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ウクライナは戦うべきか

はじめに

2月24日、仕事が終わって車に乗っていつもの癖でスマホを開いた。ロシアがウクライナに宣戦布告をしたというニュースが目に飛び込んだ。「やりやがったな」驚きはしたが、予想外ではなかった。ウクライナのNATO入りを巡って、ロシアとウクライナの間で平行線の外交が繰り広げられていたからだ。他の国なら軍事作戦に踏み込むことはなかっただろうが、ロシアならもしかしてやるかもしれないと思っていた。だが、紛争でも威嚇でもなく、明確に宣戦布告と書かれると、平常心ではいられなかった。
近くのコンビニまで移動して、コーヒーを飲みながら状況を調べると、最初の攻撃は市街地ではなく、軍事基地をピンポイントで狙ったものだということが分かった。誤解を恐れずに言えば、少し安心した。ロシアに全面戦争の意志はない。ウクライナに力の差を見せつけて、要求を飲ませようとしただけだ。無論、犠牲となったウクライナ兵士とその家族は心から気の毒に思った。私の念頭にあったのは、シリア内戦である。国内の紛争にNATOとロシアが介入し、シリアの国土は焦土となった。軍事基地への攻撃だけで済めばまだいい方だ。NATOとロシアの代理戦争にだけは発展してほしくない。それが私の思いだった。
ロシアがウクライナに宣戦布告してから、様々な思いが駆け巡った。しかし、私の考えはテレビやSNS上に溢れる世論と隔たりがあった。そこで何回かに分けて、ウクライナ危機について私が考えたことを書き綴り、日本の外交と安全保障を考えるきっかけにしたいと思う。1回目は、なるべく中立の視点で、なぜ戦争が起きたのかを解説する。

冷戦からソ連崩壊まで

戦争の直接的な原因は、ウクライナがNATO(北大西洋条約機構)への加盟を求めたことである。NATOとは、アメリカを中心とする軍事同盟であり、1949年に創設された長い歴史を持つ。1945年に第2次世界大戦が終結してから、アメリカを中心とした資本主義諸国(西側陣営)とソ連を中心とした社会主義諸国(東側陣営)は、核開発や宇宙開発競争でけん制し合い、直接戦火を交えることはないものの、互いを明確な敵とみなし、対立を続けた。これを冷たい戦争、冷戦と呼ぶ。この中で創設されたNATOは西側諸国の連合軍とみなすことができるだろう。一方、NATOに対抗する形で作られたのが、ソ連を中心とする軍事同盟、ワルシャワ条約機構である。冷戦は1989年のマルタ会談まで続き、1991年にソ連は崩壊、ロシアを含む15の国に分かれた。
客観的に見ればソ連もワルシャワ条約機構も過去のものであるはずなのだが、実際の所、旧ソ連の国々はロシアと緩やかにつながり、ロシアにとっての防衛線であり続けた。冷戦下では、西側陣営と東側陣営が明確に分かれていたのだが、冷戦終結と同時に、その境界線がグラデーションになっていったのだ。冷戦終結前夜の1989年、東側陣営でありながら、ソ連ではなかったポーランド、ハンガリー、ルーマニア、チェコスロバキアが、続々と民主化を実現した。これらは東欧革命と呼ばれている。これらの国々はその後NATOに加盟している。
冷戦終結後、NATOは東方に拡大し、2004年、ソ連を構成していたエストニア、ラトビア、リトアニアがNATOに加盟した。ロシア目線で言えば、西側に「寝返った」のだ。一方、旧ソ連のベラルーシ、モルドバ、そしてウクライナは、ロシア寄りの政権が続いた。地図に、冷静時のNATO加盟国を青、ワルシャワ条約機構加盟国を赤、元々ワルシャワ条約機構加盟国だったのが、冷戦後にNATOに加盟した国を黄色で示す。ドイツは冷戦時代に東西に分かれており、西ドイツがNATO、東ドイツがワルシャワ条約機構に加盟していたため、緑で示した。

地図

NATOに加盟しなかったウクライナはロシアの圧力に屈していたのかというと一概には言えない。分かりやすい例がクリミア半島にあるセヴァストポリ市だろう。ソ連時代から、黒海艦隊の基地があったこの地は、ウクライナ領土になってからも租借地としてロシアに貸し出され、黒海艦隊の基地であり続けた。これにより、ウクライナはロシアから年間9800万ドルの租借料を得ており、一方的な支配ではなかったのだ。また、ウクライナはロシアから天然ガスを輸入しており、反対に、ウクライナ東部のドニエプル工業地帯を中心としたウクライナの工業は、ロシアへの輸出で大きな利益を得ていた。国全体で見れば、ロシア傘下であることは、悪いことばかりではなかったはずだ。

