見出し画像

郷土の偉人をきっかけに、東海市地域を学ぶための社会教育施設として誕生〜 『平洲記念館』

『市営博物館』インタビュー (1)

「東海市出身の江戸時代の儒学者・細井平洲(ほそいへいしゅう)先生の記念館です。平洲先生の業績や、書画等の作品を中心に展示しています。また、館内の1室・郷土資料館には、知多式製塩土器をはじめとする東海市の考古資料や民具等を展示しています。」
(平洲記念館・郷土資料館 公式サイト より抜粋)
Interviewee:立松様(平洲記念館 館長)
Interviewer:木原(フィールドアーカイヴ 代表)
(インタビュー収録:2020 / 2 / 8 )

「平洲記念館」ができたきっかけは?

立松館長:東海市はもともと上野町、横須賀町という二つの町でしたが、1969(昭和44)年に合併しました。

あわせて8万人くらいの市となったのですが、この人口数は、1960(昭和35)年に両町の地先に設立された東海製鉄所の本格的な稼働によって、倍増したものです。
以前の人口が3万4千人ほどでしたから、4万人以上の方が日本中から引っ越してみえたのです。よそから来た人が多いぐらいになったのです。

当時、日本各地で大きな炭鉱が閉じて、その方々の受け入れ先になったり、釜石などは溶鉱炉を閉じてしまいましたので、お父さんの単身出稼ぎというようなことではなく、先祖の仏壇もって、家族ごと、こちらに引越してきたりと、人々の大移動がありました。

その方々が「来たはいいんだけど、いったいここはどこなんだ?」となった。
そこで「ここは東海市といいまして、こういうところなんです」ということを示すため、市民達の ”よりどころ” を作ろうということがきっかけで、社会教育施設としてここが建てられました。

メインが細井平洲。
平洲先生の生誕の地ですよ、といえば皆に通じたからです。
明治から昭和の修身(道徳)の教科書に、細井平洲先生が上杉鷹山公との関係で載っていて、戦前は日本中の人が知ってました。
だから、館が出来た頃、訪ねて見える方達、その時の御老人、懐かしいといって見ていかれました。

画像4

――:なぜこの場所に建てられたのですか

立松館長:どこに作るかとなったときに、平洲先生のゆかりの地にしようとなりました。

この場所は平洲先生の生まれた地、平島村の氏神様の境内地なんです。
じゃあここの境内地なんかどうだとなって、もともと鎮守の森だったのを切り拓いていいですよとなって、なおかつここは、旧里碑もあった。
「細井平洲先生旧里碑」っていうのが、平洲先生の没後7回忌に作ろまいといって、尾張の明倫堂の先生たちが計画して、ここに建てられたんです。
だから江戸時代の人達も、1807(文化4)年に平洲先生の顕彰碑を建てた時に、この土地を選んだわけです。
そういうこともあり、ここに決まりました。

画像6

他の記念館にはないユニークな品や見せ方とは?

――:ここは「平洲記念館」でもあり、「郷土資料館」でもあるのですか?

立松館長:建物はひとつなのですが、ここは「東海市立 平洲記念館」と「東海市立 郷土資料館」ということで、市の条例で作ってあります。 具体的な区分けは特にないですが、入って左手の一室が「郷土資料館」、正面の一室が「平洲記念館」となっており、あとの平洲ホールや講義室は共用スペースとなっています。

趣旨が違うことになっているものですから、用途によって名称を変えています。
東海市の社会教育的施設としては、この施設だけになります。

――:施設が森の中にあり、ユニークな場所ですね

立松館長:出来た当時はどこにあるんだと、今もナビで来る人は難儀してくる人もいます。
通りに面してなく、離れていて静かなもんで、駐車場まで来ても館が見えない。

今はバスが来るルートもあります。
その他に名所パネルを整備してあるので、それを目指してウォーキングでやって見える方も増えました。

延々訪ねて見える方は、この方がいいという方もいます。
街中にあるよりも、鎮守の森の中にあるのがいいという方がある。

興味を持った方が平洲記念館の存在を知り、機会があったら、でお見えになることが多いですね。

画像4

――:どんな方が興味を持たれて平洲記念館にいらっしゃるのでしょうか

立松館長:例えば、上杉鷹山公が企業経営の話として以前脚光を浴びたことがあります。

トップランナーであった日本が落ちた時、学ぶべき先頭集団がいない。
それで振り返って、自分たちをここまで培ってくれた歴史の流れの中で、こういう風な似たようなことがあったはずだと。
その時にだれがどうしたんだろうとなったわけです。

