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「リコリス・リコイル」の感想:「貴方がそこに居てくれて(そうであってくれて)嬉しい」の物語

今更なのですが、「リコリス・リコイル」を全話観ました。私はあまり、こういう可愛い女の子が出てくる感じのアニメを観ないのですが、これは良い作品だなと思いました

こんなに良いと思ったアニメはここ数年だと、「翠星のガルガンティア」とか「ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン」とかです。

本放送の時にあらすじとかチラ見して「これは好きになりそうなアニメだし、観るなら一気観したい」と思い、最終回が終わった後、アマプラで一気に観しました。あまりにも良かったので、スピンオフのライトノベルまで買って、先日、読み終えました。

という訳で、せっかくなので、「リコリス・リコイル」を観て思ったことを備忘録的に書いてみたいと思います。

可愛い女の子が主人公のアニメについて書くのは少し恥ずかしいのですが、やっぱ、映画にせよ本にせよアニメにせよ、何らかの作品に触れて心が動かされたことがあったら、後で振り返ることが出来るように残しておかないと勿体無いですもんね。


さて、まず書いておきたいのですが、こういうアニメだと、設定とか、話の進め方とか、登場人物のセリフとか、ちょっと「ん?」と思ってしまうような練り込まれていない部分が有ったりするものなのですが、「リコリス・リコイル」ではそういうのをほとんど感じず、「こうあって欲しい」ところで、実にスパッと期待通りの答えが返ってくるような、一種の爽快を伴う安定感が全話を通じて有りました。

足立監督はアニメ初監督作品なのだそうですが、本当に見事と思います。今後の作品にも注目していきたいです。

そして、そういう演出面、技巧面の完成度の高さについての評価はひとまず置いて、「リコリス・リコイル」がどんなアニメなのか、読み取れることはないか、と考えてみました。

私の答えは、「リコリス・リコイル」は「貴方がそこに居てくれて嬉しい」ということをずっと言っている物語ではないかな、ということです。


(ここから先、大きなネタバレはありませんが、少々、物語の内容に触れる部分があります。リコリコ未見で、気になる方は、是非、感想文を読む前に全話をご覧になってみてください。「リコリス・リコイル」は「貴方がそこに居てくれて嬉しい」の物語ではないか、という考えを提示出来て、私はそれで満足です)

登場人物には様々なバックボーンが有り、意地悪なライバルや、悪だくみをする黒幕、性的マイノリティの人物や、阻止しないといけない大事件を起こすような強敵も居るのですが、いずれにせよ、基本的にはその人物の生き方や存在の否定まで行くことは無かったよな、と思いました。

それは登場人物のセリフからだけでなく、アニメ全体のストーリーや設定などの大きな視点から見てもそうだったと思います。

(女子高生を暗殺者に育て、秘密裡にテロリストを殺害していく公的暗殺集団があるような狂った架空の日本が舞台なのですが、だからこそ、人を殺さないリコリコメンバーの活躍が際立っていたのかなとも思います)

簡単に言うと「登場人物の存在をあるがままに受け入れる」、悪いことをする奴については、「罪を憎んで人を憎まず」

そして、「起こったトラブルは解決すれば良い。貴方が居ること、貴方が『そうであること』を私は否定しない。貴方は貴方のままでいて良いし、私のそばにいてくれて嬉しい」という考えがずっと貫かれているアニメだったよな、と全話のエピソードを観て私は読み取りました。

そして、この作品の根本に流れていると読み取れる思想を、登場人物として体現しているのが主人公の一人の千束ちゃん(金髪の方。かわいい)。この子が本当に良い子で、出会う人すべてに「貴方がそこに居てくれて(そうであってくれて)嬉しい」というのを常に出しているキャラなんですよね。

そして、まじめでちょっと融通の利かない、もう一人の主人公たきなちゃん(黒髪の方。かわいい)も千束ちゃんと過ごしていくことで、変わっていく…というか、たきなちゃんだけでなく、周りの登場人物達も良い方向に変わっていくんですよ。

「主人公は変わらないけど、主人公に触れることで周りの登場人物が変わっていく」という作品で、個人的に思い浮かべるのは、アニメだと「マクロス7」

歌だけで戦いを終わらせようとする主人公 熱気バサラに対して、最初は馬鹿にしていた周りの登場人物たちが変わっていくし、そして、鑑賞者である我々もバサラのことが好きになって応援したくなります。

「マクロス7」は、「俺の歌を聴け!」が、いつの間にか、我々の方が「お前の歌を聴かせてくれ!」に変わる素敵な作品だと私は思っています。

リコリコの話に戻ると、たきなちゃんの「心臓置いてけ!」のシーンとかは、あの時、鑑賞者である我々も一緒になって心の中で叫んでいたでしょう。

つまり、たきなちゃんはある意味、我々鑑賞者の分身の役割もあるのだと思います。

千束ちゃんに影響されて、たきなちゃんと一緒に、我々鑑賞者も少しずつ変わり、そして、「貴方がそこに居てくれて(そうであってくれて)嬉しい」は、いつの間にか、たきなちゃんや、我々にとって「千束ちゃんがそこに居てくれて(そうであってくれて)嬉しい。ずっとこの世界に居て欲しい」という想いにも変わっているのでした。

