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匂いと釣行記

匂いが古い記憶を呼び起こしてくることがある。例えば、夏の雨上がりの匂い。私は、雨模様の夏祭りの帰り道を思い出す。それは恐らく、小学生の頃の記憶だろうか。

逆もまた然り。ふと、昔の記憶を思い出すとその場面の匂いがしてくることもある。プールを思い出せば、塩素の匂いがしてこないだろうか。

匂いと記憶には何かしらの結びつきがあるわけで、それは誰でも同様であろう。人には人の、匂い⇔記憶関係があるはずである。

さて、本題に入ろう。私はこのnoteを通じて、いくつかの釣行記を皆さんと共有している。ほとんどの記事には写真を載せて、できる限り臨場感を出せないものかと頑張っているつもりだ。試行錯誤しながら文章を書いていると、私の脳内には主題となる釣行時の風景が蘇ってくる。

川や山の匂いもまた、執筆中の私の鼻をツンと突く。甘いような、酸っぱいような、形容し難い、自然の匂いが蘇ってくるのだ。

そこで私は疑問に思った。この匂い、読者の方々に届いているのだろうか?(いや、届いていないだろう)

匂いのする釣行記を書くことができたら、なんと素晴らしいことだろうか。それは言い換えれば、私の釣行を追体験して楽しんでもらえるということだから。執筆者冥利に尽きるというものだ。

人には人の記憶

そういえば以前、友人が主宰するイベントで釣行記についてお話させてもらったことがある。そこでは、過去の魚にアクセスする手段として、文章というメディアの果たす役割を議題にした。

そこで気が付いたのは、同じ釣行記を読んでも、人によって連想する風景が全く異なっているということだ。当然だが、文章を読んで想起される情景は個々人の経験や記憶に基づいているからである。北海道の湿原河川で釣りをする人と、長野の源流でイワナを追う人とでは、「川」という一単語で想起される情景は大きく異なっているはずだ。

このことは、匂いについても同じことが言える。私が記事を書いていて蘇る匂いは私に固有な匂いであって、私の記事を読んだ別の人が感じる匂いは別の匂いなのだろう。

つまり、「この匂い、読者の方々に届いているのだろうか?」というある種の願望は、永遠に叶わない。もし、読者の方が私の記事を読んで或る匂いを思い起こしたとしても、私が記事に乗せた”この”匂いとは(厳密には)異なっている。

匂いのする文章

そうであっても、匂いのする文章を書くことはできるはずだ。誰が読んでも、何かしらの記憶と共にフワッと香る文章。私の釣行の追体験にはならなくても、誰かの記憶を呼び起こす文章。十分魅力的だ。

上述したイベントでも紹介したが、私にとってそんな文章の代表が、湯川豊『イワナの夏』である。ご存じの方も多いはずだ。

この本に収められている数編の釣行記は、読み手の想像力を揺さぶり続ける。湯川さんが見た景色とは別物かもしれないが、読み手の目の前には確かに情景が広がる。そんな文章である。

特に私が好きなのは、この本の題名にもなっている「イワナの夏」という一編。釣り人であれば、一文目で著者の世界に引き込まれるはずだ。

そんな『イワナの夏』のように香る文章を目指して、このnoteの更新を頑張ろうと思う。

もし、私の釣行記を読んで匂いが蘇ってきたら、コメントかなにかで教えていただきたい。逆に、この記事は何の匂いもしないな!というお叱りでも構わない。悲しいけど。

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