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「人生を変える読書」

「人生を変える読書」(堀内勉 Gakken)

大学教授で、資本主義研究会を主催し、「読書大全」も著した著者による、読書の意義や価値について述べた本。
「どのような本を読めばよいですか」という問いの多さが、いまの時代がはらむ深刻な問題を浮き彫りにしているのではないか(15ページ)など、読書についての深い話が随所に出てきて、なかなか面白かった。

 さはさりながら、「どのような本を読めばよいですか?」と聞かれる機会があまりに多いので、なぜそのような質問が多いのだろうかと、自分なりにその理由を考えてみました。「どのような本を読めばよいかは、どう考えても自分にしかわからないことのはずなのに、どうしてほかの人にそれを聞こうとするのだろうか?」と。
 その結果、むしろそうした問いの多さこそが、いまの時代がはらむ深刻な問題を浮き彫りにしているのではないかと思うようになりました。
 つまり、
 「自分が何をしたいのかがわからない」
 「自分が何をするべきなのかを、誰かに教えてもらいたい」
 「自分が何を好きなのかがわからない」
 「自分が何を好きであるべきなのかを、誰かに教えてもらいたい」
 という姿勢が、世の中に広く蔓延していることの表れなのではないかと思い至ったのです。(15-16ページ)

 そこで、「まずは読書をしてみてはどうですか?」とアドバイスすることになるのですが、するとまた、「だから、どんな本を読めばよいでしょうか?」と問いが出てきて、堂々巡りになってしまうのです。
 結論から申し上げると、それはもう自分で考えていただくしかありません。「自分がどのような軸に従って生きるのか?」「どのような人生観を持って生きるのか?」を自分で考え、自分で生きる方向性を決めていただかなければならず、それは誰も教えてはくれません。(23ページ)

 そして、現代という時代はまさに、世界のどこかに「大きな物語」があって、その物語に沿って生きればよいという楽観的な状況ではなくなっています。
(中略)
 それではここでもう一度、「どんな本を読めばよいですか?」という質問に戻りましょう。
 それについて私は、「自分自身に聞くしかない」と答えました。
 先に述べたように、質問者の抱える個別の事情を何も知らないという理由もありますが、そこには、もはや誰かが何かの大きな指針(物語)を与えてくれるような世の中ではないという時代認識があるのです。(24-25ページ)

 これに対して、たとえばイギリスのパブリックスクールでは、伝統や社会規範に従うことに重きを置いた教育が行われています。個人の自由を重んじる一方で、共同体的な価値観にも重きを置いていて、ルソーの自然主義的な教育論とはかなり趣を異にしています。
 イギリスの教育については、自らがパブリックスクールで学んだ英文学者の池田潔の「自由と規律---イギリスの学校生活」(岩波新書)や、パブリックスクールで教鞭を執った経験を綴った松原直美の「英国名門校の流儀---一流の人材をどう育てるか」(新潮新書)が参考になります。
 「子どもにどのような本を読ませたらよいか?」という質問に対する直接の答えにはなっていませんが、そのような質問を問う前に、これらの本も参考にしながら、そもそもお子さんの教育についてどう考えるのか、一度、ご家族で話し合ってみることをお勧めします。(26-27ページ)

 話を元に戻しますと、もし「考えるといっても、何を考えたらよいのかわからない」という場合は、まずはそうした思考の中心にある「自分」について考えてみてはどうでしょうか?
 人というのは、自分のことについては意外なほどわからないものです。「自分とは何か?」について真剣に考え始めると、次のような根源的な疑問が次々と湧いてくるはずです。
 「自分の人生とは何か?」
 「自分は本当は何をしたかったのか?」
 「自分の人生はこのままでよいのだろうか?」
 「これまでの人生は、本当に自分の人生を生きてきたのか?」
 「じつは他人の人生を生きてきたのではないか?」
 「自分は他人がよいと思う人生を、ただなぞっていただけではないだろうか?」
 「であるならば、そうではない人生とはいったい何なのか?」
 もちろん、こうした抽象的な問いに対する答えがすぐに出てくるわけではありません。でも、それらの問いに向き合うところがスタートラインになるのだと思います。(33-34ページ)

 つまり、ヘーゲルは、個人の精神と社会の精神は相互に依存し合っているものだと考えていたのです。
 このように、人の精神が相互につながっているということは、古くからいわれてきたことです。ですから、身体にとって食べるものが大事であるのと同じように、私たちの精神にとっては体験や読むものがきわめて重要なのです。
 食べるものにこれほど気を使っている現代人が、精神が「食べるもの」に無頓着であるというのは、とても奇妙であり残念なことです。(42-43ページ)

 "A great leader is a great reader"(「よき指導者はよき読書家である」)という言葉があります。
 アメリカの経営者に読書好きが多いのは有名です。
(中略)
 こうしたリーダーたちがどのような本を読んでいるか興味のある方も多いと思います。そうした期待に応えるべく、ゲイツ、ベゾス、マスクの三人に著者の山崎良兵がインタビューして、彼らがどのような本を読んでいるのかをまとめたのが、「天才読書---世界一の富を築いたマスク、ベゾス、ゲイツが選ぶ100冊」(日経BP)です。本書を通じて、ぜひ一度、世界を変えるイノベーションを起こした創業者たちの頭の中を覗いてみることをお勧めします。(66-67ページ)

