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伝書鳩 3

朝起きて、数時間湯に浸かる。そんなことができるのは、今自分が休職中だからだ。元々の精神的に、多動性と自閉性が混在していて、周囲に溶け込めていないと感じることが多くなってきたのだ。どこにいっても疎外感を少し感じるようになって、いつしか何にも貢献できていないと考えるようになっていた。仕事はデスクワークが中心で、各事業所、工場などの材料の仕入れや、人員の管理を主に任されている。上司達、上役達は自分の任期中に問題が発生せずに勤め上げることにだけ注意がいっている。この仕事が世の中にどのように、貢献できているのか、今後数年かけて社会で果たしていくことなど何一つ考えていないのだ。リスクを取らずに、仕事を回す。それは至極当然なことだが、いざ、問題が起きれば部下を叱責し、責任を押し付けて、追い詰めていく。それなりに大きな会社で創業者は文化人でもあり、企業としてのあり方や、社会に文化的に貢献することを考えた人のようだ。今の自分ではもちろん貢献など出来はしないが、この休職中に、自室に茶室を設る計画を立てているのだ。元々コーヒーばかり飲んでいたのだが、茶道の所作を生活に取り入れてみたくなったのだ。今自分が住んでいる、このマンションは、駅近だというのに、家賃の割には広く、未使用の部屋が余っている。はじめから一人で暮らすには広すぎていた。また貸しにはなるが、今はネットがあるので、スペース貸しで遊んでいスペースを有効活用しようと意識を高くしようなどと考えていたのだ。考えてみれば自分の気持ちの余裕のなさも上司達と同じで、少しでも効率よく無駄なく、そつなく、生きていようとしていたがために、今の状態になってしまったのだろう。本来なら、文化人として、ゆとりある生活をするはずが、時間や金銭の効率化を進めるあまり、精神をすり減らしてしまった。久しぶりに京都にいって帰ってきて、上洛前の自分と今ここにいる自分を比べると、明らかに意識の違いを感じる。一戸建、賃貸か、ルームシェアか、などと損得を考える事こそ、滑稽であり、自分が目指す文化人とはそもそも、無駄こそ楽しまねばならず、一服をするのにあんなに手間のかかる所作を要するなど、以前ならありえない行為だ。すでにその点前自体が形骸化しているとさえ思っていた。今だ計画段階で、そもそも茶道を習う稽古場も探していないというのに、形から入る性分であること、多動的に色々初めてしまうことを、どこかおかしく、他人事のようにも思う。その事こそが、今自分が抱えている病理となっている気がしている。茶室の設計と工事は彼に一任することにした。俺に風呂に入れと言った彼だ。風呂に浸かる事と茶湯に共通項を見出したのだ。電話で彼はおかしそうに笑っていた。少しは茶湯の心得があるそうだが、来月ここにきてもらってその話を詰める予定になっている。彼がここに来るのは初めてだが、自分なりにもてなして、茶室について有意義な話ができるだろう。茶室の名前は決まっていて鳩庵と名付けることにしている。完成した時にはここで茶会を催すことが当面の目標になりそうだ。

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