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2023年5月に『森のバルコニー』を読むという悦楽と不安

 この数日――ゴールデンウイーク、っていうんですってね――は、村上春樹氏の新作をあいだに挟みつつ、しかしほかのことはほぼ忘れて、ひたすらジュリアン・グラックの『森のバルコニー』を読むという、ほとんど法悦と言っていい喜びの時を過ごしました。
 グラックを読むようになったのは、50歳を過ぎてからです。調べてみると『シルトの岸辺』と『アルゴールの城にて』の岩波文庫版が出たのが2014年で、それ以来です。
『シルトの岸辺』の衝撃は今でも僕の中で振動し続けています。こんな小説が本当にあった! というか、二流のメイド喫茶に行き慣れていたら本物のparlormaidに出会ってしまったような、というか(メイド喫茶に行ったことはないんですけど)、読んでいるこちらが思わず居住まいを正す感じの驚愕がありました。泉鏡花や塚本邦雄を読むときのような感じを、20世紀の翻訳文学に感じたのは、初めてかもしれません。
 以来、入手しやすいグラック作品(むろん翻訳)を漁って読みました。文遊社が『陰欝な美青年』(小佐井伸二訳)を復刊したりして、しばらくグラックばかり読んでいた時期があります。
『森のバルコニー』(中島昭和訳)もそうやって読んでいた作品のひとつで、当時は古書店でも見かけない本でした。下北沢の古本屋で「あった!」と声を上げてしまったことを憶えています。
 今回それを再び文遊社が復刊してくれたことは、本当にうれしく、これを容易に入手できるこれからの読者が、ちょっとうらやましいです。

 グラックの小説はぺらぺらと読み進められるものではありません。またそういう具合に読んでは、恐らく楽しくもなんともないと思います。
 グラックの小説は味わうものです。一流の料理を味わうように、ゆっくり、じっくり、一流の料理を食べているという満足をたっぷり感じながら、細やかな味を官能的に楽しむ。グラックを読むとは、一流の読者になるということです。

 汽車がシャルルヴィルの郊外を過ぎ、町の煤煙も見えなくなると、見習士官グランジュにはこの世の汚れが次第に消え去ってゆくように思われた。気がつくと車窓の視界にもはや一軒の家もない。列車は緩い川の流れに沿って走っている。はじめは羊歯やハリエニシダの生い茂る丘々の、なだらかな斜面の狭間に入りこんだのであったが、やがて、川が大きく屈曲するたびに谷間は深まってゆき、いまや寂莫としたなかで、列車の轟音だけが両岸の断崖にはねかえっている。秋の日も暮れに近づき、窓から首を出すと、鮮烈な風が刺すように顔を洗った。(p3)

 描写です。グラックは描写の作家です。小説なんかとっとと読んで消費しちまいたい、という読み方はできません。描写を味わい、イメージを膨らませ、言葉の豊かさに酔う。そういう読書が、グラックの小説世界の醍醐味です。

 森の夜がすっかり闇一色になることは決してない。ムーズ川の方角はるか遠く、木々のあいまをすかして見る谷間の向こう斜面は、ときおり、一種オーロラめいた光にぼんやりと明るむ。ふんわりとした大きな閃光のおだやかな明滅――高炉のような谷間の上空で、それは闇を置いて崩れる光の泡にも似ていた。トーチカのコンクリート打ち作業を照らすライトの明かりである。いまや夜間、突貫工事でコンクリートが流し込まれているのだ。国境の方角には、土地が次第にせり上がって高くなってゆくあたりに、一つまた一つと光が現われ、しばらく夜の闇のなかを流れると見る間に、点のようなその光がさっと音もなくひろがって、すばやい光芒が薙ぐように森の頂をかすめてゆく。ベルギーの自動車だ。見通しよく木立ちのまばらになっているあいまを縫って、別世界のような平穏のなかを走り過ぎて行く。(p33)

 あんまりうまい引用じゃありませんが(僕は本当に引用が下手です)、こういう比喩を多用した描写が全編にちりばめられています。すんなりとは頭に入ってこない表現が、静かに読み進めることで情景の焦点を結ぶ、その美しさと楽しみは、これこそ小説味読の楽しみだと思わせます。
 この中にトーチカとか、自動車が出てきます。これに僕は最初、少し驚いたのでした。というのもグラックの小説は謎めいた古城とか、架空の国境といった、デコラティブで古色蒼然とした空想世界(むろんSF風味などはありませんし、ファンタジーらしさも希薄です)を舞台にした、高度に抽象的というか幻想的というか、読む者を別世界に拉し去るような作品が多いのです。それがこの『森のバルコニー』では、なんと現実の場所で、しかも現実にあった事柄をもとにしているのです。