東西に分断されたウクライナ

ではなぜ、ウクライナはロシアと対立したのか。これは、ウクライナの東西でロシアに対する感情に温度差があることによる。前述したクリミア半島や、ドニエプル工業地帯はロシアに近い東部に位置している。これらの地域にはロシア系住民が多く、親ロシアの世論が強い。一方、首都キエフを含むウクライナ西部は、EU加盟国であるポーランド、スロバキア、ハンガリー、ルーマニアと隣接している。ウクライナのEU入りを求める声が強いのもこの地域だ。ロシアとEU、どちらの経済圏に軸足を置くかでウクライナの世論は分かれていた。
この軋轢が最初に表面化したのは2004年のオレンジ革命だ。この年の大統領選挙は、親ロシアのヴィクトル・ヤヌコーヴィチと、親EUのヴィクトル・ユシチェンコの一騎打ちとなったのだが、結果的にヤヌコーヴィチが勝利することとなった。それに対し、ユシチェンコ支持者が選挙の不正を訴え、大規模な抗議活動を行った。この抗議活動のシンボルカラーがオレンジであったことからオレンジ革命と呼ばれている。この活動は世界に報道され、ロシアがヤヌコーヴィチ陣営を、アメリカとEUがユシチェンコ陣営を後押しする大きなうねりとなった。結果的に投票は再度行われ、ユシチェンコの逆転勝利となった。しかしながらユシチェンコ政権は発足直後から内部抗争が続き、2010年の選挙ではヤヌコーヴィチに大統領の座を譲ることとなる。

ユーロマイダン革命

次の節目になる事件は2014年のユーロマイダン革命である。当時、ウクライナ国内では親EU派と親ロシア派のにらみ合いが続いている状態であり、EUとロシアもウクライナと交渉を続けていた。2011年、EUとウクライナは、貿易における大規模な関税の削減を目的とする「深化した包括的な自由貿易圏(DCFTA)」に仮署名し、EUとウクライナの結びつきが深まる機運が高まった。しかし、安価で品質の良いEU製品がウクライナ経由で流入することを怖れたロシアがウクライナに圧力をかけ、2013年、ヤヌコーヴィチ大統領はDCFTAへの正式な署名を見送った。この直後、ロシアはウクライナに輸出する天然ガスの価格を3割以上安くする協定を締結している。ロシアは天然ガスを外交のカードにし、EUがウクライナに接近するのを阻止しようとしたのだ。これに対し、ウクライナ国内の親EU派と、ウクライナ独立を求める民族派が抗議活動を行い、キエフの独立広場と行政庁舎を占領した。この一連の活動をユーロマイダン革命と呼ぶ。ユーロマイダンとはウクライナ語で「欧州広場」という意味である。デモ隊は警察との衝突を繰り返し、ついには実弾が使用され、死者を出すまでに至った。ヤヌコーヴィチ大統領は事態を収束させるための文書に署名したが、その後、身の安全のため国外に逃亡した。ロシアにしてみれば、交渉の結果味方に引き入れた政権が暴動によって倒されたのだ。

クリミア併合とドンバス戦争

ウクライナがEUに急接近することを怖れたロシアは、この抗議活動をクーデターとみなした。暴動鎮圧の名目で、ロシア系住民が多いクリミア半島に軍事侵攻し、ロシアに併合した。また、ロシアに隣接するドンバス地方では親ロシアの武装勢力が反乱を起こし、ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国が一方的に独立を宣言した。この後、独立を主張するドンバス地方のロシア系住民と、ウクライナ統一を主張する民族派の溝が一層深くなる。ドンバス地方では武装勢力とウクライナ政府との衝突が続き、内戦状態となった。

