人・世界・物理学
僕を含む多くの人間は世界の有り様は物理学、厳密にはその根幹を担う数学や論理学といった言語で記述できると信じている。
例えば現代物理学の基礎の一角を担う量子力学は「系の状態は対応するヒルベルト空間内の状態ベクトルで表され、状態ベクトルの時間変化はシュレディンガー方程式の解として記述される」という主張をする。
実際のところあまり複雑な系のシュレディンガー方程式は解けないので、僕たちがこの主張から抜き取れる情報はほんの少ししかないが(なので化学のようなマクロな自然科学も大変重要)、そのほんの少しの情報が世界の有り様と整合することは数々の実験によって確認されている。
僕を含む多くの物理学者は、「まあ世界がそう言っているんだから量子力学は正しいんだろう」と納得する。たとえ「そこにモノがある」という当たり前の感覚(局所実在論)が量子力学によって否定され、それが実験で確認されても、驚きはするが結局は受け入れる。
「物理学は正しい」という命題はおそらく真だろう。当たり前すぎて忘れがちだが、この命題が真であるという事実は、よくよく考えてみると不思議なものだ。
なぜ物理学、ひいてはその根幹を担う数学や論理学が世界を記述できるのか。この問いに対する答えの候補としては「そもそも数学や論理学も人の経験から生まれたものだから」ということもできるかもしれない。
つまり、そもそも数学や論理学は世界と整合性がとれるように作られた。という主張である。
デフォルメすると、「昨日りんごを3個拾ったけど今日の朝に1個食べちゃったから今は2個しか持ってない」みたいな経験から「3-1=2」という数式を大昔の誰かがパピルスに書いたとする。もしこのようなプロセスで数学や論理学が産まれていた場合、それらが世界の有り様を記述できるのは自明である。というかトートロジーである。なぜなら、数学や論理学はそもそも世界を記述できるように作られたものということになるからである。
一方で、「3-1=2」という方程式は、昔の人がりんごを食べていようとなかろうと、はたまた僕たちが生きる世界があろうとなかろうと、成り立つ様にも見える。
もし、数学や論理学が世界の有無にすら依存しない、人類の経験に先立つものであった場合、世界がそれによって記述されるという事実は実に驚くべきことだ。
数学や論理学が世界の存在にすら先立つとすると、それが世界を記述できるのは偶然なのだろうか。それとも、そうなるように世界ができた(つくられた?)のだろうか。
カントは数学や論理学はアプリオリ、すなわち経験に先立つと言った。カントが正しければ、物理学は神秘的だ。
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