見出し画像

『歴史とは靴である』 磯田道史

「歴史を4年間やる!」

齢十七、私の選択に人々はこう言った。

「歴史なんてこれから先、使える?」

やや嘲笑気味。いや、もはや呆れてる。
私も大学に入るまでは「歴史」は「丸飲みすべき言葉の羅列」としか感じなかった。もちろん、大河ドラマや歴史小説には興味があるほうの人間だったが。
誰も彼も「歴史」を暗記するモノ、物語としての娯楽、まさに「嗜好品」として見ていたのだ。学問として大成し、社会に罷り通るモノだと思える人間は少なかった。そんな世間に常々悶々としていた。果たして歴史は本当に「嗜好品」なのだろうか。その答えを探すヒントをくれたのがこの本だった。

 本書は2019年6月11日に鎌倉女学院高等学校にて行われた時別授業を元に編まれている。講師は磯田道史(いそだ みちふみ)、鬼才の歴史家、書籍やメディアを通して様々な角度から「歴史」を発信し続ける人物だ。磯田氏の高校一年生の時から古文書の解読を始め、それ以外の勉強はしなかったとう逸話に一本取られた覚えがある。一度はテレビなどでお見かけしたことがあるかもしれない。彼が17歳の少女たちに「歴史とは何者か」を語り、問いかけていく。磯田氏の言葉の波は加速をつけた激流のように読者の思考を巻き込んでいく。

 目を皿にして読み込んだ章の一節を抜粋する。

「ホンモノもウソも、いっぱい情報が世のなかにころがっています。みなさんはそこを歩いていくのです。」(P.64)

 ここは「史料」や「史料批判」の話だった。(同志の皆さんはなんとなくわかるだろうか。)

 歴史を象るのは「史料」。公的な文書から私的な日記、覚書、写真、音声、絵画、また考古資料などその種類は様々。これらは誰が何のために書いたか、作ったかによってホンモノ、ニセモノの強度は違ってくる。いや、もはや何がホンモノかニセモノなんて定義できない。よっぽどのデタラメでない限り、そこにはあらゆる視覚や意図、思いが詰まっている。そこを「史料批判」を通して歩いていく。私たちが教科書から離れて、広い歴史散策の海に出た時、大切にしたいことはこうした多くの「歴史観」を受け入れ、読み解く努力をすることだ。この努力が、自ずと地球上にいる多くの友人たちと過去を携え、手を握る出発点になるはずだから。だから「歴史」を学ぶ必要がある。そんな息遣いを本書の文脈から聞くことができる。

 とまあ、堅い話になってしまったが、着ぐるみの日本史や元号の話、AI時代と人文学の共存など、磯田氏特有の噛み砕きやすいユーモア溢れる言葉に乗せて、読者自身も特別授業にのめり込める内容になっている。歴史を辿ってみたくなったあなた、是非今すぐこの本を手に取って欲しい。

「歴史」は決して「非日常」ではない。

 卑弥呼や織田信長、そして私やあなた、というように「個体」の経験が「言葉や技術」によって「史料」となり、全体の共有物になっていく。人類だけが持つ財産のように。だから教科書に住む偉人や侍だけが歴史の登場人物ではない。私たちやその祖先が生きた「日常」すらも「歴史」となり、「今」を創り、人類全体が「未来」の選択肢を増やしていくのである。

もう「歴史なんてこれから先、使える?」なんて言わせない。

17歳の私へ、胸を張って言おう、「おおいに、使用可能、おおいに、学べ。」と。


参考:磯田道史『17歳の特別教室 歴史とは靴である』(講談社、2020年。)

#活字愛好家 #読書 #書評 #磯田道史

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?