上杉鷹山が疲弊した藩を一代で立て直した、その方の先生が細井平洲だと興味を持たれ、来られましたね。

今も日本全国からいらしてみえます。
出張の間をぬって慌てていらっしゃる方などもいます。

――:常設展示品はどうやって集めたのですか

立松館長:細井平洲先生を古くから顕彰していたものですから、役場や学校でいろんな資料を持っていました。
それらを展示スペースができたので置いたのが最初です。

あと、今は床の間を作らないので、掛け軸がいらない家庭が多い。
家に伝わっていたものをくださったりして、現在、掛軸資料は100点以上あります。

郷土資料館の資料は、大きな倉庫を持っていて、そこに入れてあるんですけれども、正直、長持ちとか農機具とかは重なっちゃうので、いまはお断りすることが多いんですけれども、文書・記録などの書き物はもらってきます。

心配しているのは、文書・記録はいまのわれわれでは読めないので、捨てられちゃっているんではないかということです。
地域の方たちにそんなに働きかけ募集をかけているわけではないけれど、小さいながらこういう館があるというのは大きいと思います

画像5

開館当初の見せ方から変化した部分は?

――:この建物ができたのは、かなり古いですか? 

立松館長:二分割されています。
細い通路をはさんでコンクリート打ちっぱなしの建物が、1974(昭和49)年3月3日に開館しました。
一方のタイル張りになっている建物が、2000(平成12)年に細井平洲先生没後200年を記念して増築したものです。

増築を計画した時はそうでもなかったのですが、実際にかかろうとしたときにいわゆるバブルがはじけてどうするかとなりました。
当時の国土庁に ”地域間交流支援事業”という、複数の地域で連絡をとりながら交流している事業に対し交付される補助金制度がありまして、私共ちょうど平成7年から平洲サミットといって、細井平洲先生と関わりのある地域と交流する事業をやっていて、それが該当するのではないかということで申請したのです。

そうしたら、全国の3つのうちの1つに採択されました。
該当したのでそれじゃやりましょうということで増築した部分が、没後200年記念の一番大きな成果品です。

施設の運営維持にあたっての苦労や困りごとは?

立松館長:今は細井平洲を知らない人が増えました。
特に若い人は、漢文の掛け軸ばかりの展示を見ても、わからない。小学生とか来るんですけれども、入らない。だから、率先して入れ込んでいます。

こういう人物展示は、細井平洲先生に限らなくて難しいと思いますが、色々工夫しています。
例えば正面に、少なくとも絵として見てもらえるように絵巻物をおいてある。
さらに興味がある人は、詳しい説明文を置くなど他の部分を見せる、などです。

――:他に展示する上での苦労はありますか?

立松館長:保存のことを考えると、ずっと掛けておくわけにもいかないので、展示替えをします。
変えてもだれも気づかなくて張り合いがないというのは正直ありますが。

やっぱり光の害があるので、本当はああいうものは展示しないのが一番いい。
展示するなら床の間、障子の光が一番いい。
うちは博物館用の照明を使っていますが、資料保存には本当は見せないが一番いいのです。

画像3

「平洲記念館」ご来場の方々にメッセージを

立松館長:細井平洲の没後に、弟子たちがまとめた『嚶鳴館遺草(おうめいかんいそう)』は、明治維新の立役者となった吉田松陰、西郷隆盛などが思想的に影響を受けた書物でした。

当館には、その『嚶鳴館遺草』の版木の他、平洲直筆の漢詩の掛け軸などが多数飾られています。

時代と共に、当時の文章、漢文が読めない人が増えましたが、幸い、平洲先生に関する書物は、細井平洲研究者の小野重伃先生によって、現代語訳されて研究もされています。

当館の平洲ホールにはそれら平洲関連の書物が一通り揃っていてすぐに調べることができますので、興味がある方は是非一度ご来館いただければと思います。

画像4

見学した際の感想:
こちらの施設は、昨年弊社が出版した本『情熱の気風―鈴渓義塾と知多偉人伝』に縁の深い細井平洲先生の記念館であり、平洲祭などで何度も伺う機会があり、本も販売していただいているのですが、いつも時間がなくて、今回のインタビューでようやくじっくり見学することができました。

東海市民に平洲先生という郷土の偉人を教え、郷土の貴重な資料を保存し次に伝えていくという役割を持った施設であると同時に、全国から私のように、是非一度行ってみたいと思われている施設でもあるというユニークな記念館。

幕末の志士達に「治国の名著」として広く愛読されていた『嚶鳴館遺草』の版木等、拝見できてよかったです。

木原(フィールドアーカイヴ 代表)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?