我慢できてしまう

兄がいて、私が生まれ、その3年後に弟が生まれた。
兄は繊細であった。
小学生男子が言ってみたくて覚えるふざけた種類のそれとは違って、
人が最も傷つくであろう部分を察知し、弱い者に向けてわざと使ってみているようだった。
車の中で悪口を続けたとき、父は兄を本当に車から降ろし、家まで3キロ近く歩かせた。
守られたようで、私と弟は安心したものだった。
一度兄が弟の頭に高いところから牛乳をかけたことがあった。
コップからボタボタと落とされた白い液体が、弟の脳天にかかるのを見て、その匂いや冷たさを瞬時に想像した。
弟をかわいそうに思い、兄は人でなしに見えた。
残虐な暴力映画を見たときと同じ心のえぐられ方だったと、今は解る。

それでも私は、兄を嫌いになれなかった。
小学生ぐらいまでは机に向かう兄の後ろで、ベッドに寝転がって他愛もない話をひたすらしていた記憶がある。
軽口も冗談も言えた兄と私だけのリズムがあった。
たとえろくでなしで人でなしでも、あの穏やかな時間を懐かしく思う。
思春期から長く絶縁状態にあったが、お互い結婚するなどして再会したときには、ふたりとも顔に笑みをたたえ、大人であった。

兄を嫌いではなかったと気づいたのはつい最近で、
私のえぐられた心は、いまだあの時点に置き去りである。
あのとき母は兄を叱り、信じられないと言って非難した。
牛乳をかけられた弟は世話をされ、
傷ついたが何も言わない私はほったらかしだった。

私は、我慢したのだった。
弟がいじめられているのを見て、驚いた、辛かった、傷ついた。
この気持ちを母に、あるいは父に、気づいて慰めてほしかったのに、
目の前に起きたいろいろな出来事のために、
自分の傷に気が付かず、現場が収まったら私の驚きも癒えたような気がして、食事の準備ができていた食卓に座るべきだと判断して座ったのであった。

もっと、泣いたりして、表現すればよかった。
食事の時間が押しても、お料理が冷めても。
母の努力を無駄にしてはならない、ものごとを着々と進めることのほうが優先だなんて、幼いくせに。
感じる部分が麻痺するほど衝撃的だった。
表現する方法を知らなかった。
何十年か経った今にも残る傷になるとは、知る由もなかった。

「私の傷ついた気持ちを癒してほしい。」

そう甘えられるようになるのは、もっともっと先のことである。

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