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販売苦戦を強いられた東通工 (現ソニー)による国産初のテープレコーダー 〜 『GT-3型 テープコーダー(Tapecorder)』

ソニー技術の秘密にまつわる話 (9)

『GT-3型 テープコーダー』一般市販開始

東京通信工業 (現ソニーの前身、以下 東通工) 入社2年目の若き技術者・木原信敏の手により開発された国産初のテープレコーダー『G型』は1950 (昭和25) 年8月に完成。

東通工創業時よりの悲願であった「大衆向けの新しく独特な商品」の完成に、社内の誰もが「素晴らしい機械が完成した。これは売れる!」とその販売成功を信じていました。

『G型』テープレコーダー試作機のお話はこちら↓

東通工社員一丸となっての広報活動

技術的にも性能的にも、「アメリカの機械の模倣」から脱却した、東通工独自のテープレコーダーは、ガバメント(Government)の頭文字から『G型』と命名され、東通工初の商標『テープコーダー(Tapecorder)』を得て、国産初のテープレコーダー『GT-3型 テープコーダー』として東通工社員一丸となっての一般市販が開始。

販売開始前の1950 (昭和25) 年5月には、完成したばかりの『GT-3型 テープコーダー』は宮内庁に献上され、磁性体などの基本的な物性研究には、多くの学校や会社と協力関係を結び、放送関係や官公庁、さらに新聞社、雑誌社にも宣伝、広報活動に力を入れ、展示会や説明会なども積極的に行っていました。

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主に速記者不足に悩む裁判所が大口の販売先でしたが、これには裁判長・検事・被告・弁護人それぞれの前にマイクをおき、4本のマイクで同時録音ができるように改造した『GT-3M型 テープコーダー』を納品していました。

また特別な場合には裁判長などが録音の開始・停止ができるよう、遠隔操作に対応する仕様を追加するなど、納品先によって微調整も行っていたのです。

苦戦を強いられた「テープレコーダー」販売

しかし、価格は当時の金額で16万8千円 (初任給が4,000円程)、重量は約40㌔と重く、また「テープレコーダー」そのものが、これまで一般的にはその存在すら知られていなかった「未知の機械」だったこともあり、セールス的に順調というわけにはいきませんでした。

この『GT-3型 テープコーダー』の販売に大きく貢献したのが、八雲産業専務として、元侯爵・徳川義親 (とくがわ よしちか/ぎしん) 家の管財事務を引き受けていた 倉橋正雄 (くらはし まさお、後のソニー取締役総務部長) でした。

倉橋正雄は『GT-3型 テープコーダー』に惚れ込み、50台を即金で購入。
これを裁判所を始めとする国警などの諸官庁、朝日新聞社、文芸春秋社、三越東京本店などへの納品を成功させ、八雲産業は東通工製品の専売店として機能するようになりますが、最初の僅か50台を売り切るまでにも、半年近くの時間をかけていました。

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ちなみに最初の販売先は、東京駅八重洲口に店を出していた「おでん屋」で、倉橋正雄が管財事務を担当していた元侯爵徳川義親家が出資していた店でした。
この「おでん屋」では店主が酔った客の歌を録音し、その場で聞かせるというサービスに使用されていたようです。

最初の商事会社「東京録音」設立

ソニー創業者の一人・盛田昭夫は東通工の営業力の弱さを自覚し、倉橋正雄を東通工に引き抜き、最初の商事会社「東京録音」を1952 (昭和27)年2月に設立。

盛田昭夫は、この間に木原の手によって新たに開発された普及型テープレコーダー『H型』と合わせ、文部省で展示会を開き、小、中学校で教育に利用すべきことを説き、名古屋で行われた全国市長会議に「テープレコーダー」を持参し宣伝。

また「日楽」、「丸文」という二次代理店を通じて東通工製の「テープレコーダー」の販売を積極化していき、ようやく「テープレコーダー」という存在が世間に知られるようになったのです。

『G型』販売が開始され普及宣伝、啓蒙活動が活発になる中、木原は既に『G型』にかわる小型、軽量の普及型テープレコーダー『H型』の開発にとりかかっていました。↓

文:黒川 (FieldArchive)


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