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近況

気が付いたら前回の記事投稿から一年以上経っていた。

ってか前回の記事なんなんだ。意味のないリズムだけの57577を並べただけの変な記事。まあその裏には、あの日は朝からワケもなくむしゃくしゃしすぎて、秘めたる破壊衝動を文字にして解消したかったという動機もあるのだが、その動機も怖いし。

この note は専門学生のとき、自分の足跡を残すために始めた。技術系の記事とかたくさん書こうと思ったけど、そこまでの熱意はなかったので変な記事もたくさんある。

そんな私も今は社会人として3年と少し経っており、以前よりはできることも給料も増え生活が潤っている。社会人生活のログは note に全然残してないけど、正直1年目と4年目の今で生活は対して変わってないので、特段書くこともない。

ただ、自分の思考や行動の痕跡をインターネットに残すという目的は変わらずあるので、今後も折に触れて note を書いていきたい。次の更新がまた1年後になる可能性も全然あるけど。


できるだけ普段から自分の考えは記事にしていきたい。それを記録していくことが自分にとっても他人にとっても有用だと思うから。

人は普段から、様々なことを考えている。自分にとって何が楽しくて生きているのか、他人とはなんなのか、仕事はなぜするのか、将来はどうなりたくてそのために今何をすべきか、など。

普段、例えば入浴中とか皿洗い中とか、頭をまったく使わなくていいときには「他者に本質的に優しくするって一体どういう言動を指すんだろうか」とかをずっと考えている。

そして私は神経質で不安症でもあるので、もっと細かいことまで考えてしまう。相手の言葉選び、語尾、表情、声のトーン、体の動きなどから、自分への拒否反応がないかを探ったりして、深読みし、それを夜に反芻して勝手に凹んで3日くらい沈んだりもする。これは端的に言えば被害妄想でもあるのだが。

私はウルトラ考えすぎ人間だとしても、みんな大なり小なりそういう風に考え事をしていると思う。そしてそんなとき、同じ問い・悩みに対する他者の解釈や、かつての自分の答えをインターネットで見つけて参考にすることは、自分の思考を整理し調整していくのに大いに役立つ。

なにせ、みんなこういったことを考えているのだから


……と思っていたのだが、28年近く生きてきて最近ようやく、他人はそうでもないらしいということを知った。

芸人・ウエストランドのネットラジオで、ゲストに東京ホテイソンのたけるが出た回。この動画の23:13〜に差し掛かったとき。

ウエストランド 井口は「(移動中とかに)例えば、『"言語化"って言うけど必ずしも全部を言語化することがいいことなのか』とかを考えている」という旨の発言している。これはめちゃくちゃ共感する。問いの内容もだけど、こういった問いに向き合うという点は同じだし、みんなもそうだと思っていた。

それを受けたたけるは、「(それを考えて)面白い?」「(俺だったら)窮屈だなそんな人生」「今日便通良いな〜とかでいい」と言っていた。他にも「(深く考えることが)ない。その日が楽しければなんでもいい」とも言っている。

衝撃だ。

こんなに何も考えずに生きていける人がいるのか。
これは素直に褒めているのだが、それだけ脳がフリーな状態って一体どんな感覚なんだろう。頭を使わない作業中とか脳内どうなってるんだろう。

こうは言いつつも多少は物事を深く読んでみるような時間はあるのだろう…… と思ったけど、多分それすらもこちらの考えすぎで、本当に普段大きな悩みなどはないんだろうな。これは馬鹿にしているという訳ではなく、悩まなくていいということは本当に素晴らしいと思う(こういう保身も考えすぎが故の悪癖)。


そしてこの話を近しい人にしてみたところ、「私もそこまで考えてない」とのことだった。何も考えていないという程ではないが、不安や悩みも大体寝れば忘れるし、入浴中は「ちょっと熱いな〜」とかしか考えていないらしい。

信じられない。考えていないってどういう状態なんだ。想像すらできない。まず想像しようとしているのが間違いなのかもしれない。


だったらあんまり note とかに自分のことを書いても意味ないかもしれない。じゃあいいか、どうでもいい記事ばっかり書いても。

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