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五輪ごりんご…

人間、井のなかの蛙になってしまうと、小さな波音でも敏感になるものだとコロナ禍の対応を見ていて、そう思う…

しばらく前に「さざ波」という言葉に噛みついた輩がいたけど、井の中にいれば、井の外の大波を知らなくても、井の中が大波と思ってしまうんだね…

また井の外から客観的に見てしまうと、まだまだ「さざ波」程度なのに右往左往しているのは何故だろうと思うのかも知れない…

例えば、この強気の発言も、単発の大きな大会などは、欧州がコロナ禍にあっても、無観客などで実施できてきたことも考慮しているのかも知れない…

さて、わたしは五輪に関してはあまり興味もないのですが、ただ都合5年間一生懸命にスポーツに打ち込んだ人に対して「試合をするな!」とは言えないので、日本は日本なりの「ささやかなスポーツ大会」としての五輪を開催して、随所に日本の「わびさび」というか水墨画の無地の空間のようなものを芸術や祭典として意識するような不思議な空間としての大会というのも、演出的には可能かと思ったりもする…

その意味では、完全無観客というのも乙なものではないかとさえ思っている…

世の中の歴史は「事後の評価によってつくられる」ので、五輪を開催して、それこそコロナが蔓延し、日本がワクチン接種前の英国のようになってしまえば、五輪開催の責任を問われるし、ささやかでも五輪開催して完遂できれば、このコロナ禍でも開催した唯一の五輪として、たとえ質素な大会であっても讃えられることだろう…

その意味では、反対している人も開催したら意識が変化するだろうし、賛成している人も開催がなかったら確実に意識は変わるだろう… 

でも一番可愛そうなのは、今、アスリートのみなさんであり、僕らは幻になるか現実になるか未だ迷う世にあって、試合をさせてあげたいというのが正直なところ… 

頑張っている人が報われない社会というもの単純に嫌だし、結果的に社会が報われない方を応援しているというのも、皮肉を通り越して実に嫌な感じもする…

そんなことを考えていると、別に人に見られなくても、今ある各国の最高峰の選手が、お互いを称え合う試合ができれば、本当に「さざ波」ではなく「ささやかな波」程度の「ささやかな大会」でも良いではないか…

その「ささやかな大会」が頑張るアスリートの未来を創り、頑張りが報われる社会を共に応援できる世界を創るような気がする…

五輪といって大々的にやる必要もなく、日本は淡々と可能性として「ささやかな大会」として今出来ることだけに集中し、未来に繋げられればそれで十分に世界に意義を残せると思うこの頃…

後世からは「大したことがなかったけど、それでも日本は繋いでくれたから今がある」といわれるだけでも、人類にとっては、実は大したものかもしれず…

まあ、ワクチンが行き届き、人類がコロナに勝利した頃には、その努力や五輪の可否問題などは時間に流され、話題にも上がらないようになるだろう…

わたしにとってはコロナ禍で多くの人が笑顔を忘れている方が辛いかな…
早く大笑いできる日々が戻ってきますように…

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