GHQの将校から知らされた、テープを巻いて音を出す機械とは?〜未知の機械「テープレコーダー」開発に着手
『ソニー技術の秘密』にまつわる話 (4)
GHQの将校から知らされた 「テープレコーダー」 の存在
1949 (昭和24) 年6月、
東京通信工業 (現 ソニー、以下 東通工) の技術者として採用された木原信敏の手によって開発された『ワイヤーレコーダー』は、製品化を目前にステンレス製ワイヤーの加工に必要な (会社が倒れかねないほど高額な) 「ダイヤモンドダイス」の購入が必要とわかり、ソニー創業者の一人・盛田昭夫が社運をかけて購入を決断します。
『ワイヤーレコーダー』開発のお話はこちら↓
ところが、東通工製『ワイヤーレコーダー』の製品化を検討していた直後に、ソニー創業者の井深大と盛田昭夫は、当時掘建て小屋のような建物で操業していた「東京通信工業」という会社が一体どんなことを行っているのかを調査に来たGHQの将校から
「アメリカでは、
テープを巻いて音を出す機械がある」
という話を聞きます。
これは旧ドイツ軍が開発し、ミネソタ・マイニング・アンド・マニュファクチュアリング社 (現3M Company) が研究開発し製品にしたもので、ドイツからの押収品の中に含まれていたモノでした。
GHQからの機器の貸し出しは許可されませんでしたが、当時東京・御殿山にあった東通工事務所でアメリカ人将校が実演し、二人はその音を聴くことができたのです。
NHKで見学した 「テープレコーダー」
GHQの将校が持ち込んだ、その「テープレコーダー」の高音質に魅了された井深大、盛田昭夫の両氏は、
「NHKに磁気録音機 (テープレコーダー) が導入された」
との新たな話を聞きつけ、早速NHKの放送会館へ、実機を確認するため向かいます。
この時二人がNHKで見学した「テープレコーダー」は、GHQ出身で戦後の放送番組企画や日本の民間放送設立案に尽力した フランク・正三・馬場 が、戦後一時帰国の際に日本に持ち込んだ (56.2.14 日経新聞)とされる、米マグネコード (Magnecord) 社製の「テープレコーダー」でした。
東通工で組み立てた『ワイヤーレコーダー』とは比較にならない、「テープレコーダー」の高音質に感銘を受けた井深大は、音や操作性の面からワイヤーレコーダーより将来性があると考え、東通工の次の研究開発テーマにふさわしいと判断。
すぐにテープレコーダー開発に向け動き始め、この時、新卒2年目を迎えたわずか22歳の木原にその開発を託します。
手探りで始まる東通工製 『テープレコーダー』開発
『ワイヤーレコーダー』では現物をみることも検証することもでき、組み立て自体は問題なかったものの、今回の「テープレコーダー」に至ってはまだ「テープレコーダー」の現物を見てもおらず、木原にとっては未知の機械でした。しかし、
「テープレコーダーを見てきたけれど、ワイヤーレコーダーより全然良い音がしていたよ、君、テープレコーダーの研究やらないか」
との井深大の誘いを木原は快諾、
「幅6㍉ほどの、表面が茶色のテープがリールに巻いてあり、それを巻き取って音を記録再生していた」
という井深大からの僅かな情報のみを頼りに、後に放送関係や官公庁、多くの学校を始めとする教育現場に広く普及していく国産テープレコーダーの開発は、この時からスタートしたのです。
“「テープレコーダーを見てきたけれど、ワイヤー(レコーダー)より全然いい音がしていたよ。君、テープレコーダーの研究をやらないか」
昭和二四年の六月に入ったころ、私は井深さんに呼ばれ、こう聞かれました。それだけで、私はピンと感じるものがありました。
「はい、やります」
と即座に答え、それまで開発を進めていたワイヤーからテープの研究へ、と大変身を始めることになったのです。
後に思えば、この日、運命の女神が微笑んだのです。私はこの日から、東京通信工業(現ソニー)の「ツキ」が始まったような気がします。”
『ソニー技術の秘密』第1章より
「まずはテープがなければ実験もできない」ということで、テープに使用するための磁性粉探しから木原は着手します。↓
文:黒川 (FieldArchive)
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