私を好きになってくれる、10パーセントの人へ。

wohsac、病に臥してたってよ。

先日、流行病に罹り、独りで家にいた時に考えたことがある。

それは、ふとした瞬間に私の頭を通り過ぎて行ったたわいもないこと。

家のどの部屋にも誰もいないから、視線がぶつかったりする訳ではないし、幸せのときめきなんて物は覚えていない。
これがある歌詞の一節だと分かった人は何人いるんだろうか。

話が脱線した。
思えば私の話は、毎回ほぼ脱線している。
レールの上を真っ直ぐ走れないのかもしれない。
あれも言いたいし、これも言いたいし、それも言いたいし、言い忘れたこともたくさんある。
でも、本当は何も言いたくない。
全て秘密にしておきたい。
私の書いている事は平坦でも真っ直ぐでもないのが私の人生とシンクロする。

話を戻そう。
私の頭をある思いが巡って行ったのは、確か食器を洗って、シンクを掃除し終わった時だった。

何故だか分からない。
「独りってことは、こういうことか。年老いてからもずっとこんな風に独りなのかな」と綺麗になったシンクを眺めているのか、リビングの壁紙を眺めているのか、視線の定まらない私は、本当に色んな意味でぼんやりと考えていた。
ただ、幸せとか独りとかいうことの輪郭について考えたのだ。

幸せって何だろう。
独りってどういうことだろう。
あまり考えなくても良いように毎日忙しくしている。
考えたくない訳ではなく、実際に忙しいので時間はあまりない。

ご存知の方も多いと思うけれど、私は一年の数ヶ月若しくは大半を2〜3時間の就寝時間で済ませている。
「就寝時間」なので、実際に寝ている時間、つまり睡眠時間はもっと短いのだ。
寝ていないことなど自慢にならないし、「忙しい」と伝えるのも本当は好きではない。
寧ろ嫌いだ。そんなことは言いたくない。
「忙しい」の一言で片付けて良いことなど多くはないし、その言葉はあらゆる運を遠ざけている気がする。
しかし、大切な人達に「ごめんね、今忙しくて」と言い続けて何年経っただろう。
ただ、残念ながら本当に忙しいので、そう言うしかないのだ。
仕事が忙しいということは非常に有難いのだけれど、「いつまでこれが続くのか」と辟易する。
私も本当はもう少し寝ていたいし、趣味に時間を使いたい。

この忙しさにかまけて、周りの優しさに甘えてしまっているし、「え?じゃあいつ寝るの?」と訊かれ同情されている。
「身体のために最低でも5時間は眠ってください」と医師に言われたことがあるが、「そうですね」と答えただけだ。
眠らない事は身体にも脳にも良くないことくらいは私にも分かる。

ここまでで「忙しい」という単語を何回書いただろう。

私の昨今の最大の悩みは、本をきちんと読めなくなったことだ。
文字の羅列としては「把握」するが、意味を理解していない。
正確に言うと、「理解したくない」と疲れた脳が拒絶反応を起こしている。

仕事に行けば「ゼロ」になることのないメールの受信ボックスを眺めては、「おはよう、日常」とため息混じりの言葉が唇から零れ落ちそうになる。
もう何も読みたくないと思ってしまうこともある。
ネットニュースも何もかもうんざりだ。
SNSも何もかもどうでも良い日だってある。

そんな状態で「速読」だの、多読だのをしようと鞭打つのが私だったけれど、本を握り締めて寝てしまうことや、本を落としてしまうこと――ちなみに私は本をとても大切に扱うので落とす行為は大嫌いで許せないのだが、やってしまうので、非常に嘆かわしい――家にいるのに立ったまま寝てしまうことが多かった。

私の大切な趣味が死んだ瞬間だ。
私が死んだのではない。
読書という趣味が文字通り音を立てて崩れ落ちて死んだのだ。
趣味も消え失せ、私の中で死んでしまうのだ。
その辛さは分かるだろうか。
大好きだった音楽も楽しめなくなって久しい。

つまらない話を長々と書いてしまった。
結局、私は忙しく寝ていないことだけが書き連ねられた駄文である。

幸せとは何か。
独りとは何か。
病に臥していた私は少し時間ができたので、考えてしまったのかもしれない。

仕事を休むということは、自由な時間ができるということだけれど、病に倒れて休んでいては身も心も休まらない。
ただ、空白の時間だけが残酷に流れていく中で、普段は見て見ぬふりをしていることが私に襲い掛かって来たのだろうか。


