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この感覚はアレに似て、、、



母が退院して

家に帰ってから

1週間が経つ


朝に、昼に、夕に、晩に

いっしょにトイレに行く


いっしょに歩く

いっしょに座る

いっしょにご飯を食べる


いっしょに着替える


・・・・・


手すりにつかまりながら

トイレに行ったり


手すりにつかまりながら

玄関を降りたり

(そして、外を散歩をする)


歩行器で家の中を移動したり

(そして、窓辺で外をながめたり)


・・・・・


そんな日々は

とにかく、「待つ時間」が多いのだ


(トイレに行くにも

たぶん、、、5倍くらいの時間がかかる)




なので

母と一緒にいると

時間が、5倍ゆっくり流れている


(このタイパの時代に逆行している)


あくびが出るほどの

時間の進み具合なのである


・・・・・


さて、さて

骨折、入院前のワタクシは

母によく腹を立てていた


しかし、、、

今はなんだか


ちっともハラが立たない


このゆっくりした時間の流れに

満足している



よくあるパターンでは


88歳で大腿骨を骨折して、、、

となると


それから「寝たきり」

そして「衰弱」

それから、「終焉」とかのパターン



どうやら

ワタクシは

母の死を受け入れたようである

(感覚的にね)



あるいは

衰えを受け入れた


とか

出来ないを受け入れた



それが

悪いことでもない


それが悪いコトと感じている

アタシがいるだけで


なのである



・・・・・


この感覚はアレに似て、、、




子供が産まれてくるときに


とにかく

「五体満足なら」

「元気なら」


それだけでいい。

と、願ったものである




母は、衰えている


足はむくむし

おしっこは時々漏らすし


時間はわからないし

言うことは、時空を超える



でも

「生きてるだけでいい」のだ



明石家ふうに言えば

「生きてるだけで丸儲け」




ま、とにかく

出来る、出来ないの

前提条件を抜きに


「生きてるだけでいい」

のだ


子も親も(人も)



・・・・・


それは

上手にできた

過去の執着のあきらめであり


未来は「知らんがな!」でもある



人生の

オープニングとエンディングで


「生きてるだけでいいんぢゃない」と

思われてるのに、、、



ほんとは、基本

「生きてるだけでいい」ハズなのに




子供だって

幼稚園に入る頃には


比較の中で

「出来る・出来ない」で

心配されたりして



小学校になると

愛される前提条件が

ますます増えて


(勉強が、、、とか

 運動が、、、とか)



大人になったら

「出来るコト」がマストで


「出来ない」は、あり得ないし


「出来なくなる」は、もってのほかで


その悲しみにイラ立ったりする

(自分にも、他人にも)



・・・・



時間が、5倍ゆっくり流れていると


鳥のさえずりや

ちょうちょの羽ばたきや


花の香りや

肌に当たる風の温度や


そんなものが

いっそう感じられるのであり



「それでもいいんぢゃない」と

思えたりして


「いとおかし」な

暮らしを満喫している



それは

オトナとして

「いとわろし」だったりするので


時々、すこし困るのだが、、、


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