サメ

フェミニズムとはサメ映画である

楽しげに海で泳ぐ海水浴客たち。海中から忍び寄る不気味な影、ズンズンズンと心臓の動悸音を思わせるジョン・ウィリアムズによる旋律。突然、悲鳴を上げ水中に引きずり込まれる海水浴客の一人。血の海と化する水面、パニックになって逃げ惑う海水浴客たち。

1975年公開のスティーブン・スピルバーグ監督の「ジョーズ」はありえないモンスターではなく実際に存在する生物であるサメと遭遇する恐怖をリアリティある描写で描ききった傑作でした。公開後には実際に海水浴客が激減したといいます。

しかし、スピルバーグが完璧にサメの恐怖をリアルに描き尽くしてしまったためその後のサメ映画は不毛のジャンルといわれ現在のサメ映画はもはや双頭サメが人を襲う、サメが空を飛び、宇宙を飛ぶといった奇想天外な方向にシフトしてしまってしまいそのデタラメさを笑うのがサメ映画の醍醐味と化しています。

前置きが長くなってしまいました。いい加減フェミニズムの話をします。

時はフランス革命までさかのぼります。この時、人権宣言がなされたが女性にはそれが認められなかった。これが女性解放運動の始まりでした。

男女平等など一切信じない過激なアンチフェミに至ってはそれさえ認めないかもしれませんが同じ人間である女にも人権、選挙権、教育を受ける権利は は認められるべきという主張は一応は筋が通った正当なものに思われます。

それが時が経ち現在のフェミニズムという名の女性解放運動は様変わりしてしまいました。

ろくでなし子などに代表されるように野砲図で下品であればあるほど良い、淫らであれば良い、アバズレ、ビッチたれ。

思えば初期の女性解放運動家のメアリ・ウルストンクラストは女子教育の重要性を説きました。彼女の願いは女性が知性という武器を得て男性と肩を並べることが出来る社会だったはずですです。

その延長線上の高度な教育を受け社会進出し高い地位につくことに成功した女性というのは女性政治家に代表されるように常にしっかりとしたスーツに身を包み丁寧な口調で話す「品行方正な女性」です。そしてこれを女性への抑圧、差別ということは出来ません。何故なら男性政治家もまた厳しく品行方正さを求められるからです。

我が国が誇る(?)フェミニストである北原みのりは靖国神社でのヌードパフォーマンスで有名ですが海外においてもフェミニストとは「女性の解放」を求めて公の場で裸体で突撃するのが大好きな人たちです。そして取り押さえられ逮捕されるわけですが。とはいえ、これも女性差別というわけにはいきません。何故ならば男性も公の場に裸体で突撃すれば逮捕され社会的信用を失うのは同義だからです。

聖書において人類ははじめ楽園にいたが知恵の実を食べ「知性」が芽生え「人間」になった瞬間から裸であることを恥じるようになったとされています。

性的羞恥とは高度に知性が発達した人間が持ち得るものである動物は裸体であることも皆が見ている前で性交する事も全く厭いません。

北原みのりやろくでなし子に感じる不快感とははしたない女だというより前にはっきりと白痴的なものを感じるからです。

上記とは逆にきわめて性嫌悪的なフェミニストもおります。彼女たちはフィクションの中の性表現に年がら年中、注文を付け続けており反表現規制反対派からなぜ現実の女性を救おうとはせず作中の架空の女性に対する抑圧とやらを過剰に問題視するのか?という疑問は1万回くらい提示されました。

何故ならば現実の女性に対する制度的な絶対的な差別などもはや無いからです。

少なくとも先進国においてもはや制度的な絶対的な差別など存在しません。女性はもはや就学も出来、就職も出来、一国の指導者にもなれます(システム的に)。彼女達は魔王を倒した後も決して冒険をやめない勇者です。ただ倒すべき敵などいないのでその辺の村人に因縁をつけて斬りつけたりして被害者を産み続けています。

内田樹の著書「女は何を欲望するか」はフェミニズムに対して一部評価しつつも批判していく内容で内田氏のフェミ二ストへの眼差しは一貫として冷ややかなものです。

ここで特に興味深いのが内田氏によるフェミニズム的に見た映画エイリアンシリーズの解説です。

ぺニス状の頭部を持ち常に口先から粘液を垂らしヒロインを執拗に追いかけ回し種を植え付けようとしてくるエイリアンとは「男」そのものです。

フェミニズム的に見ればエイリアンシリーズとはレイプし種を植え付けようとしてくる「男」へのヒロインの徹底抗戦を描いたシリーズなのでした。

思えば1は男殺しの物語であり2は母殺しの物語、3は女殺し、4は子殺しの物語でした。

3のラストで溶鉱炉に身を投げたリプリーはクローン技術により人間とエイリアンとのハイブリッドとして再生しもはや人間ではありません。行動をともにしてきた仲間がエイリアンに襲われ殺されるのを無表情で眺める不気味なカットが挿入され彼女が人間性を失ってしまっていることが示唆されています。そして本作にはもうひとりのヒロインとしてウィノナ・ライダー演じるコールが登場するのですが途中で実は人間ではなくアンドロイドであることが判明します。

エイリアンの危機から脱したヒロイン達が地球に帰還するところで映画は終わり公開版では希望を感じさせるラストとなっているのですが実は完全版ではその後の結末が描かれており地球に降り立つと辺りは廃墟と化しておりその前でコールが「私たちはどこへ向かえば良いのか」と不安げに語りリプリーは「さあ・・・」と答え背景のショットで幕を閉じます。

エッフェル塔がボッキリと折れていることからそこは奇しくも人権宣言がなされたフランスなのがわかります(監督はフランス人のジャン・ピエール・ジュネ)。

既存の文明を否定し続けるフェミニストの目指す地平とは「廃墟」であり、「女」を脱ぎ捨てたその姿はもはや「人間ではない何か」なのでした。


#フェミニズム
#note映画部





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