 1939年、ナチス・ドイツはポーランドを占領し、その勢いでフランスにも攻め込んでくるに違いないと思いきや、国境間際で数か月にわたって停滞したのでした。最初の引用に出てくるシャルルヴィルはアルデンヌの県庁所在地で、ベルギーと国境を接しています。ドイツ軍のベルギー侵攻は1940年の5月に開始されました。
 見習士官のグランジュがこの地に配属されるのはまさにこの停滞期、戦史では「奇妙な戦争」といわれている時期で、『森のバルコニー』の大半は、この「奇妙な戦争」にぽっかり取り残されたような軍役、軍役ともいえぬ軍役を描いています。
 第二次世界大戦を舞台にした小説は数多く、僕も少しは読んだことがありますが、『森のバルコニー』ほどボンヤリした、弛緩した、茫漠とした(全部同じだ)戦争小説は、読んだことがありません。強いて類例を挙げれば、映画やテレビで昔あった『M*A*S*H』が近いでしょうか。しかし『M*A*S*H』はだらけたアメリカ兵のだらけたコメディでしたが、『森のバルコニー』に喜劇的なところはまったくありません。だらけたところもありません。弛緩しているのにだらけていない、不思議な緊張感が小説の中にはあります。
 しかし緊張と不安の中でもグランジュほか登場する兵隊たちがどこか牧歌的に見えるのは、なんといっても食料がきちんとあるからでしょう。戦後日本で書かれた戦争文学で飢えを描いていないものなんて、児童文学として書かれた『ビルマの竪琴』くらいしか思いつきません。グランジュたちは肉を食いワインを飲み、煙草まで吸っています。さらには当地の若い未亡人に誘われて広い家で毎日のように愛し合ったりしています。小説とは直接関係はありませんが、そういうディテールを読みながら僕は、兵站の輸送経路が確立できないままの戦争に駆り出されたために外地で戦病死した祖父が気の毒でなりませんでした。

 戦地に駆り出されたのに、戦闘がない。
 戦争文学ではしばしば描かれる状態ですが、この小説の安閑とした不安の雰囲気は、僕には特異な現実感をもって迫ってきました。
 これを書いているのは(つまり『森のバルコニー』を再読したのは)2023年の5月のはじめです。ロシアのウクライナ侵攻は、今やバーバリズムの様相を呈しているにも関わらず、日本での報道はどこか危機意識を欠いた、緩慢なものになっています。報道だけでなく、日本だけでなく、当事国や政治家や専門家の外で、関心がみるみる希薄になって行っているように思えます。昨年あたりネットニュースでよく見た「ウクライナ疲れ」という言葉さえ、最近は見られなくなりました。
 チンギス・ハーンのルーシ西伐をさえ想起させるような、文明というものを改めて考えなければならないこの事態に対する、外部の、しかし紛れもなく「文明人」であるはずの我々の弛緩と『森のバルコニー』の弛緩は、無縁には感じられないのです。

 今度の戦争が、いまのような物憂い倦怠の病に世界を浸しているのはいったいなぜなのだろう。ときおり枯れ葉が枝を離れ、音もなく道路のあたりまで舞ってゆく。冷たく澄んだ大気のなかで、それは格別注意に値することでもない。だがこれから訪れようとしているのは冬の眠りではないのだ。むしろ思い合わされるのは終末の世である。終末の年が近づいたため牛馬を車から放し、いたるところ鈀(まぐわ)と鋤を手放して、死ぬほど悲しい思いを抱きながらひたすら予言された奇跡のあらわれを待ち受ける世界。いや、とグランジュは思う。今度の場合、人々は「黙示録」的終末の近づきを待ち受けているのではない。実のところなにごとも待ってなどいはしないのだ。待つとすればそれはただ一つの感覚、悪夢のなかで腹を薙ぐ風を受けながらさえぎるものない虚空を落下してゆく――すでに漠然とした予感のうちにある――あの終極の感覚、さらに正確に言うとすれば――もちろんそれを求めているなどと人は感じてはいないけれども――おそらく「生の終極」とでも呼ばれる感覚であろう。いまやもっとも望ましいこととは、まさに酔いつぶれて砂浜に眠ることにほかなるまい。(p91)

『森のバルコニー』は、80年前の出来事を描いた60年前の小説ですが、読むべきなのは、今です。



 


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