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『ウルトラマンは現代日本を救えるか』未収録原稿―『ウルトラマンレオ』終盤に見る「公」と「男性性」の退潮―

 『ウルトラマンは現代日本を救えるか』は、1960年代から2000年代までを10年区切りとし、その年代の作品が表象する社会について論じたものだ。1970年代の未収録の内容について、当初のプロットをもとに書き下ろしていきたい。

 『ウルトラマンレオ』の終盤、第4クール(第40話以降)は4年で4作品続いた第2期『ウルトラマン』シリーズの最終局面でもあった。シリーズとしては初となる、人間の姿をした(実際は宇宙人)悪の司令官であるブラック指令の号令の下、円盤生物が地球を襲来する。最初の円盤生物であるシルバーブルーメによって、防衛隊MACはいとも簡単に全滅する。シリーズにおいて防衛隊の全滅は初の出来事だった。

 『ウルトラマン』以降で設定されてきた防衛隊は、『ウルトラQ』あるいは、東宝の怪獣映画等で定番となる、怪事件を追う記者らと科学者、それにその移動手段となるセスナ機のパイロットを一体にした集団だ。そしてそこでは防衛軍の長官や幕僚長の下、隊長が率いる5~6名程度の精鋭部隊が描かれる。刑事ドラマを思わせる彼らの集団はホモソーシャルなもので、女性は「紅一点」的存在で、戦いの前線に出ることも多いが、一方で男性隊員があまり担わない通信や救護を担当することもある。

 隊員たちが勤務の後に基地内でくつろぐ場面もときに描かれ、『帰ってきたウルトラマン』では、部屋で模型を組み立てている男性隊員に、別の男性隊員がブランデーを片手に話しかけ、そこに隊長が煙草を吸いながら任務を言い渡すシーンもある。これらは社会の公的空間の男性社会化を表象するに十分なシーンと言えるだろう。

 『ウルトラマンレオ』は、世界がオイルショックに揺れ、日本でもとうに過渡期を過ぎていた高度経済成長がいよいよ終焉を迎えるというパラダイムシフトの時期に作られた。主題歌にある「何かの予言が当たるとき」は、五島勉の説くノストラダムスの大予言、つまり世界の終末を伝えるもので、作品にはそれまでにはない殺伐さが底流していた。

 『帰ってきたウルトラマン』以降のシリーズでは常に「公」は大衆からその存在意義を問われ、組織内では上意下達による硬直や、相互不信が描かれた。これはそれ以前の作品には見られないこの時期の作品に特有の描写であった。それでも、公的組織はどうにか破綻せずにいたのが、『レオ』ではとうとう全滅する。それもある日唐突に。

 防衛隊に替わって描かれるのが美山家である。所属するべき組織や家庭を失った主人公のウルトラマンレオ=おおとりゲンとトオル少年は、病院の看護婦長を務める美山咲子の家庭で生活することになる。美山の夫は既に他界しており、家長である咲子の長女、次女とゲン、トオルの5人の生活が始まる。咲子はゲンとトオルの生活を支えるだけではなく、精神的支柱ともなる存在だ。防衛隊以外にこのような存在がいたという点では、『帰ってきたウルトラマン』の坂田もそうであったが、坂田と帰ってきたウルトラマン=郷秀樹は師弟関係のようなものがあり、私的な繋がりではあってもやはりホモソーシャルから脱却したものではなかったのだった。しかし、美山家の存在は私的空間であると同時に、ホモソーシャルを脱却するものであった。

 しかも最終回、最後の円盤生物ブラックエンドとの戦いに敗れそうになったウルトラマンレオや、ブラック指令に捕まったトオルを救ったのは美山の次女あゆみが他の子どもたちを先導し、ブラック指令を退治するという勇敢な行動あってのものだった。

 公的な組織や、ホモソーシャルな関係性の外側で『ウルトラマンレオ』は、そして『ウルトラマン』シリーズは終わった。このことは先に述べたパラダイムシフトと無関係ではないだろう。社会のありようの変化が求められる中で、公的なものの権威や男性中心主義は古いものになりつつあった。

 『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』(福嶋亮大)では、失われた「大きな物語」を家族が埋めたのだと指摘する。付け加えるならばそこでは「公」というものが退潮しているのであり、MAC全滅と美山家の存在はそのことを表象しているのだと言える。また公の退潮については『リトル・ピープルの時代』(宇野常寛)にも接続されていく議論となり得るだろう。

 大澤真幸は「昭和〇〇年代」という言い方がされなくなるのは、そのような区切りに意味がなくなるからなのだとする。確かに「1980年代」という切り口はあっても、「昭和50年代」という切り口はあまり見ない。「昭和30年代」は懐古主義的によく語られるが、辛うじて元号で区切ることに意味が生じるのは「昭和40年代」ではないだろうか。東京五輪以降、半ばで万国博覧会を経験し、オイルショックを主因とする高度経済成長期の終焉する10年間。『ウルトラマンレオ』最終クールはその昭和40年代の終焉を表象するものであった。

 

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