幸福のしっぽ

「なんで私だけこんな目に遭わなきゃいけないんだろうね。」
神社の裏、誰もいない場所で膝を抱えて今日も君は俯いていた。
慣れない抗不安薬を、100円の紙パックの紅茶で流し込んで、一頻り泣いたあと、お決まりのセリフを紅茶と一緒にこぼす。
手も足も出ないような怪物相手に、君は今日も戦っていた。
「笑っちゃうよね。笑っていいよ。」
君は、下手くそな作り笑いでそう僕に言う。
『伝えられないことばっかり、溜め込んで我慢すんなよ。』そう、口から出すはずだったのに、何故か出てきた言葉は毒にも薬にもならない、独り言のような言葉だった。

「あーあ、なんで毎日毎日、学校に行かなきゃいけないんだろ。最悪な気分で朝起きて、バスに乗って、定期券を見せて、校門をくぐって、なんであんな、品性のかけらもない場所に行かなきゃいけないんだろうね。」
レール。別に誰に敷かれてるわけでもない、幽霊のようなそいつに僕も君も縛られている。
外れたくなくて、それでも人でいたいから、どだい人の集まる場と思えないようなあそこへ行く。
『行かなくたっていいのに。』
「そういうわけにもいかないよ。あと、半年で終わりだし。」
だって、君はもうそんなにぼろぼろなのに。無理しなくてもいいのに。今さっきだって、産まれたばかりのように泣きじゃくってたじゃあないか。
性懲りも無く溢れ出した、言葉にならない言葉たちが霧散して金木犀の香りになった。

「貴方、お名前はなんて言うの?」
適当に入ったチェーンのファミレスは、平日だっていうのに人でごった返していた。
申し訳なさそうに相席なら、、と言うバイトの高校生に、断るセリフを口に出すことさえ億劫で頷くと、気立てのいいおばあさんに名前を尋ねられた。
「僕、、僕は、ハルキです。」なんてことない質問に、思わず嘘をつく。
「そう、ハルキくん。今日はなんだかぱっとしない天気だわねえ。」と、なんてことない話をしながらコーヒーを飲むおばあさんに適当に相槌を打ちながら、適当な昼飯を済ませる。

僕はハルキでもなければ、なんでもないただの人で。
自分でなんて、いたくもなくて。
夢でさえ会えないだろう、神社裏のあの日の君に、
結局伝えられなかった言葉たちが、僕の中で腐り、アンモニアのようなにおいがたちこめた。


「あんたも立派になったねえ、立派になったよ。」
そう、花びらが落ちて汚れた赤い絨毯の横で、めかし込んだ母さんが泣く。
ようやく掴んだ、幸福のしっぽ。
もう、離すもんか。幸福のしっぽ。
「ありがとう、母さん。今、とても幸せだよ。」
なんてことない言葉にも、僕は嘘をつく。

「起きて、朝だよーパパ。目玉焼き、冷めちゃうよ。」
5歳のわりにしっかりものの長女が、僕の上に乗っかって頬をつまむ。
今日も、明日もまた、僕は起きて、死んだ顔したにんげんを満載した場所へ行き、死んだ顔をした同僚のいるデスクへ行く。
にんげんでいるために、未だに僕はレールから外れられないでいる。僕も同じように死んだ顔をしてるんだろう。
誰もがまだ、にんげんでいたいから。レールから外れられないでいる。

「明日こそ、部屋の掃除をして、洗濯機を回そう。」
溜まりに溜まっていたものを全て精算するように。仕事の帰り道公園でタバコと、あの日と同じ100円の紅茶をのみながらそう呟いた。

生活をするだけで、削れて行く精神を。
暮らしを維持するだけで目が回っても。

掃除機のようにただ受け容れて、
洗濯機のようにただ回り続けて。

あの日言えなかった言葉たちが未だに腐敗ガスを出し続けて、それを吐き出すでもなく破裂寸前になった心を。
君に会えなかったあの日も、君の好きな歌など聴けなくても、
黙って全て受け容れるから。

そしたらまだ、にんげんでいれるんかなぁ。そうなんだよな?母さん、なあ。母さん。

「笑っていいよ。」金木犀の香りと一緒に、懐かしい声が聴こえた気がした。

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