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ゼレンスキー大統領の登場

この膠着状態下に現れたのが、2019年に大統領に就任したゼレンスキーである。経歴は日本でも報道されている通り元コメディアン、そして俳優である。名門大学出身のユダヤ人であり、西部の親EUリベラル層から支持される条件をそろえていた。それでありながら出身は東部であり、母語はロシア語であったことから、東部の親ロシア層からも支持された。ゼレンスキーは、高校教師がウクライナの大統領になってしまうというドラマの主演を務めた経歴がある。EUとロシアの間でボロボロになっていたウクライナ国民の目に、親しみやすさとカリスマ性を併せ持つゼレンスキーは、祖国を救う英雄として映ったのではないだろうか。
大統領に就任したゼレンスキーは、ドンバス地方の内戦を解決するために奔走する。その中の一つに、ミンスク議定書の早急な履行がある。ミンスク議定書とは、ドンバス地方に高度な自治を認めることと引き換えに武力闘争を終わらせるという内容で、2014年、ドイツとフランスの後押しで、ロシアとウクライナ間で合意されたものである。だが、実際にはほとんど機能することがなかった。ゼレンスキーはミンスク議定書を履行することで内戦を終わらせようとしたのだが、ウクライナ統一を主張する民族派の猛反発に合い、支持率が急落する。一方、ロシアはドンバス地方のロシア系住民を支持するため、国境周辺に軍隊を集結させ、ウクライナ政府に圧力をかけた。ウクライナを取り巻く状況が悪化したのだ。

クリミア・プラットフォーム

焦ったゼレンスキーが目を付けたのが、2021年にアメリカの大統領に就任したバイデンである。前任のトランプは、ロシア大統領のプーチンを評価する発言が多かったが、バイデンは副大統領時代から反ロシアの立場を貫いており、クリミア併合の際にも、ロシアに反対するウクライナ政府を支えていた。バイデンの大統領就任により、G7も反ロシアに傾いていった。
その流れを察したゼレンスキーは、国際世論を巻き込み、ロシアと対立する作戦に出る。2021年8月23日、ゼレンスキーはキエフに43ヵ国の代表及び、EU、NATOの代表を集め、ロシアからクリミア半島奪還を求めるクリミア・プラットフォームという枠組みを作った。この中にはG7の全ての国も含まれる。これは、ロシアにしてみれば、宣戦布告以外の何物でもなかった。その後、ロシアは軍隊をウクライナとの国境付近に集結させ、大規模な軍事演習を行った。パワーバランスが大きく動き、NATO対ロシアの構図が出来上がった。これにとどめを刺したのは12月7日の米ロ首脳会談だろう。この会談で、バイデンはプーチンに、ロシアがウクライナに侵攻した際にはロシアに大規模な経済制裁を科すことを伝えた。それと同時に、ウクライナはNATO加盟国ではないため、ウクライナに米軍を派遣することは検討していないと伝えたのだ。この内容は翌日12月8日に発表された。ロシアにしてみれば、最大の懸念であるアメリカとの軍事衝突が避けられたのだ。この時点でプーチンの覚悟は決まっていたのではないだろうか。2022年に入ってからも、プーチンはゼレンスキーに対し、NATO入りを諦めるよう再三警告したが、それはウクライナへの最後通告であったように思う。そして2月24日、ロシアはウクライナへの攻撃を開始した。

ウクライナは戦争を避けられたのか

最後に、全体をまとめてみたい。ここで私がこだわりたいのが「ロシアが悪い」という結論にしないことだ。なぜなら、ロシアが悪いと結論づけた瞬間に、ウクライナ側の問題が見えなくなってしまうからだ。この文章を日本の外交と安全保障を考えるきっかけとするため、ウクライナがロシアとEUの間に位置するという外交上の困難を前提とした上で、ウクライナの対応を論じてみたい。
最大の転換点は、クリミア・プラットフォームだろう。国際世論を味方につける作戦は結果的にロシアを刺激するだけに終わってしまった。起死回生を狙った戦略が仇となったのだ。ここで重要なのは、各国が表向きウクライナに協力する姿勢を示したものの、クリミア・プラットフォームは条約ではないため、軍事的な協力が得られなかったことだ。ここに、EUの狡猾さと、ウクライナの読みの甘さがあった。
次の転換点は、ドンバス地方の内戦をゼレンスキーが止められなかったことだ。民族問題は多くの国が抱えている問題であり、各国が長い時間をかけて解決に取り組んでいる。ゼレンスキーもまた、この問題を解決しようとして暗礁に乗り上げたわけだが、問題解決への努力を続ける代わりに、ロシアとの対立に向かってしまった。総じて、ゼレンスキーには政治家としての力量が足りていなかったように思う。
そして、最大の問題は、ウクライナ国民がゼレンスキーに未来を託して大統領に就任させてしまったことだ。その背景にあるのは、経済の低迷や、ドンバス地方の内戦により、ウクライナ国内が行き詰まっていたことだろう。「英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ。」という言葉があるが、ゼレンスキーはまさに時代が生み出してしまった英雄の幻なのだろう。

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