それは「リコリス・リコイル」を観ることを通じて得ることの出来た素敵な体験だったな、と私は思っています。

どうでも良い話ですが、リコリコの2期では、追い詰められた状況で千束ちゃんが実弾を使いそうになるのを、たきなちゃんが制止して「千束は人を殺さないんじゃないんですか!?」と怒るシーンとか有るのではないかと思ったりしています(『マクロス7』第28話参照)

さて、少し大きな話に無理やりしてしまいますが、「貴方がそこに居てくれて(そうであってくれて)嬉しい」というのは現代社会では結構、意味のある考え方ではないかと思います。

SNSなどを見てると感じるのですが、反対意見や、気に食わない意見を持つ人や集団に対し、まるでその人達の人格や存在までを否定する傾向が世間…というか世界中であるのではないかと、と私は思っています。

政策という大きなものから、個人の嗜好などの小さなもの、差別や性的嗜好のようなセンシティブな話題まで、単に議論の中で意見が違っているだけなのに、自分とは違う意見を持つ相手に「死ねばいい」「存在が無くなればいい」「この世界に居てほしくない」くらいの強い言葉や文章が使われるのを、結構、目にします。

否定の言葉が先鋭化することで、その言葉を浴びた人が傷付き、時には自ら命を絶つことも有り、そのこと自体は非常に深刻な問題と思います。

一方で個人的に見逃してはいけないと思うのは「ネット上でいくら強い言葉で相手の存在を否定しても、相手の存在が消えるわけではない」ということです。

これはこれで、人の心の健康に対して、割と良くない影響が有るのではないか、と思っています。

例の掲示板の創設者の人の話だったかな、と思うのですが「さんざん死ねとか書き込まれたけど、ある日、いくら死ねとネットに書き込まれても、自分は死なないことに気付いた」とのことです。

相手がこの境地に達してしまうと、言う側だけが心を乱し、言葉を先鋭化させ、そして強い言葉を使って存在を否定したとしても、言われた方は(傷つき命を絶つ人も多数いるものの)、魔法ではないので、言葉自体で死んだり消えたりすることは無く存在し続けます。意見を変えることもほとんどありません。

ネット上の言葉が先鋭化しやすいのは、「相手の顔が見えず、拳も届かない」という安全地帯から発せられるからということも有りますが、「言葉自体では、相手の存在を変えられない」ので、「もっと強い言葉を使わないといけない」みたいな強迫観念に駆られている部分も有るのではないか、と思います。

そして強迫観念に駆られて、強い言葉を使えば使うほど、結局は「自分の言葉は何も変えることは出来ない」といつか自分の無力さを突きつけられることになります。

何度も言いますが、ネット上の暴言で傷つき、苦しむ方々はたくさんいますが、こういう「最大限の強い言葉を使っても、自分の言葉では何も変わらない」ことをいつまでも突きつけられ続ける状態というのは、言われる側はもとより、言う側の方にも結構なダメージが有るのではないかと思います。


「相手の存在を強い言葉で否定すること」は、言われた方は傷つくし、言う方も「相手が気にしなければ」(←重要)自分の無力を自覚させられるという、とにかくみんなが疲れる状況に現代社会は陥っているのではないか。

そして、多くの人がそういう状況に現に疲れてしまっている(憑かれてしまっている?)のではないかと思います。

そんな中での「貴方がそこに居てくれて(そうであってくれて)嬉しい」という考え方です。

意見には対立が有るし、解決しなければならない問題を起こすことは有るかもしれないけど、だからと言って、単に意見が違うだけの相手の人格や、存在自体を否定する必要は、実は無いのではないかと思います。

公的な場所での議論で意見が違ってたとしても、議論が終わった後は、私的に仲良くしても良いと思います。リコリコ的に言えば、喫茶店でコーヒーでも飲みながら談笑して、世間話をして、ボードゲームをしても良いのだと思います。

どうせ、いくら「お前はこの世に存在してほしくない」と強く言っても、その願いは滅多に叶わないし、叶ったとしたら最悪の事態な訳です。そして、意見の対立と、解決しなければならない問題は残り続けます。

それなら、「意見は意見」として、いっそのこと、違う意見を持つ相手に好悪の感情を持ち出さずに、まずは「貴方がそこに居てくれて(そうであってくれて)嬉しい」と一旦、思ってみても良いのではないでしょうか。

もしそれが出来たとしたら、それは良いことだろうと思いますし、少なくとも、自分の言葉の無力さを突き付けられて、疲れることは無さそうです。

「貴方がそこに居てくれて(そうであってくれて)嬉しい」とずっと言っていた千束ちゃんを振り返って、何となく、そんなことを思ってしまったのでした。

そして、そんな千束ちゃんに影響されて、良い感じに成長した我々の分身のたきなちゃんのことを想い、かなり難しいとは自覚しつつ、自分も「貴方がそこに居てくれて(そうであってくれて)嬉しい」という感じを、少しでも持っていければ良いな、なんて思うのでした。

と、いった感じで「リコリス・リコイル」はすごく良いアニメだったし、そこから読み取れる考え方も、現代社会を生き抜くうえで、結構、為になるものではなかったか、ということを何となく思いましたので、備忘録的に書いてみました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


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