映画『シン・ウルトラマン』雑感

1 『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』、『ウルトラマン』と『シン・ウルトラマン』

 『シン・ウルトラマン』冒頭は、『シン・ゴジラ』のタイトルを打ち破って『シン・ウルトラマン』と銘打たれるところから始まるが、『シン・ウルトラマン』は『シンゴジラ』的な作品ではない。
 『シンゴジラ』は、1954年の『ゴジラ』が存在しなかった前提で物語が始まりつつ、『ゴジラ』という怪獣映画の”祖”をリブートして見せるものであった。だから、設定上の連続性などは全くないながらも、『ゴジラ』が「戦争」「核開発」等の政治的な問題の暗喩として受容されたように、『シン・ゴジラ』もまた、様々な政治的な状況を表象するものとして描かれた。つまり、設定上は過去の『ゴジラ』を引き継いでいないながらも、政治性をもって受容されるという『ゴジラ』の内的性質を引き継いだのだった。多くの識者が既に言うように、日本の中枢で凍結したまま動かないゴジラは原子力発電所の比喩であっただろう。さらに言えば、2011年の東日本大震災という強大な非日常的な事態によって露呈してしまった、この国の体質というものを描いたのが『シン・ゴジラ』であると考えている。ゴジラが出現という緊急事態にも関わらず、余計な弁明や根回しに追われ、事態解決の本丸に向かえないもどかしさ。あの退屈ともいえる前半30分にこそ、『シン・ゴジラ』の特徴と魅力が詰まっている。
 その『シン・ゴジラ』のタイトルを打ち破るようにして始まる『シン・ウルトラマン』のオープニング。それはもちろん、『ウルトラQ』のタイトルを打ち破って『ウルトラマン』のタイトルが現れる、かつての『ウルトラマン』のオープニングを模したものだが、この点からして、『シン・ウルトラマン』は『シン・ゴジラ』と異なる。徹底的に『ゴジラ』との繋がりを描かなかった『シン・ゴジラ』に対して、『シン・ウルトラマン』は冒頭から、『ウルトラマン』の演出を再現していた。
 そして、『ウルトラマン』の前番組であった『ウルトラQ』世界もまた、存在したことになっており、実際には描かれなかった『ウルトラQ』と『ウルトラマン』の作品世界の繋がりまで描かれ、また、当時のBGMやSEが流れ、印象的なショットも再現されるなど、随所で『シン・ウルトラマン』は『ウルトラマン』を引き継いでいた。

2 ”ハレ”の怪獣のリアリティー

 しかし異なるのは、怪獣出現がリアリティーをもって描かれた点だ。ごく草創期の怪獣映画こそ、怪獣出現の状況は、ときにドキュメンタリー的な程にリアリティーをもって描かれたが、怪獣映画が映画の恒例興行であり、怪獣が銀幕の”スター”と化した後は、怪獣は作中においても、恐怖を与える異形としてよりも、特に年少の視聴者に喜ばれる、親しまれる存在となり、怪獣出現には”ハレ”の雰囲気さえ漂った。『ウルトラQ』で劇中では使われなかったが、ソノシート等では主題歌的に扱われた「ウルトラマーチ」では「火を吐き こわし ぶっとばせ」と怪獣に喝采が送られていた。
 だが『シン・ウルトラマン』では、ネロンガやガボラといった『ウルトラマン』に出てきた怪獣がハレの存在などではなく、真に人類の脅威として描かれている点にリアリティーがあった。

3 『ウルトラマン』で政治、安保を語ることへのアイロニー?

 怪獣の出現により、核使用の解禁を迫られる、といった意味合いのくだりがあったように記憶する。つまり、怪獣の出現という出来事が核使用の方便として利用されるということだが、ここは二つの見方ができる。
 一点目は、『ゴジラ』は川本三郎以来、戦死者の亡霊的存在として、『ウルトラマン』は、その人類の庇護者としての役割をもって、花田清輝、佐藤健志らによって、日米安保下の米軍として捉えられてきた。そのような系譜上に『シン・ウルトラマン』があるということを指示しているという見方である。
 自分としてこちらではないかと思うのが二点目の見方である。
 上記のような政治的な「読み」が過剰に繰り返され、怪獣映画と言えば政治的に解釈するものといわんばかりの姿勢を批判、あるいは笑い飛ばすかのような意味合いを見出すという見方である。つまり、怪獣出現をもって核使用の方便とするという展開は、怪獣映画をもって政治的言説を語りだすことを批判的に、あるいは滑稽に捉えているまなざしによって成り立っているのではないかということだ。

