240204②廃墟に遭遇。

画像1 地図で確認するとこのハヒンガー川はかなり長い。先週のミハエル教会の近くも同じ川
画像2 このモニュメントはなんでしょう
画像3 教会近くの小川を散策します。バスの時間まで20分ぐらい。バスを待つなら駅まで歩いてみようと決意。ウオーキングやジョギングの方も多いし、まあ大丈夫でしょうと
画像4 クレソンではないとは思う(ST.Emmeram近くの川でクレソンを取ったことを思い出しました)
画像5 こんなところにチャペル!
画像6 少し近くへ
画像7 ここは通るのに苦労。この細い道でもジョツカーと何人かすれ違い
画像8 なんだか夢の世界を歩いているみたい
画像9 ここは何かのお屋敷かな
画像10 一度小川は途切れましたが、また出てきました
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画像12 小川沿いは終わりです。
画像13 こちらで小道は終り、あとは大通りからペラッハ駅まで
画像14 壮大な囲いがモニュメント24.04.2018, 16:17- コメント白 プリントシェアペルラッハに新たなモニュメントが誕生する。ウンタービベルガー通りにある私有地のフェンスと庭の壁、礼拝堂が保護されることになった。庭の敷地に沿った柱と塀、錬鉄製のフェンスは、バロック様式と古典様式に分類されている
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画像16 しかし、地元ラーマースドルフ・ペルラッハ地区委員会は、庭全体と住居棟が登録建造物リストにないことを残念に思っている。委員会の全会一致の意見によれば、不動産開発業者による接収を防ぎ、集中的な開発からこの土地を守るためにあらゆる努力を払うべきである。「この敷地はすでに不動産開発業者に狙われている。とはヴォルフガング・タルメア(CSU)は言う。インターネット上では、将来の住宅購入のオファーが出回っており、その総額は約200万ユーロにのぼるという。
画像17 ★航空写真★(続き)また、著書『ヒマラヤの戦い』で1932年ロサンゼルス・オリンピックの「リベラルアーツ・コンペティション」の「文学」部門でオリンピック・チャンピオンに輝いた。彼の名前は、ベルリンのオリンピックスタジアムにあるドイツオリンピックチャンピオンの名誉の石碑に刻まれている。その後、公証人であり元山岳歩兵少佐であった彼は、ドイツ・ヒマラヤ財団の創設者であり、その代表を務めた。
画像18 1906年、商人マルティン・リストは家の周りに壮大な囲いを作らせた。リストは自宅の周囲に壮大な囲いを作らせた。それはおそらく、背後に重厚な別荘があるかのような印象を与えるためだったのだろう。しかし、1897年に建てられたこの建物は、外観はスイス風の装飾が施された、かなり小さな住宅である。増改築の際、装飾の大部分が取り除かれ、内部の間取りも変更された。その結果、19世紀末から20世紀初頭の仕上げのほとんどすべてが失われている。
画像19 ★家は残っているときの写真なんですね★
画像20 そのため、住居棟は記念碑保護の要件を満たさないが、フェンスと南庭のアイキャッチとして並行して建てられた小さな礼拝堂は満たしている。これらはペルラッハの歴史的中心部の名残だが、建築物も保護に値する。かつての所有者の一人も歴史的に興味深い。パウル・バウアー(1896~1990)は国家社会主義スポーツ組織の最高幹部で、「ドイツ帝国身体運動協会登山・ハイキング専門部」の部長だった。バウアーは1929年からドイツ初のネパール・ヒマラヤ遠征のリーダーを務めた。
画像21 (日本語訳の記事)この記事ではもう家は取り壊されているようですね。
画像22 図11:こんな美しい壁画が残念★バウアー邸の玄関ファサードに描かれた聖母マリアの絵(旧公証人ポール・バウアー家、1990年没)。 バウアー家、1990年没): ウンタービベルガー通り68番地に描かれた聖母マリアは、マリア・イマキュラータ型の特徴を示している。 イマキュラータ型(星の花輪、三日月)と保護マントの聖母型の特徴が見られる。- 敷地 敷地内には、共同経営者であったヨゼフ・プファンツェルトによって1906年に建てられたプライベート・チャペルもある、 の甥であり、ペルラッハと特別な関係にあった★
画像23 ペルラッハのマドンナの家の伝統という冊子 ポール・バウアーについてのwiki https://de.wikipedia.org/wiki/Paul_Bauer_(Bergsteiger)

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