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小川糸『卵を買いに』

誰かの心の世界を覗いてみよう。


日記は綴り手の日常、本音、飾らない感動が詰まっている。
繕われた言葉でなく、縫い目のないまっさらな布に言葉たちが包まれているかのように。

本日の一冊は、そんな日記エッセイ、小川糸『卵を買いに』。

 著者の小川糸氏は1973年、山形県に生まれた。小説家、作詞家、翻訳家として様々な「物書き」の姿勢を見せいている。代表作に『食堂かたつむり』がある。同書は2011年、イタリアのバンカレッラ賞を受賞した。今回取り上げる『卵を買いに』では、彼女の1年間を覗き見できる。飼い犬「ゆりね」とのほのぼのとした暮らしや取材を通して世界各地を訪れ、人々や風土、文化に触れることで見えてくる「大切なこと」を日常と直感から起こされた言葉で伝えてくれる。


 日常の視線の先にある世界。それは、きっと些細な日記が教えてくれる。


「今願うことは、ただひとつ。私の払う税金で人殺しをしないでほしい。」(P.150)

さて、この「7月19日」に刻された言葉を読み砕いていこうと思う。

 この日、描かれていたのは、北欧、バルト海沿岸に位置するラトビアという国についてだった。ここは、美しい自然が国土を彩り、民族伝統の歌や踊りを愛する人々が生命を躍らせている。ラトビアはかつて、ソ連の支配下にあった。人々は共産党員になることを余儀なくされ、伝統の文化や暮らしは否定され続けた。息苦しさの中、ラトビアの人々は耐え続け、1989年8月23日、共にソ連の支配下にあったバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)とそれぞれの首都を人々が手を繋いで「人間の鎖」を築いた。およそ200万人が参加し、600kmを繋いだ。その時ラトビアの人々は彼らの「国歌」を口にした。長きにわたって禁止されていた歌を勇気を出して歌い続けたという。まさに、「歌の革命」だった。そして1991年、ラトビアは主権国家として独立を回復した。
 小川氏は現地でラトビアの人々が、苦難を乗り越え、自由を手にし、生き生きとしている姿を目に写し、自身の生まれた国、「日本」を思った。「経済」の旗をこれ見よがしに振り、国民の目を背けさせ、過去のレッテルを背負いながら、誰かを虐げる行為に加担していく。そんなこの国の現状を危惧していた。ラトビアの人々のように自分の国に誇りを持ち、争いや支配の苦しみを生んではならないと私たち一人一人が意志を持てているだろうか。この日に綴られた率直な思いは、私たちが今立っている足元と視線の先を改めて考えなければならないと、じんわりと熱を持った痛みとともに教えてくれる。

 何気なく手に取った本書は、あまりにタイムリーすぎた。通り過ぎていく「今」を見つめながら思う。「私が住むこの国は果たして100%の信頼を寄せられるだろうか。」失ってはならないものを簡単に取り溢してしまいそうな「今」がこの国には実際に存在している。そして、かつての過ちを繰り返しかねない岐路にも立たされている。選挙の50%を下回る投票率は国民の総意と言えるだろうか、国は一体誰のものなのだろうか。考えを巡らせるほど、問題は山積みであることに気づく。ラトビアの人々が自国を誇らしく思えるのは、人々自らが考え、動き、願いを実らせてきたからだと思う。若者の投票率や政治への関心の薄れが取り沙汰される昨今、私はこの「若者」に分別される世代の人間として、問い直す姿勢があると思う。あまりに些細で雑踏に飲み込まれてしまうほどの一歩かもしれない。だけどそんな一歩が、一人一人に求められている意志表示の決定打なのではないだろうか。


 視界が広がるほど、我が身を振り返ることができる。誰かの心の世界を覗けば、知り得なかった、気づかなかった「ほんとうのこと」が見えてくる。耳や目を塞ぎたくなるような現実も、ささやかであたたかい現実も。

 

日記、エッセイで時にはどこかの誰かの日常を体験してみてはいかがだろうか。
行き詰まった日々を、迂回してみようとする時間も大切なひとときだ。


頭を使ったから、次は、美味しいお菓子の話でも読もうかな。




参考:小川糸『卵を買いに』(幻冬舎文庫、2018年。)

#活字愛好家 #読書 #書評 #小川糸



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