Netflix『ULTRAMAN』論―自らもポストモダン化する”等身大”の、そしてシンクロニシティのウルトラマン―

1 昭和『ウルトラマン』世界のn次創作的な再構成

 Netflixで公開されている『ULTRAMAN』を見た。原作となるマンガ作品の存在は知っていたがそちらは未読である。
 『ULTRAMAN』は、昭和『ウルトラマン』シリーズのn次創作的な再構成による作品である。n次創作的という点では『ウルトラマンメビウス』もそうであったが、「再構成」しているという点に本作の特徴がある。
 簡潔にその世界観を示せば、ウルトラマンがゼットンに敗れ、ウルトラマンとハヤタが分離した瞬間、つまり『ウルトラマン』第39話「さらばウルトラマン」までの世界観を踏襲しつつ、以後の作品世界のキャラクターが、テレビ作品とはまったく異なる設定で表れる。(科学特捜隊のメンバーであったハヤタとイデのみはオリジナル作品世界の系譜にあり、数十年経ち初老となった姿でキーパーソンとして登場する。)
 主人公はハヤタの息子の早田進次郞である。彼は、科学特捜隊が制作したウルトラマンスーツ(=パワードスーツ)を着て、ウルトラマンとして活躍する(その活躍は、異星人と戦うといったことのみならず、ビルから落ちた掃除のゴンドラを救うなど、『パーマン』的なものもある)。その他、モロボシ・ダン、北斗星司、南夕子、ベムラー、ヤプール、ジャック等々、昭和の『ウルトラマン』シリーズに馴染みのキャラクターが登場し、それぞれのテレビ作品で付与された個性をまといつつも、まったく異なる存在として描かれている。例えば、親を失った少年である北斗星司を養育し、ウルトラマンになるスーツを作り、与えているのはヤプールである。
 このように、従来の『ウルトラマン』シリーズとはまったく異なる作品世界に立脚しつつも、その作品観は従来の『ウルトラマン』シリーズを引き継いでいる。あるいは『ガンダム』的なロボットアニメ観を感じる部分もある。
 後者から説明すれば、父親がウルトラマンであったという早田進次郞が、自分自身、父親から受け継いだ〈拡張身体〉的な力を得て戦うという点、また思春期を迎えたこの少年の自己実現、自己確立が世界を救うことにつながるという点で、「テム・レイ」が作った「ガンダム」を息子の「アムロ・レイ」が操縦するという『ガンダム』的世界観の文脈に置くことも可能である。

2 受け継がれる『ウルトラマン』らしさ

 また前者、『ウルトラマン』らしさということでは、窮地に追い込まれるとアイドルを犠牲にして自分を守ろうとする人間が描かれたり、ウルトラマンの果たしてきた正義が犠牲者を生じさせるものであることを描いている点に特徴的であるだろう。
 アイドルの佐山レナは出生後間もなく、ウルトラマンと異星人との戦いによる病院の倒壊に巻き込まれて母を失っている。そしてこのことからウルトラマンの存在、そしてその体現する正義に疑念を持っているのだった。
 このような展開自体はこれまでも『ウルトラマン』シリーズで描かれており、古くは『ウルトラマンタロウ』第38話で、怪獣とウルトラマンタロウとの戦いで親を失った少女が描かれたし、『ウルトラマンサーガ』でウルトラマンゼロと同化するタイガも、幼少時にウルトラマンと怪獣が戦う中で両親を失っており、ウルトラマンに対し憎しみに近い感情を抱いていた。
 しかし本作においては、「ウルトラマンと怪獣との戦いで人間に犠牲が生じているのでは」という物理的な危険性を越えた問題が示されている。
 佐山レナのライブに異星人が現れ、ウルトラマンは「アイドル一人を救い、多数の観客を犠牲にする/多数の観客を救い、アイドル一人を犠牲にする」という二者択一を迫られる(実際には、誰からも愛されない異星人がそこに一人おり、彼が犠牲になることで両方救われる)。つまりウルトラマンはこれまで、ある側を救うことで正義を実現してきたが、それは見方を変えれば別な側に位置付けられるものに犠牲を強いていたのではないか、という問いであった。
 これは『ウルトラマン』シリーズに底流する重要な問題であり、常に作中で問われてきたことでもあった。『ウルトラマン』において、犠牲者となった怪獣が実は人間であったという「故郷は地球」も、また怪獣を供養するという「怪獣墓場」も、また人間の排他的な暴力性が無辜の他者を殺害するという『帰ってきたウルトラマン』「怪獣使いと少年」もそのような脈絡にあるものである。
 これらと同様の問題が扱われているという点において、『ULTRAMAN』は、従来の『ウルトラマン』シリーズらしさを継承している。
 しかし、本作に最も特徴的であるのは、以上に述べたような点ではない。

