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知覚の扉

何度か興味深い体験をしたのでそのときのことを記録する. ただ, 「そのとき」はいろいろな意味でいつもと違う感覚に陥るので, うまく描写できる自信はない.


平衡感覚の喪失によって「そのとき」が始まったことを感じる. 立てなくなるほどではないが, 遊園地のコーヒーカップに乗った後みたいに足元がふらつく. いわゆる「目が回っている」状態にかなり近いが, 目が回っているとき特有の不快感みたいなものは全くない. 足が自分の体重を感じなくなり, ふわふわして心地よい.

喉が異常に乾いたのでりんごを食べた. 自分の歯が果肉にじわじわと突き刺さっていくのを感じる. 歯と果肉の間から, びちょびちょのスポンジを絞ったかのように果汁が溢れ出す. りんごの酸味, 甘味, そしてほんのちょっとの苦味(多分皮の味)が口の中を超えて体全体に広がる. 普段何気なく食べてるりんごがこんなにも美味しいものだったのかと感動する.

口の中に残るりんごの強烈な風味を消したくなり水を飲んだ. 水と自分の唾液が混ざりあった味がする. りんごを食べた時もそうだったが, 「そのとき」に何かを口に入れると, 水の味はこれ, 唾液の味はこれ, というように味の解像度が急激に上がる. 唾液の混ざった水はほんのり甘く, これもまたいつもより美味しく感じた.

一緒にいた友人と一緒にふらふらになりながらタバコ巻き, それを肺いっぱいに吸った. 頭の中でニコチンがパチパチと弾ける. 家の中でソファに座ってでくつろぎながら窓から遠くの花火を眺めているときのような感覚. 味もいつもと違う. 直前に水を飲んだせいか, タバコの煙は湿気とほんの少し甘味をもっていた. 吸っているというよりは飲んでいる感覚に近かったかもしれない.

歯を磨いて自室に戻り, ヘッドホンをつけてベットに横たわった.


体とベッドの温度差を鮮明に感じる. しかし手足の感覚は曖昧になっている. 手のひらが体についているのか, それとも手首が捻れて手の甲が体についているのかわからなくなる (後から思えば普通に考えて前者なのだが, 本当にわからなくなる). そのうち自分の手がどこにあるのかもわからなくなる. というか, 自分の手があるのかもわからなくなる. 手首より下の感覚が文字通りなくなるのだ.

そのうち自分がベッドと一体になり, そのまま宙に浮いているような感覚になる. 音楽が始まる. 「そのとき」に聴く音楽で僕が一番好きなのはLeipzig Gewandhaus Orchestraが演奏する「交響曲第9番」だ

「そのとき」に音楽を聴いた時の感覚は本当に形容し難い. とにかく感動する. それぞれの楽器の一つ一つの音が鮮明に聞き分けられるのに, それら全てが絶妙に調和してメロディーが完成していることを理解し, ベートーヴェンへの憧憬が溢れる. 心の琴線がびりびりと震える. 太鼓の連弾がガリアを蹂躙するカエサルの軍団の足音に聞こえる. バイオリンのメロディーが蛍の飛び交う夜の川に見える. 空の青白い花火が水面に反射して少し眩しい.

ここまで, 味覚, 聴覚, 感覚といった外的な刺激に対する応答について話してきたが, 内的にも劇的な変化がある. 思考の速度, 並列数が激増するのだ. ものすごい数の思考が同時並列でとてつもない速度で流れ続け, 消えていく. どうやら記憶力は下がるらしい.

僕はベートーヴェンとトリップしながらこの思考の濁流に身を投じるのが好きだ. さまざまなことを同時に考え, 理解し, 忘れていく. 考え, 理解し, 忘れていく. これを永遠に繰り返す. 自分の人格の本質, デカルトの哲学, 人が生きる意味を濁流の中から手で掬ってみる. じっくりそれを眺めようとするが, 指の間からするすると逃げ, また濁流の中に消えていく. 少し歯痒い気持ちになるが, それもまた心地が良い.


これは仮説だが, 人は普通に生活している時から膨大な量の外的情報・内的情報(思考)を無意識に回しているんだと思う. 「普段」はその膨大な情報の中から生存に必要なものだけをフィルタリングして意識の中に引っ張り出している一方で, 「そのとき」はこのフィルターがなくなり, 全ての情報が意識の中に入って来て言語化される. 当然「そのとき」の意識に入ってくる情報の量は普段のそれとは比べものにならないため, その処理に脳のリソースの大半が回され, 記憶力が低下するのだ.


全部冗談です. 最近Aldous HuxleyのThe doors of perceptionという本を読んで結構面白かったのでその読書感想文を書いてみました.






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