「桐島、部活やめるってよ」の桐島、部活やめてファイトクラブに入会した説

前回の失敗を踏まえての映画感想文リベンジ。二つの映画を比べて感想書いたら上手くいくんじゃねとふと思ったので書く。あらすじとかは書かないし、ネタバレもしてく。と言ってもこの二つの映画はネタバレとかさほど気になる映画じゃないんじゃ・・・と思う。

以下、ネタバレと個人的解釈を含みます。

「桐島、部活やめるってよ(以下『桐島』)」と「ファイトクラブ」は似ても似つかぬ映画な気がする。前者は青春学園映画、後者はなんだろ・・・強いて言えばクライム?か、暴力映画と言ってもいいのかもしれない。とにかく、一見すると全然違う映画で時代や場所の設定も全く異なる。しかし、主題は同じなんじゃないかと思う。どちらも「生きてる実感のなさ」が語られている気がする。

『桐島』では桐島が部活やめ、蒸発するところから始まる (作中、桐島は少なくとも大々的には出ない)。失踪に困惑する同級生たちの話によれば桐島はスポーツ万能、おそらく勉強もでき、さらにルックスもよく、学校で一番可愛いとされる女が彼女だ。スクールカーストの頂点であり、蒸発しそうにない。そんな彼が突然姿を消した。何故だかわからず混乱する同級生たち。だが、そんな中やめた理由をわかってそうな同級生がいる(「わかってそうな」というより「察してそうな」と言った方が正確か)。今をときめく俳優(皮肉ですが)東出昌大演じる菊池だ。彼も桐島と同等のスペックをもち、やはりスクールカーストの頂点にいる。しかし、彼は部活をやめてない。練習には参加してないが、野球部特有のエナメルバッグを背負っている。死語をあえて使わさせて頂くと菊池も「超リア充」ではあるのだが、常にどこか虚無感を感じる表情をし、何をしてても真には楽しそうではない印象がある。

「ファイトクラブ」の主人公「ぼく」も決して社会の底辺というわけではない。むしろ、大企業で働いており部屋も家具も一級でかなり裕福な部類である。だが彼もまた虚無感が不眠症として症状に現れている。

菊池からも「ぼく」からも一般に言われる「勝者」ではあるのだが、彼らから感じ取れるのは勝者特有の覇気ではなく虚無感・厭世観。「生きてる実感のなさ」を感じとれる。

前回の駄文の中でも書いたが「生」は何故か「これが『生きる』ということ」といった具合に何者かにより勝手に定義される。『桐島』ではそれが「スクールカースト」として表れてるし、「ファイトクラブ」ではそれが「いい家具・部屋、そういうライフスタイル」として表されている。だが、これらの映画で「定義された生」を完璧にこなしまさに「生きてる」人間から感じるものは「生きてなさ」だ。

むしろ、両映画から「生き生き」してる姿を感じるのは、『桐島』だったらスクールカーストの下の下、まるで冴えないが映画作成に熱中する映画部コンビ。「ファイトクラブ」なら部屋が爆発し、「いい暮らし」からは遥か遠いところに暮らしはじめファイトクラブなるものに入会した後の「ぼく」。どちらもそれぞれの「定義で言ったら」死んでるような生き方をしている。

前者は「本能の言う『好きなこと』に熱中する生き生き感」、後者は「痛みや殴った感覚を通して生きてることを実感する生き生き感」。この「生き生き」している両者に共通しているのは広い意味での「動物的な生」を生きてることである。一方で「定義」という「人工的な生」を生きている菊池や映画冒頭の「ぼく」はというと、諄いようだが、まるで覇気を感じられない。

先進国特有の「人工的な生」を生きる者はそれ自体に支配されている。ブラピ演じるタイラー・ダーテンが冒頭で「ぼく」に言ってたように。「お前はライフスタイルの奴隷だ」と言った具合に。だが、本当はもっと自由に生きていいはずだ。動物的に。

『桐島』に出てこない桐島もそれにいち早く気づいたのだと思う。「生」それ自体に支配されて生きるのはもうよそう。しかし、何もかもを得たものに何かを得る喜びは最早ない。彼が「生き生き」するためには、「動物的な生」を実感するためにはもう彼にとって熱中できることが少なすぎた。なので、桐島は「ファイトクラブ」に入会し、痛みを感じるしかない。タイトルが回収できた。

『桐島』のクライマックスはゾンビ扮する映画部が「スクールカースト」に生きるリア充たちに襲いかかる。「生の定義上死んでいた」者たちが「生き生き」と襲う。だから映画部が撮っている映画はゾンビ映画以外ありえない。映画冒頭で映画部顧問が「ゾンビ映画もいいけど、題材は常に『自分のリアル』にしろ。だから青春映画を撮れ」と映画部コンビに言っていた。野暮だしこの教師は無能もいいところだ。彼らにとって「リアル」は「青春映画」で表現されるようなものじゃない。まさしくこのゾンビなのだ。そして、このゾンビたちが「生きてる」者たちに襲いかかり、「俺たちの方が生きてるんじゃ〜」と教えている。最高のクライマックスだ(結局負けて多分土下座までさせられているのだが)。

「ファイトクラブ」は「ライフスタイル」という諸悪の根源にある「資本主義」を破壊するところで終わる。両映画とも「定義された生」を終わらせるところをクライマックスにしている。「動物的な生」を生きる者たちが「人工的な生」を生きる者たちを解放する、しようとするところをクライマックスにしている。

『桐島』のラストシーンでは、菊池が神木隆之介演じる映画部コンビの格好いい方前田にインタビューする。「なぜ映画を作っているのか?将来映画監督になって女優と結婚するのか?」(この時、初めて菊池が楽しそうにしてるような気がする。)「いや多分映画監督にはなれない。だけど楽しいから撮っている。」この返答に衝撃を受ける菊池。彼も気づいてしまったのだ。「人工的な生」に実質はなく、ただただあるのは虚無であることを。「それにしても菊池くんは格好いいよね、画になるなあ」と菊池に無邪気にカメラを向ける前田。「俺には何もないよ・・・。」と寂しくその場を後にする。そして号泣してしまう。ラストのラストに練習する野球部を見ながら誰かに電話をかけようとするところで映画は終わる。

このラストシーンにはいろんな解釈がある。「つまり、最後に菊池は誰に電話をかけたのか」。「野球部の先輩説」と「桐島説」などがあるが、僕は飛行機でたまたま隣になった男「タイラーダーテン」だと思う。そして菊池も桐島同様ファイトクラブに入会し、生を実感する・・・。

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