 「精神的に立つ」ことを意識するというのは、自分が固有に抱えている問題に自覚的な状態であると言えるでしょう。
 そして、その固有の問題を自分の力で超えていくために、手段のひとつとして人は本を手に取ります。そのために読書する人からは、「どんな本を読んだらよいですか?」という質問は生まれようがありません。
 つまり、読書とは「自分で自分をつくっていく」ことであり、「自分が何を望んでいるのか?」を明瞭にするための作業にほかならないのです。(72ページ)

 読書についても同じで、一足飛びに何かの答えを求めても意味がありません。考えてもわからないことはたくさんありますが、それでも、考えるのをあきらめないことが必要なのです。
 幸せになるために本を読むといっても、まず自分にとっての「幸せ」が何なのかを考え、本によって疑似体験し、それを感じていかなければ、深いところまで到達できません。
 いわば、自分の人生の習作をひとつずつ描いていくのが、今日の一冊の読書なのです。ときには習作がうまくいかなかったように、「これはダメだったな」という本を手に取ることもあります。でも、そんな体験があるからこそ、次の本を選ぶ選択眼が磨かれていくのです。
 人間は、体験の積み重ねで成り立っています。瞬間、瞬間の選択があなたという人間をつくっていくからこそ、「どんな本を読むか」「どの本を選ぶのか」というせんたくが、非常に重要なのです。(85-86ページ)

 このように、「自分の外に対する疑問」と「自分の内に対する疑問」を、読書を通じて考えていくと、どのような事柄についても、「本当にそれについて断定的に言えるのか?」という問題に行き当たります。そして、ものごとを知れば知るほど、私たちは必然的に謙虚になっていかざるをえないのです。(116-117ページ)

 では、自信を失わないためには学ばないようがよいのかというと、もちろんそうではありません。人は学べば学ぶほど自信を失う反面、学べば学ぶほどそんな自信のなさに対して、自分なりに対峙していく精神力や覚悟を身につけていくからです。
 自分が何もわかっていないことの気持ち悪さに耐えて、足元がグラグラしていても一歩一歩前へと進んでいく芯の強さを養うこと。---これこそが教養を身につける意味なのではないでしょうか。
 学べば学ぶほど世の中や自分のことがわかるようになり、自信満々になっていく...という単純な話ではなく、学べば学ぶほど世の中には単純な真実や確かなことなど存在せず、むしろ世界や人生というのは、不安定な状態が普通なのだということがわかっていく。
 それでも人は生きていかなければならないし、実際にいま生きているという現実を素直に受け止め、人生の意味だとかなんだとか偉そうに言う前に、まずは「きちんと生きてみること」が自分に課せられた使命だと理解することがスタートラインだということです。(119ページ)

 なぜいまここでこの話を持ち出したかというと、私は日本のビジネスパーソンは働きすぎだと思うからです。もう少し正確に言うと、自分が何のために働いているのかよくわからないまま、ただ心の奥底の不安を打ち消すために働いている人が多いような気がするのです。(141-142ページ)

 現状を見ると、日本の普通のビジネスパーソンの仕事対勉強の割合は、よくても9対1くらい、下手をすれば10対0くらいではないでしょうか。ここでいう「勉強」とは、もちろん受験勉強などではなく、読書などを含む自己研鑽のことです。
 21世紀になったいまでも、なぜそのような状態が解消されないのか。そこにはさまざまな原因がありますが、ひとつには日本の組織の中には「組織に対する忠誠心の貯金」のようなものが存在するからだと思います。この「貯金」の増やし方はさまざまで、業績を上げるという正攻法以外に、身も心も会社に捧げるといった高度成長期的な手法がいまだに機能しているように思います。
 つまり、徹底的に忠誠心を示す、その代償として自己を犠牲にすることで、その組織の一員として認められていく。そしてそれを「社内預金」として長年かけて積み立てることで、組織の中をだんだんと上がっていくということです。
 長時間労働がその典型ですが、そのほかにも上司との飲み会、接待、ゴルフ、麻雀などもそれに当たります。長時間労働によって「貯金」は徐々に貯まっていきますが、残念ながら、それは社外ではまったく通用しません。いわば、会社内部という場でしか通用しない地域通貨のようなものです。(142-143ページ)

 読書をすることで、さまざまな人に出会い、彼らとの対話を通じて、新しい見方や考え方を知り、世界を広げることができ、そうした閉塞感から抜け出すことができます。そして、少しずつ、自分のメタ認知能力を高めながら、自分自身の考え方や人生観を熟成させていく。そうした読書こそが、あなたが人生を生き抜くための力をもたらしてくれる読書なのです。(148ページ)

 つまり、人生は短いと嘆く人が多いが、それはその人自身が短くしているからだということです。そして、他人に人生を振り回されないようにして、貴重な時間を自分自身のために使うためには、自分が死すべき運命にあるという必然を認識することが大切だと言っているのです。(セネカ「人生の短さについて」に対して)(182ページ)

 書評を書くようになって気づいたのは、アウトプットを想定して読書をするのと、ただ本を読むのとでは、読み方がまったく違ってくるということです。
 書評を書く前提で本を読むと、「結局この本のポイントを短くまとめたらどうなるのだろうか?」「自分の心に響いたこのあたりのポイントは、ほかの人にも同じように響くのだろうか?」「このテーマに関連したほかの本にも言及しよう」などと考えて読むようになります。
(中略)
 すると、自分にとっても内容の整理となり、その本のポイントや本質的な部分が記憶に残りやすくなるのです。(186ページ)

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