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梅原猛(1925.3.20-2019.1.12)『梅原猛著作集 第13巻 万葉を考える』集英社 1982.9  『梅原猛著作集 第14巻 歌の復籍』集英社 1982.11  『梅原猛著作集 第15巻 飛鳥とは何か』集英社 1982.12  神野志隆光(1946.9.19- )監修『万葉集入門 別冊太陽 日本のこころ 180』平凡社 2011.4

梅原猛(1925.3.20-2019.1.12)
『梅原猛著作集 第13巻 万葉を考える』
集英社 1982年9月刊
2009年7月28日読了
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J7LQBG

1 柿本人麿
2 『水底の歌』のアポロギア
3 水没鴨山の調査
4 人麿の流浪と終焉の地
5 童子人麿の憂い
6 柿本人麿の歌と人生
7 日本学の哲学的反省
8 万葉集の根本問題
9 人麿長歌鑑賞
10 人麿と仏教
11 歌の復籍 1
12 柿本人麿の人生と『人麿歌集』
13 契沖・真淵批判

新聞・雑誌に発表された文章5篇と講演4篇の他に、1979年9月に出版された『歌の復籍 柿本朝臣人麿歌集論』集英社 の最初の第一部「柿本人麿の人生と『人麿歌集』」と第二部「契沖・真淵批判」を収録。

『人麿歌集』の漢字表記に注目した戦後の万葉集研究(表記論)を渉猟した著者は、『歌集』は人麿の若い頃の作品、宮廷詩人として天武・持統朝に登場する前の作品であることを論証していますが、もちろん私には論の正否は分かりません。
読んでいて面白いから正否はど~でもい~という無責任な読者です。

「『さまよえる歌集』[赤人・旅人・憶良・家持論]を書いてまわり道をしていた私に、ふとしたことから、私が人麿について新しい著書を書けない理由が明らかになった。それは、賀茂真淵[1697-1769]の説についての批判が十分でなかったからである。

人麿にかんして、彼の年齢論や官位論について、私はすでに十二分に批判していた。しかし、作品論については、私は『水底の歌』においても、多くの学者と同じように、賀茂真淵説に従っていたのである。賀茂真淵の呪縛力の何と大きかったことか。

「柿本朝臣人麿歌集」と呼ばれる作品は、おそらく、名前を見れば、ちょうど、『梅原猛著作集』が梅原猛の著作を集めたものであるように、柿本人麿その人のつくった歌を集めたものと考えねばならぬ。

しかるに、このような、当然の常識に反した見解が、つまり、「柿本朝臣人麿歌集」の歌を柿本人麿の作った歌として認めない見解が、今まで学界の常識として通用してきたのである。

そのような明らかに非常識的な見解が常識として通用するようになったのは、そんなに古くはない。契沖[1640-1701]・真淵の頃から、つまり約二百五十年ほど前からであり、それまでは、万葉集に「柿本朝臣人麿歌集に出」と記せられている歌は、「柿本朝臣人麿作歌」と記されている歌と同じく、人麿の作った歌とされているのである。

この、まことに常識的な常識を、まことに非常識的な常識に転換させた契沖・真淵の論点を吟味した結果、私は、契沖・真淵説が論理的に成立しないことを知った。

契沖・真淵説は成りたたず、やはり「柿本朝臣人麿歌集」は人麿の歌、多く人麿の青春時代の歌を集めたものとしなければならないのである。このように考えることによって、『水底の歌』において年齢を二十歳ほど上げてしまったことによって生じる人麿の人生のブランクが、見事にうまった。」
p.10「自序」

本書は『人物日本の歴史 1 飛鳥の悲歌』小学館 1974
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J9E0XA

に収録されていた「柿本人麿」から始まります。

「万葉集には「柿本朝臣人麿の作る歌」84首の他に、「柿本朝臣人麿の歌集に出ず」の歌約365首がある。前者はもちろん人麿の歌であるが、後者もその名から見れば人麿の歌と思われ、契沖・真淵以前には、『歌集』の歌と作歌の歌には何ら区別が存在していなかった。

