金原ひとみ(1) 今日稀有なリッチな登場人物

なんだかんだ金原ひとみが好きでずっと読んでいる
歳が近いせいもあって、結婚とか子どもができるとか、重大テーマの時間が自分の人生と被るのも、興味をそそられる

金原の作品の登場人物は、今時珍しく「リア充女性」ばかりが登場する
階級的にもリッチである
登場人物は平均的に東京23区のマンションに住んでいる

2000年代、10年代以降の女性作家の小説は、基本的に貧乏くさい話ばかりなので、全く異彩を放っている
例えば、今村夏子とか、津村記久子とか、まあ村田沙耶香とかも、出てくる主人公は貧乏ばかりである
「貧しさ」が話の重大なフックであり、要するにプロレタリア小説なのである

同年に芥川賞をとってブレイクした綿矢りさも、面白い作品は大体貧乏からみである
全く余談だが、ダウ90000という若手のコントユニットのYOUTUBEを見ていたら、MARCHの女子学生に演劇の稽古をつけるというコントがあって、監督役が「好きなアーティストは?」などと学生たちに聞いていくシーンがある
多くの学生は「好きなアーティストは『クリープハイプ』です」などと答えて、「おまえらほんとにMARCHだな」とつっこむわけだが、そのうちの一人が「好きな映画は『勝手にふるえてろ』です」と答えると、監督役が感心して、「MARCHのくせに感心だな」というシーンがある
映画「勝手にふるえてろ」は綿矢りさの原作で松岡茉優の最高傑作だが、「クリープハイプ」はMARCH臭くて、「勝手にふるえてろ」はMARCHらしくないというのも分かるような分からないようなオチである
ダウ90000が掴んでいる(そしてその観客が掴んでいる)両者の差異は、20年代の文化現象(消費現象?)に決定的な意味があるように思える
なるほど綿谷はもう「そっち」なのか、と妙に感心したものである

話を金原に戻す
初期作をのぞいた金原小説にはもはや定番ともいえる構造がある
まず、複数の女性主人公が登場する
この主人公の名前は、例えばミクだのユリだのユミコだの、まったく誰が誰だか分からなくなるような名前がつけられている
こういう平凡な名前は、柄谷行人によれば、近代社会における普遍性を象徴する(平凡であることで物語に普遍性を付与する)役割を果たすというが、金原の場合は、普遍性が分割されること(「女は全体性を獲得しない」)に強い意義づけがされているようにも思える

それぞれのキャラは体裁的には充実しているようにみえるが実はそれぞれ一つずつ重大な問題を抱えており、リア充な体面は実は「転落」と紙一重という設定である
いわば見た目のいいスポーツカーが崖に前輪をはみ出していて、誰かが、何かが、「ちょん」と押し出せば真っ逆さまに転落していくような状態なのである
ではどこに「重大な問題」があるのかといえば①性愛、②男というか夫、③子どもとの関係において、どれかが欠損し、欠落感を抱えているのである
これを「金原ひとみのトライアングル」と呼ぶ

そこに何か外部の刺激がくわわり(概ね、セックス、ドラッグ、酒)、①~③のすべてを失いかねない危機が生じる
しかし、多くの場合、スポーツカーは完全に崖から転落することはなく、拍子抜けするほどのハッピーエンドで終わり、ありがたい読後感を残す
この、部分的な欠損➡危機➡危機の回避というプロセスを複数の登場人物にうまく配置することで、個別から普遍へいきなり到達する全体小説化を巧妙に回避しつつ、個別の連なりのなかにある「女の世界」をドンと前に打ち出しているのだ

金原小説のこの構造は、今世紀の小説としてはかなり「贅沢」な内容であるといえるだろう
まず、主人公にはちゃんとした仕事とお金がある
対夫的な「経済的な自立」がわざわざ主題になるほど緊張感もなく、ちゃんとした仕事をしているのである
次に、登場人物はおしなべてモテて、いくつになってもセックスの相手にも困らない
さらに、子どももいるという
今世紀の女性作家小説=貧乏くささ、と比べれば、いかに稀有な人物設定をしているかが一目瞭然だろう

しかしその「贅沢」さは実は破滅と紙一重である
はっきりいってしまえば、金原の小説はすべてプチブルジョワジーの精神的危機を描いた小説なのだ
19世紀といってもよい
ただしそれは男のものではない
その点において、現代のプロレタリア化した小説群との対比は明らかだろう

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