「大状況」と「小状況」ー『探検家の日々本本』(角幡唯介著)
探検家の角幡唯介氏が自身の読書記録を綴った『探検家の日々本本』(角幡唯介著)が面白かった。特に『小さいおうち』(中島京子著)について書かれた章で膝を打った。ここでは全体の状況、例えば登山なら雪山の状態(天気や雪崩の発生可能性等)を大状況、個人を取り巻く感覚的な状況を小状況と表している。角幡氏曰く、個人の小状況に囚われている時は危険を察知していても、雪山の大状況を正確に認識できないというのだ。大状況が危険水域に達していても、小状況ではまだまだ大丈夫と認識にギャップが生じてしまい、結果的に大惨事に巻き込まれてしまう。後から考えればどこで一線を越えたかは明確なのだが、当時は楽観的な小状況にのまれ危険を認識できない。(角幡氏は2度雪崩に遭ったが、九死に一生を得たという。。。良かった)
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『小さいおうち』(中島京子著)では東京の郊外で日常生活を送る登場人物たちは日々の生活に忙しく、不穏な国際情勢という大状況を正確に認識できない。日々報道されるニュースは確実に悲惨な戦争へ足を進めていることを伝えるが、不穏さを感じながらも個人の暮らしが穏やかである限り彼らは数ヵ月後に自分達の生活がどうなっているのか、想像できない。角幡氏はこの章を”今日、新聞で読んだニュースが実は後から考えると決定的な一線だったということは、十分にあり得る話だ。”と締め括っているが、私はこの章からもう一つ言えることがあると思う。
個人が何となくおかしい、と思う小波は大体後で大きな潮流となって社会に現れる。何でこの状況が続けられているのだろうか、もしかしてどこかに歪みがあるのではないか、と感じる社会の雰囲気は、既に大状況の決定的引き金を引いた後である。そして個人個人の思いというのは、歴史を人間が作っている以上、社会の流れとなって実現される。今、香港では私自身2012年に感じていた違和感が社会の大きな流れとなって実現している。もしかしたら当事者の香港人たちは個人の経済状況や日々の暮らしといった小状況に夢中であまり認識していなかったかもしれない。しかし少し離れて中状況辺りを見ていた私たち外国人からは割と明確であった。
日本ではどうだろうか。個人的には既に引き金は引かれていると感じる。特に経済面での凋落は避けられないだろう。数々のデータが示すここ20年での経済の縮小、少子高齢化、既得権益を守るための社会構造では、どうあがいても国全体での貧困化は避けられない。街を歩けば高齢者ばかり、20代の給料は他国の同世代より低く、5年間の会社員生活ではおじさんたちの既得権益を守るための社会システムが縦横無尽に張り巡らされている様をまざまざと見せつけられている。そして何よりも外国からの問いかけは厳しい。報道ではCool Japan, Tokyo Olympicsだが、実際に聞こえてくるのは少子高齢化への対策に関する疑問、ガラパゴスな社会に感銘を受けたとのコメント(捉え方次第だが、経済面や学術面ではマイナスだろう)、そして物価の安さを称える声である。どう楽観的に見ても、20年後にまともな生活が送れる環境だとは思えない。しかし今がなんとかなっているから、皆疑問に思っていても行動しない。どのような形で個人個人が持っている違和感が社会に現れるかはわからないが、今現在もじわりじわりと大状況の崩壊に向けて確実に歩みを進めている。
『探検家の日々本本』は他の章も抜群に面白かった。氏の読書をした際の状況はほぼ探検中なのだが、これもすごい。尚、読んでみたい本ばかり紹介されており積読が増えてしまうのが珠に傷である。
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