3 「巨大」なウルトラマン、「等身大」のウルトラマン

 それはウルトラマンや異星人、そして怪獣もみな「等身大」であるという点、また科学特捜隊という公的組織に属さないウルトラマンの描かれ方にある。
 従来の『ウルトラマン』と『仮面ライダー』の差異として「巨大/等身大」「公的存在/私的存在」という違いがあった(もちろん前者が等身大で描かれたり、後者が巨大になる作品もわずかながらある。例外は存在するが包括的にはそのように分類できる)。
 1960年代の『ウルトラマン』『ウルトラセブン』では、公的なものは憧れの的であった。ウルトラ警備隊の自動車、ポインターが来ると、子どもたちはそこに群がった。しかし1970年代に入り、『帰ってきたウルトラマン』以降の作品になると、公的存在への信頼は揺らぎはじめる。防衛隊は人々からその存在価値に疑問を呈されたり、公的組織の秩序の内部においても批判の矛先になるまでに堕していった。
 この推移に「大きな物語」の不在、稀薄化を見る論は私も含め、すでに何人かの論者が述べていることである。
 ウルトラマンや怪獣のような巨大なものを見上げるまなざしは、大衆が共通する目的に向けるまなざしと同一といってよい。しかし、戦争に勝つとか、欧米の文明や技術を取り入れ、豊かな暮らしを享受するといった「大きな物語」について、前者は失敗し、後者は日本こそが少なくとも経済的な面においてトップランナーになることで不要になった。もはや大衆が共通して頭上に抱くような、そして巨大なウルトラマンの力を借りて到達する目標など、とうに私たちは失っているのである。
 それでもウルトラマンは巨大であり続けた。その意味をどう受け止めるべきなのか。
 ポストモダン化が進行する中でも巨大な姿であり続けたウルトラマンとは、「未来はきっと明るいだろう」と信じ続けることのできた時代が生んだ、アナクロな〈幽霊〉であった。その幽霊が大衆に呼びかけるための姿があの身長40メートルと設定される巨躯であった。ここでの幽霊とは、死者の霊魂というオカルティックな意味はなく、そうした意味を借りた哲学的な概念である。
 東浩紀は、ジャック・デリダが幽霊と時間の関係について論じていることに鑑み、『ハムレット』の「The time is out of joint」(時間のタガが外れた)という台詞について、時間のズレから幽霊が生じるという点に注目している。幽霊とは「いまここ」に属さないものを指す。
 その意味で幽霊は「シンクロニシティ(同時代性)」ではなく「アナクロニズム(時代錯誤性)」を持つのだとする。そして東は「生者の喧噪は時代も地域も超えられないが、幽霊の呟きは時代と地域を超えられる。」とまとめる。
 私はこれまで、怪獣に〈幽霊(らしさ)〉を見出してきた。近代的な合理主義が多数派の常識と化する中で、淘汰・排斥される少数派の怨嗟、非合理と扱われる事象、時には人間らしさの表象として怪獣は存在したのであると。
 しかし今日のウルトラマンが等身大で描かれ、私たちがよく知る巨大な(先代の)ウルトラマンは、「昔いたヒーロー」として懐古の対象となり、博物館の展示物として描かれているのが『ULTRAMAN』である。これを見た後に、従来の巨大なウルトラマンについて思いを馳せたとき、それは怪獣と同じく、アナクロな観念を今に伝えようとする幽霊的存在なのではないかと思うようになった。

4 「大きな物語」を掲げる幽霊としてのウルトラマン

 私たちは幼い頃、未来は明るいと思いこむことができた。環境問題など、色々な問題はあっても、トータルで考えれば今よりも便利で快適な社会が築かれていくのだと信じることができた。
 でも実際はそうはならなくなった。それは日本が「失われた20年」などと呼ばれるような時代に突入したということもあるし、世界的に見れば、冷戦終結によるグローバル化の美名のもとで、実際には多国籍企業による市場原理主義が「強者/弱者」や「勝者/敗者」の線引きを顕在化させたということ、そして9.11のテロ以降、テロリストという国家をもたぬ個の集合体が、アメリカにも打撃を与えることができるという暗鬱な「希望」が世界にばらまかれることになり、テロが世界の各地で起こるようになったことなどが理由だろう。
 それでもウルトラマンはその巨大な姿で、大衆に「未来は明るい」という希望を持つべきであることを示し続けてきた。ウルトラマンティガは世界中の子どもたちの精神と一体化し、世界を闇で包む邪神ガタノゾーアを退けた。多様性が争いのもとであると考え、多様性を排他しようとするラスボスのカオスヘッダーと和解したのはウルトラマンコスモスであった。ウルトラマンメビウスもまた人間と同化することで、世界を闇にしようとするエンペラ星人を「光」に換えたのだった。
 つまりウルトラマンたちは時代が変わっても愚直なまでに、いつか明るい未来が今という時代を上書きするという希望を与え続けてきたのだった。現実には大きな物語が不在であり、何が大きな物語となり得るかが問われるのではなく、大きな物語を掲げるという思考回路そのものが存在しない世界になった。それでも、「大きな物語を掲げる」という前時代的な(未来に希望がもてた時代の)思考様式を示し続ける存在としてウルトラマンはあったのである。