4 再現される『ウルトラマン』世界として

 最後は人間を危険視したゾーフィが、ゼットンを利用して人類滅亡を目する。『ウルトラマン』ではゼットンに敗れたウルトラマンを迎えにくるのがゾフィであったが、当時の児童向け書籍では、ゾフィが悪のウルトラマンであり、ゼットンを操るといった怪情報が流れていた。今と違い、録画することができず、しかも真実をネット等で確かめることのできない時代には、書籍に載った誤報が独り歩きすることも珍しくなかった。つまり、『シン・ウルトラマン』でのゾーフィが操るゼットンは、『ウルトラマン』の再現ではなく、同時代に『ウルトラマン』を取り巻いていた、都市伝説的なアナザーストーリーの再現であった。そのような意味で『シン・ウルトラマン』はn次創作的であり、その点でもn次創作性の稀薄であった『シン・ゴジラ』とは異なるといえるだろう。
 また再現ということで言えば、『シン・ウルトラマン』は金城哲夫がつくった『ウルトラマン』世界、そして成田亨が後年、「真実と正義と美の化身」と称したウルトラマンの立体化でもあった。それは成田の原画にそってカラータイマーがないウルトラマンを作ったという次元に留まるものではない。成田は金城らの考える作品世界を受け、混沌のコントラストとしての秩序を具現化する存在としてウルトラマンを描いたのだった。同様に、神々しさと美しさをもってウルトラマンが造形され直したことによって、人類を愛し、守るというウルトラマンの信念がビジュアル的に体現されているという点、つまり観念の可視化が成されているという点で、成田のウルトラマンが再現されているといえるだろう。
 モーションアクションアクターとして、『ウルトラマン』のスーツアクターであった古谷敏が起用されていることで、ウルトラマンの身体性が、そして『ウルトラマン』の音楽がそのまま多数、流用されていることで、音楽性も再現されるに至った。
 また、これは再現ではないが、人類を危険視するゾーフィがゼットンを使って人類全滅を図るという展開は、デラシオンが宇宙正義の名の下に地球人粛清を定め、同じ立場を取るウルトラマンジャスティスがそれを告げにやってくるという、劇場版『ウルトラマンコスモス』の展開と相似形であり、ゼットンを倒すためにウルトラマンが異次元に行ってしまうという展開は、『ウルトラマンダイナ』の最終回と相似している。
 これらは、『コスモス』『ダイナ』世界を巧に取り入れたというよりは、(特に『コスモス』の展開は)『ウルトラマン』の話を煎じ詰めていく際に浮かび上がる方向性のようなものであるのかも知れない。

5 最後に―コロナ禍の世界をどう描くか

 『シン・ウルトラマン』はストーリーで見せる映画であった。2010年代以降の『ウルトラマン』シリーズは、キャラクターやアイテムが多く出てきて、さらには過去作のキャラクターのパーツや設定を取り入れたウルトラマンや怪獣が多く描かれる点で、東浩紀の言う「データベース消費」の『ウルトラマン』シリーズであった。
 対して、Netflixのアニメ作品『ULTRAMAN』はストーリーに比重を置くもので、これから『ウルトラマン』シリーズは、データベース消費の作品とストーリーの比重を置くものとの二層構造で行くのであろうと思っていたが、『シン・ウルトラマン』は当然にストーリーに重きを置くものであった。
 高い完成度をもっていたと思うが、あえて言えば、「コロナ禍」そのもの、あるいはコロナ禍によって顕在化した問題を怪獣によって表象し、だからこそ怪獣は、『シン・ウルトラマン』では禍威獣と呼ばれるといった展開もありではなかったか。単に、新型コロナウイルスを怪獣として擬人化したり、コロナ禍という事態を怪獣による破壊として表象するということに限らず、コロナ以前/コロナ以後というパラダイムシフトによって、社会の表層も深層も変わっていく様をフィクショナルな描写を通して描くことで、特撮の可能性を改めて示すということもあり得た選択だったかとは思われる。



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