

僕の意識の中で、すでに戸田真琴さんは性的欲求を手軽に処理するツールとして消費されるAVの世界の人ではなくなったのかもしれない。
AVに限らず、セックスワークで心おきなく欲望を処理するには、そこにあるもののすべてを意識の上で〈欲望処理ツール〉と見做さなければならない。セックスワークが職業差別を受けるのは、彼ら彼女らをツールとして扱う意識に、性別やその他の属性を問わず強く汚染されているから、かもしれない。
戸田真琴さんは、もうツールではない。

戸田真琴≒庵野秀明?

ラスト3本は、さらに驚愕の内容。
〈実録・戸田真琴〉というか「AV女優・戸田真琴」とその伝説の解体および封印。それがサンプル動画を見た第一印象だ。
性的欲求を手軽に処理するツールとして消費されるAVでそんなワタクシゴトをやっていいのか!? そうか、いいのか! という衝撃。

『競輪上人行状記』(引用者注・西村昭五郎監督/新東宝1963)は、岡本喜八『肉弾』(引用者注・東宝1968)のように、作家が一生に一度しかつくれぬ自分自身が主人公の作品に位置づけられる映画なのである。
(強調ママ)

松井修「西村昭五郎の地獄に落ちるギャンブル映画『競輪上人行状記』」洋泉社1995『映画秘宝』Vol.2「悪趣味邦画劇場」P111

『肉弾』とか『競輪上人行状記』といってもわかる人はそんなに多くないから、ハッタリを利かせてみよう。

戸田真琴はAVの土俵で『新世紀エヴァンゲリオン』をやった

これなら伝わりやすいかもしれない。
表現者としての戸田真琴さんは、とりあえず庵野秀明監督くらいのところまでは到達している・・・これでいこう、みんな使っていいよ。無理か。ハッタリや大風呂敷は似合わない。

最終二作はあおいれな監督だそうだが、実質的には共同監督といっていいのかもしれない。『ア・ホーマンス』の小池要之助(監督→降板)と松田優作(主演・プロデュース、小池監督降板後に監督も兼任)のような形にならなかったのは幸い。

魔法

AVはファンタジー。
〈AVを性の教科書にする若者〉やいわゆる〈AV新法〉の影響もあって、昨今よく耳にする言葉だが、ファンタジーの世界の住人としての生を全うし、そこに葬り、完全に終わらせていく。そんな営みに感じられる。

最後の魔法は魔法を解く魔法

出典失念

僕の好きな言葉。
おとぎ話の「王子様と幸せに暮らしました」の一言が「もうヒロインの人生にドラマティックな波乱はない」ことを示すような(そんなはずはないのだが、一種の〈お約束〉として機能する)、一つの物語が大団円を迎えるのに不可欠な要素だと思っている。
しかし、この魔法をかけてくれる物語、表現者は意外に少ない。テレビドラマでも映画でもアニメでも漫画でも小説でも、完結させた途端に受け手から続編やスピンオフを希望する声が上がるのは、物語の終わらせ方か受け手の理解のどちらか、あるいは両方が不完全だからだ。

表現者の戸田真琴さんはファンタジーの住人らしく〈最後の魔法〉を使って「AV女優・戸田真琴」を終わらせるパーフェクトな物語を作った。受け止め方を間違えないようにしたい。実際に作品を見たらまた考えることになると思う。

ところで。
戸田真琴さんは、「AV女優・戸田真琴」というファンタジーの魔法を解いて〈シン・戸田真琴〉に生まれ変わるのだが、2月1日からいきなり「大山静代」とか「西園寺彩香」なんて改名することは・・・さすがにないか。

あざとかわいい〈みんなのまこりん〉もまた、戸田真琴さんの大事な作品である。
歯医者で口の中をガリガリやられ、血の味が残ったまま向かったイベントで、〈まこりん〉の笑顔とトークに元気づけられ、帰りの足取りが妙に軽くなったことは忘れない。

以上が、AV女優、そして表現者としての戸田真琴さんについての僕の現時点での〈解釈〉だ。僕は、
「最後に作品を完成させるのは受け手」
と信じている。だから、戸田真琴さんのここまでの物語は僕というフィルターを通すとこうなります・・・ということ。
解釈だから間違いはないのかもしれないが、同時に、絶対に〈正しい〉ものではない、そんなことがあるはずはないという妙な確信がある。

「えー、なんかすごい〈重い女〉みたいじゃないですかー」

ケラケラ笑う戸田真琴さんの姿が容易に浮かんでくる。
いいじゃないか、赤の他人が簡単に読みきれるほど単純な人間なんかいないわけだし、人生だって当たりと外れ、トライ&エラーの九十九折。外れることは負けじゃない、諦めることが負けなんだ。

舟ひとつ すべての空に夜は更けて 瞼の裏に 君の面影

O形虹児


さて、ここからは人生初の有料エリア。といっても完全に自分語りなので、読んでやろうという優しい方がいらっしゃいましたら、名前が気に入った競走馬の応援馬券を買うつもりで遊んでみてください。

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