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自分のために食べるということ

このところ、ほとんど毎日、妻のために夕飯をつくっている。

妻は外で働いていて、わたしは家に籠もっているので、妻のために料理をつくるのは夜だけだ。昼はひとりで食事をする。ひとりで食事をするときは、あまり料理をする気持ちが起きない。コンビニ弁当を買ってきたり、Uber Eatsを頼んだりすることが多い。多少の元気があれば、インスタントラーメンを茹でたり、パックご飯を温めてレトルト牛丼とあわせて食べたりする。

山口祐加さんの『「自分のために料理が作れない」方へ』という記事を読んで、これは完全にわたしのことだ、と思った。

わたしは自分のために料理をつくれない。あまり深く考えたことがなかったが、おそらく面倒なのだと思う。いろいろなコストがあり、それを自分だけのために支払う気にならないのだと思う。

料理をつくることが面倒だということはよく知られている。献立を考えて決めたり、必要な食材を買いに行ったり、すでにある食材の消費期限を考えたり、洗い物をしたり、洗った食器を棚にしまったりしなくてはならない。そうした面倒なことは、コンビニ弁当を買ったり、Uber Eatsで注文したりすることでほとんど省くことができる。

食べてくれる人がいると、やりがいが出るものだ。妻はわたしの料理をおいしく食べてくれるので、つくることにストレスはほとんどない。食後の片付けも全面的に引き受けてくれるので、わたしは食材の調達と加工と運用を担えばよく、その点でも助かっている。

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上記企画に応募した際、山口祐加さんと面談する機会があった。そのときの山口さんとの会話で見えてきたのは、「わたしは食べることが別に好きではないのかもしれない」ということだった。

食べることは嫌いではない。嫌いではないことと好きだということは違うわけで、好きなもののために頑張ることはできるけれど、嫌いではないもののためにはそんなに頑張れない。

つくったり片付けたりすることのコストが、食べるときに得られる効用を上回らなければ、料理をつくる気が起きない。わたしが「自分のために料理が作れない」のは、そういうことなのだと思う。

スパゲッティを茹でて食べるとき、あまりにもコストとリターンが見合わないなとよく感じる。鍋に湯を沸かし、何分も待ち、並行してソースを用意する。食べるのはあっという間だ。工夫次第で時間短縮をしたり使う調理器具を減らしたりもできるけれど、いずれにしても、食べるために必要な手間や時間と、食べているあいだの幸福の量が釣り合っていない。いっしょに食べる人がいれば構わないのだけれど。

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わたしにとっての「自分のために料理が作れない」は、言い換えると「自分のために食べることに喜びが少ない」ということなのかもしれない。「自分の機嫌を取る」というあまり好きではない言い回しがあるが、自分のために食べる喜びを供給するというのは生きる上でわりと大切なことのように思う。

外食や中食を活用してもいいし、自分のために料理をつくるようになってもいい。これからしばらく、実践をしつついろいろと考えていきたい。

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