幸せは独りで作れるか

誰かと居ることで幸せを感じる事もあれば、より一層孤独を感じることもあるだろう。
今回私は、流行病に罹ったことで、独りでいることの良さも悪さも良く分かった気がする。

独り。
最高に自由で最低につまらない。
全てが自由だけれど、全てがない。
幸いなことに、独りでいれば誰かに病をうつしてしまうリスクもない。
家族を苦しめてしまうことがないから。
ただ、誰もここに居ないということは、逃れられない孤独と向き合わなければならないということを意味している。
耐えられるかどうかではない。耐えねばならぬのだ。

独りでみる映画は悪くないけれど、楽しくはないし、独りで食べるご飯は不味くはないけれど、美味しくもない。

独りでも幸せを見つけられるし、作れるだろう。
ただ、誰かの笑い声を聞くことや泣き顔を見ることがないだけだ。
それは凄くつまらない事なんだなと最近気付いた。
趣味を楽しむ時間がないと書いたけれど、最近始めた新しい趣味は独りで楽しめるし、寧ろ誰も居ないからこそ楽しいのだ。
ただ、それもずっとは続かない。
笑わせたり喧嘩する相手がいない。
それは幸せなことだろうか。
不幸せだろうか。

私は未だに幸せの作り方が下手くそなのかもしれない。


友人の一言

ネットニュースで、ある女性が元夫からDVを受けていた記事を目にし、友人に「何だか色々あって大変だよね。なんだろう、私達の年齢になると、守ってあげなきゃいけないよなと思うよね。もうこれは親の気持ちなんだろうか?」と連絡した。
友人からは「その気持ち、分かるよ」と返事があった。
私は「もうさ、親みたいな事思ってるから、こういうのって結婚向いてないのだろうか?」と訊ねてみたら、友人は「寧ろ向いてるので結婚すべき」と返してきた。
すかさず「できるもんならしたいと思うけれど、相手がいない」と私も返してみた。
次の友人の言葉は「100人いたら10人からはOKが出そう。その中の90人に間違えて声をかけてしまって全敗して自信を無くすようなことはないでほしい」だった。
きっと彼なりに心配(?)してくれていた。
私は「声をかけるのもめんどくさくてね」と返した。
何だろう、絶望しか生み出していない自分がいる。
補足しておくと、私は連絡はまめにする人間だ。
それは誤解のないように伝えておこう。

良いかね?
結婚というのはゴールではない。
スタートの一つになり得るものだ。
そして、そのスタートを切ったとしても、それが幸せと直結しているわけではない。

と頭の中で悪魔が囁く。
しかし悪魔よ、お前が語りかけている相手はそのスタートラインにさえ立っていないぞ。

私も人なりの幸せというものに興味はあるけれど、私が幸せになって良いわけがないとも思っている。
決してネガティブスパイラルに堕ちているわけではなくて、私は罪深い。
その自覚はある。


私を好きになってくれる、10パーセントの人へ。

ただ、友人が言ってくれた、私を好きになってくれる、10パーセントの人は勿論大切にする。
本当に10パーセントもいるのか?

残りの90パーセントの人へ。
私は変なヤツではあるけれど、害をなす者ではないので放っておいて。
自然と消えていく、というよりも水墨画の中に戻るので、それまでお待ちを。
ロード時間が長くて失礼。

10パーセントのあなたへ。
一応書いておこう。
私は変なヤツではあるけれど、恐らくほんの少し他者よりも優しいところがある。
傷付いた人は放っておけないお人好しなところもある。
老若男女、関係なく心配なものは心配だ。
泣いていたら大丈夫だろうかと思うし、笑っていたらこちらも幸せになる。
それは愛ではないかもしれないけれど、薄情ではないと分かってもらえるだろう。
私は仁義を通すところがある。
お金持ちではないが、仕事バカで真面目に仕事をしている。
見た目は褒められたものではないけれど、個性派がお好みの方にはお勧めだ。

独りぼっちのこの部屋で、いつかやって来る死を思いながら、熱に浮かされたようにそんな事を考えていた。

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