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佐保姫

峠に陽差しが漂い、春が轍を隠した。
朝露に濡れた木々は嫋やかに小径をつくり、行く先を示した。
私は、天の近いことを知った。

あるのもは聳え、あるものは綻び揺れるこの森は、人々のようだった。
花弁が一枚落ち、不細工に風に揺られる花の装いは、音や足取りの行き交う街に佇む私自身のようだった。
それはやがて土に還る。
いつの時代か、新しい花を支える土になる。

この森は、蠢く一塊の生物だ。
佐保姫は微笑み、欠伸をしたあと、それを着るだろう。
勿忘空、靡く雲が山を包み、とうとう彼女を隠した。

幼い頃、春は湿り気の肌着と草花の香りに包まれていた。
常夜灯を包む桜たちが、内側から照らされるのを見上げていた。
春が、白く揺れながら降り注いでいた。
深く息を吸うと、まだ辺りに残っている微かな冷気とともに、
夜風の懐かしい温度が脳裏に抜けた。

恋したり、熱を出したりした。
そのすべては音を立てて激しく、或いは限りなく静かに、私という世界に成っていった。

春が私に告げた。
木漏れ日に目を覚まし、風が遠い海の香りを運んできたこと。
幸せな日和が降り、遠い時を経て、
私が産声を上げたということ。

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