チョココロネとものの哀れ

千代子はチョココロネを食べながらものの哀れについて思いを馳せていた。あるいは、たい焼きだったとしたら結末は変わっていたのかもしれない。

千代子は仕事帰りに、いつも朝食用の食パンを買っている近くのパン屋に寄った。そこの食パンは絶品だが、チョココロネは少し様子が違った。味は絶品だがチョコとパンのバランスが歪だった。前半、人によっては後半、太い部分にチョコが全振りされており、後半、人によっては前半の細い部分はしっかりとパンなのだ。純度100%のパン。
それでも千代子は食パンとチョココロネを買う。

千代子はチョココロネを太い部分から食べるタイプだった。

無類の甘いもの好きの千代子は目の前にあるたっぷりのチョコを見逃せるほど卓越した精神を持っていなかった。頭では理解している。最後にチョコたっぷりを堪能した方が口に残るチョコの香りをより永く堪能できることを。しかし、脳の奥底に収められている、太古から受け継いだ衝動的欲求の嵐の前では小さな小舟のようなものだった。

千代子は甘いものの前では、刹那的でとんだハッピーガールになる。

その日、千代子は3日振りのチョココロネにむしゃぶりついていた。一口、二口と口の中に天国が広がる。千代子は味覚がもたらす快楽に溺れ、放蕩とした笑みを隠す様子もなかった。それは三口目でも同じだった。しかし、四口目。確かな違和感は無視しきれない衝撃だった。

まさか。

いや、またかと言うべきか。あるいは、やはり。
人生では幸せと不幸の総和は等しい。幸せの絶頂の後には確実な不幸が待っている。

チョココロネの悪魔的パン領域に達したのだ。そこでは先ほどまで当たり前にあったチョコの甘み、暴力的に脳を揺さぶる糖分、実態をもって突き抜けるような風味、それら全てが、セピア色の思い出になったかのように残り香となって消え失せていた。否、その残り香すら千代子の妄想であり、残り香すらない荒涼とした小麦の大地だったのかもしれない。

千代子は驚愕した、困惑した、絶望した。その心の中を言い表す言葉を持っていなかった。いかに説明しようとも言い表せない風景だった。千代子の心内を表すために、驚愕、困惑、絶望、ただ短いこの単語群から生まれる、諸兄のイメージ、インスピレーションに頼るしかないことを不甲斐なく思う。

それほどまでに熾烈なカオスに突如投げ込まれた千代子だったが、客観的には淡々と飄々とチョココロネを食べ続けているように見えた。街頭でアンケートを取ったら8割以上はこの違和感に気づけないであろう。この様子をYouTubeで公開したら開始5秒で閲覧者の8割は離脱するだろう。それほどまでに平静であった。あるいは凪と言えるかもしれない。

心の中にいかに大きなカオスが生まれようと千代子は大人であり、平静を保ち俯瞰的に事実を眺めるスキルを持っていた。目を丸くしカオスに抗う千代子(本体)を冷静に悲しい目で見つめる千代子(精神)

わずか数分。しかし、那由多、不可思議、無限大数とも感じる時間を千代子(精神)は体感した。そして、一つの結論に至った。諸行無常、ものの哀れ。それは人類の到達点の一つ、あるいは悟りと同じものだった。

しかし、根本的問題として千代子は教養がない。諸行無常も、ものの哀れもわからない。おおよそエモいみたいな事だと思っている。しかし、エモいも本当のところ、わかっていない。どう言う言葉の略なのかはもちろん、エモいを説明することもできない。

千代子の中で、この心象を描く言葉が表層的理解と根本的不理解の螺旋を描き、純然たる体験、感覚の坩堝に落ちていく。具象が象徴になり、抽象になる。そこには、千代子だけが知り得るプリミティブな感情の一粒が残った。そして千代子(本体)は呟く。

大好きな物がなくなるってエモいわ〜。


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