5 「大きな物語」を捨てたウルトラマン

 しかし『ULTRAMAN』において、ウルトラマンたちはとうとう等身大になった。
 従来の『ウルトラマン』シリーズにおいては、怪獣の被害に遭って人が死ぬという描写は稀であったが、今作ではそれが恒常的に描かれる。異星人は私たちの生活空間にいつの間にか巣くい、人間を捕食する。つまり、災厄は大衆ではなく、個に降りかかるのである。被害に遭うのは「私たち」ではなく、あくまで個としての「私」なのである。たまたま被害者が複数いたとしても、それはかつて巨大な怪獣が暴れる中で、ビルの倒壊に巻き込まれた大衆とは異なる。天災による犠牲と、連続殺人事件による犠牲は共に複数が犠牲となっているという点では同じだが、前者は大衆に災厄が降りかかったものであり、後者は複数の個に災厄が降りかかったものとイメージすることができるだろう。
 異星人に食われる個としての私たち。それは、「自己責任を過度に強いられる今日において、社会の生み出した不条理の犠牲者である」などと幾通りでも解釈ゲームは可能である。しかしどのような解釈をしたにせよ底流するであろうことは、大衆ではなく、個が困難と直面するということ、そして複数の個に対し、「大きな物語」の実現を目指させることで、視聴者にも「大きな物語」を抱かせる―今はなき思考回路を提供する―巨大なヒーローとしてのウルトラマンは不在であるということなのである。
 1970年以降のウルトラマンたちが、ポストモダン化する中で、ポストモダン以前の〈幽霊〉としてアナクロ的に機能していたのに対し、今作のウルトラマンたちは、ポストモダン化した社会のシンクロニシティとしてのウルトラマンなのである。
 共通して人々が何かの実現をめざすという思考回路は失われたという意味で、なおかつ、災厄は大衆ではなく、個に降り注ぐという意味で、大衆はすでに不在である。もちろん私たちは個々に人間関係のネットワークを築いているし、SNSの普及などによって、本来不可視であったネットワークが可視化されるようにさえなった。そのネットワークの内側において共通の目的が存在したり、利害を共にするということは当然にある。しかしながら、いまだ未知で、今後も未知の間柄であり続けるであろう多数の他者と、どれほど共通の目的を夢想し、利害を共にするというのだろうか。それでもまだ大衆が存在していると思えるならば、それはもはや幻想なのではないか。
 「昨今はつながりが稀薄になった」といった、ステレオタイプで根拠のない話をしたいのではない。ウルトラマンの等身大化からは、「大きな物語」どころではなく、同じドラマや音楽、ゲームといったコンテンツを共通に消費し、それが話題のネタ(「最終回どうなるのかな」とか「ラスボスはどうすれば倒せるか」といった)になるような機会さえどんどん失われていくような、現代社会の一層のポストモダン化が垣間見えるのである。

6 「私的」なウルトラマン

 さらに関心をひいたのは、北斗星司の存在である。早田進次郞らと異なり、公的機関に存在しない彼は、ウルトラマンとしての力で、悪に対し私刑を下す。そして巻き上げるかのように金を得る。ここでもまたウルトラマンの正義の危うさが描かれる。
 従来のウルトラマンの多くは人間時に公的組織に所属していた。そのことでウルトラマンの正義は社会正義であることを保証されていた。もちろん、作中世界においてウルトラマンの正体は多くの場合、人々の知るところではないが、視聴者は公的組織の一員がウルトラマンに変身することで、そこで行使される正義が社会正義であると受け止める。しかし、本作の北斗星司は、私人としての私的な善悪規準、処罰感情によって正義を行使する。そこに疑念が生じる理由は、彼が私人だからというものではない。本作の早田進次郞らの行使してきた正義、そして従来の公的組織の一員としてのウルトラマンの行使してきた正義も、もしかすると公的というレッテルに守られていたからこそ社会正義として存在していたのではないかという問題が浮き彫りになってくるからなのだ。

7 『ULTRAMAN』とは

 等身大の異星人の犠牲になる人間たち、その異星人と対峙する等身大のウルトラマンたち。それらが描かれる『ULTRAMAN』は、旧来の価値観を呈示し、幻想的なまなざしで懐古される、「古き良き」時代の思考回路をいたずらに呼び起こさせず、ポストモダン化が進み、大衆なき時代となった今日に差し込む一条の正義の光というものを示してみせた、現代型の『ウルトラマン』世界であった。

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