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技術屋の心を理解して下さった井深さん 木原信敏

『ソニー技術の秘密』にまつわる話 (60)

平成9年12月19日、ソニー創業者の一人・井深大氏は89歳の生涯を全うしました。ソニーの前身である東京通信工業の時代より、井深氏の秘蔵っ子といわれ、初期ソニーを代表する数々の世界初、日本初の製品を世に送り出して来た技術者・木原信敏はその訃報に接し、井深氏との思い出を「電子情報通信学会誌」に寄稿していました。
木原を始めとする多くの技術者から「オヤジさん」と親しまれた井深氏が、いかに優れた、また愛された上司であったを窺い知る文章となっています。

技術屋の心を理解して下さった井深さん

井深大氏は去る平成9年12月19日午前3時39分、急性心不全のため東京三田の御自宅で89歳の生涯を全うされました。

人生の師と仰ぐ井深さん御逝去の報に接し、誠に悲しみに堪えません。もっと長生きをされて、我々に進むべき指標をもっと与えて頂きたかったと思っておりましたが、それも適わぬこととなりました。

永年にわたって公私共にお世話になり、井深さんなくしては私のソニーにおける技術開発はあり得なかった終生忘れがたい方でありました。

井深さんは、明治41年に栃木県日光町 (現日光市) にお生まれになり、昭和8年に早稲田大学理工学部電器工学科を卒業され、戦争中は軍の要請を受けて測定器を開発しておられました。
しかし終戦の直後には長野県須坂の日本測定器を離れて東京に上京され、御自身で東京通信研究所を設立されました。
昭和20年9月のことでした。

これがソニーの前身となる「東京通信工業株式会社」となったのは昭和21年5月7日でした。戦後すぐに設立された「東通工」は、その後大企業としてホンダと並んで世界から注目を浴びる優良会社に躍進することになりました。

ちなみにホンダはソニーより一年あとに設立されております。

このように井深さんの行動の素早さ、時期をみて決断する実行力が、その後の50年のソニーを作り上げたのだと思います。

私が初めて井深さんにお目にかかったのは、早稲田大学に非常勤講師として来ていらした井深さんの講義を聴講したときでした。

お話は教授や学者先生とは違う平易な内容で、ご自身が作られた現在の研究所や製造工場がどんなことをしているかを、例を挙げて解説して下さいました。井深さんの会社での仕事、特に研究開発は、私が望んでいた理想の仕事だと私はそのとき感じました。

私は専門部工科機械科で学んでおりましたが、自分で5球スーパーラジオや電器蓄音機を作ることが大好きでしたので、物のない時代のこと、人から頼まれてはラジオを作ってアルバイト料を稼いでおりました。

ラジオや電蓄を組み立てるために神田に部品を買いに行ってはアメリカ製の抵抗、コンデンサや真空管などを探し回ったものですが、そんなときたまたま非常に綺麗な横行ダイヤルの表示装置を見つけ出しました。それは日本製で「東京通信工業株式会社」と書かれておりました。

他にレコードのターンテーブルやピックアップにも同社製のものがあって、それからは私の作るラジオや電蓄には必ず「東通工」の部品が使われるようになりました。

作った物を買って下さる方からは、綺麗なラジオだとか、格好がいい電蓄だとか大変に喜ばれたことを覚えております。

そのようなことで、私は「東京通信工業株式会社」は素晴らしくセンスの良い会社だという印象をもっておりました。

あるとき、学校の掲示板に貼られている募集広告の中に

「学生もとむ 東京通信工業株式会社 井深大」

の文字を見つけました。私があこがれていたあの「東京通信工業株式会社」の井深さんが人を求めている。そこで担任の先生から推薦状を頂き、その日のうちに御殿山に行って面接試験を受けました。

昭和22年4月から晴れて東通工の社員として、井深さんのもとで50年の歳月を研究開発一筋に働かせて頂くことになりました。
これも井深さんの人徳と強い吸引力が、私を井深さんのもとに引き寄せてくれたのだと思います。他社に就職しないで、馬小屋のようなちっぽけな東通工を選んでしまったのは今でも不思議な気がしますが、これも井深さんの魅力にほれこんだからでしょう。私の人生を井深さんと共に歩むことができたことに感謝しております。

半世紀の間を振り返って井深さんを偲んでみたいと思いますが、井深さんに関する逸話はここでは書ききれない程多くありますので、私がお付き合いをさせて頂いた中から心に残る事例を二、三紹介したいと思います。

一言で表現しますと、井深さんはだれに対しても深い理解をもっておいでで、特に技術者の心をよく知っておられました。

私は井深さんから命令を受けたことがありません。その代わり、井深さんはたくさんの目標を与えて下さいました。本当の技術屋は、目標さえ与えられれば、喜んでそれを達成使用と全力を注いで努力するのです。

井深さんはその点をよく御存知でした。そして精魂込めて創り出したものに対しては、心から喜んで下さいました。私は、この井深さんが嬉しそうに喜んで下さるお顔がみたくて、次から次へと新しい機械を作ってきたのも事実でしたが、今ではもう喜んで下さる井深さんが居られないと思うと誠に残念です。

私は若いころ、仕事を一生懸命にやると熱を出す厄介な体質でしたので、井深さんは心配されて「私がよく知っている医者を紹介するから、訪ねて行って体を調べてもらいなさい」と紹介状入りの封筒を下さいました。結果は、肺にも何も悪いところはないとのことで、井深さんは「よかった、よかった」とたいそう喜んで下さいました。多分ポケットマネーで私に診療を受けさせて下さったものと、その心遣いに今でも感謝しております。

また井深さんは天真爛漫な方で、子供がおもちゃを欲しがるように何にでも興味を示され、

「君こんなものがあるけど、もっと使いやすい機械にならないかね?」

と思い付かれたことを次々に注文を付けられますので、我々は対応にてんてこ舞いでした。

日本で最初に発売されたG型テープレコーダーを見られたときも、井深さんは

「こんなに大きな機械ではだめだ、もっと小型な機械にしてくれ」

と無理難題を申されました。しかし、このような先へ先へと突き進む気風が我が社に満ちあふれるようになったことは、井深さんの

「人真似をしない、人より先に出る」

精神におかげだったと思います。これによって、日本初、世界初の商品が産み出されることになったのです。トランジスタラジオ・トランジスタテレビ・家庭用ビデオレコーダ・トリニトロン方式カラーテレビなどがそうです。

井深さんは、最先端の技術開発というテーマとは別の感情豊かな人間を育てることにも情熱を燃やしておられました。
昭和34年に「小中学校理科教育振興基金」を設立されて科学教育の振興に力を入れられ、また昭和44年には財団法人「幼児開発協会」を作られてゼロ歳児教育に取り組まれたのでした。

前半生を電子産業の育成に、後半生を幼児教育に捧げられた井深さんの偉大さに、改めて感銘を受けると共に、深くご冥福をお祈りする次第です。

(筆者 木原信敏 (株)ソニー木原研究所代表取締役社長)

電子情報通信学会紙2/'98 より

現在の世代には、井深大という名を知らない方も多いと思います。過去を振り返ることは、木原を初め常に先の未来を見続けていた井深氏も望んではいないかもしれません。ですがほんの一時だけでも、私たちの生活に彩を与えてくれた偉人の活躍に目を向けることで、私たちが先人から学ぶことが多々あると信じています。

文:黒川 (FieldArchive)

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