ところが、『歌集』の歌は契沖によって疑われ、真淵によってその半分が万葉集から除かれ、他もほとんど人麿の歌でないものとされてしまったのである。」
p.302「歌の復籍 はじめに」

梅原猛(1925.3.20-2019.1.12)
『梅原猛著作集 第14巻 歌の復籍』
集英社 1982年11月刊
2009年8月13日読了
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J7JRV2

1 歌の復籍
2 近代万葉学の成果と限界
3 戦後万葉学批判
4 『人麿歌集』の復権

『すばる』29~38号(1977.6-1978.12)に連載され、
1979年9月に集英社から刊行された
『歌の復籍 柿本人麿朝臣歌集論 上下』
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J8DY8S

を収録した630ページもある分厚い本。

「われわれは、まず万葉仮名を仮名に読みかえた後に解釈に入る。しかし、それは初めからまちがっているのである。われわれは、歌を原語のまま解釈しなくてはならぬ。読み下して解釈するのは、たとえば英語やドイツ語の詩を、一度日本語に訳しかえてから鑑賞するようなものである。

とすれば、万葉集を万葉仮名で書かれた歌集と考えることも、適当でないかもしれない。それは、単なる仮名ではなく、仮名以上のものである。あるいはそれは、純粋な中国の文字で書かれた日本詩集というべきかもしれない。
このような性格は、万葉集の他の歌より、「人麿歌集」及び人麿作歌にとりわけ強いように思われる。」
p.192「戦後万葉学批判 「惻隠」にこもる中国語の原義」

万葉集の漢字だけで書かれた原文は、まるで暗号解読かパズル集です。
この発音にこんな漢字をあてるのか、と感心し驚きます。
原文だけでは、私には絶対読めません。

「賀茂真淵[1697-1769]は万葉集をますらおぶりの歌集であるとし、
『古今集』以後のたおやめぶりの歌集と区別した。
これは、私がすでに十数年前に論じたように、江戸武士の立場に立った賀茂真淵の、京都公卿の美学に対する挑戦なのである。

八代将軍徳川吉宗(1684-1751)の次男・田安宗武(1715-1771)の学問顧問のような役割をしていた真淵は、宗武の意志をくんで新しい武士美学を建てようとしていたのである。

京都の公卿の美学は『古今集』以来のたおやめぶり美学だ。
武士の美学はそういうものであってはならない。
それはますらおぶりのもの、明るく直く強い美学でなければならない。

真淵はそういう美学を万葉集の歌の中に、特に人麿の歌の中に見たのである。人麿の歌こそは、まさに上代的な歌、明るく直く強い歌風の歌なのだ。こういう視点からも、真淵が『人麿歌集』の歌、特に略体歌を人麿の歌と認めたくなかったのは当然である。そしてまたそういう美学は、『人麿歌集』の歌、特に略体歌の排除の上に成り立っているのである。

真淵以来ほとんどすべての学者や歌人たちは、意識的または無意識的に真淵に従って、万葉集の歌を、特に人麿の歌を、明るく直く強い歌と解した。」
p.451「『人麿歌集』の性格」

『人麿歌集』は万葉集に先行して成立していた、現存していない書物です。万葉集には、この『人麿歌集』に出ていたと注記されている和歌が365首収録されています。賀茂真淵は『人麿歌集』を柿本人麻呂の歌を集めたものではない、としました。

略体歌は、漢字だけで表記された万葉集の和歌のなかで、助詞や動詞・助動詞の活用語尾を表記していない、省略した状態で書かれている和歌のことです。

以下、略体歌の一例。
三十一音の和歌が十文字で表記されています。

「春楊 葛山 発雲 立座 妹念
春楊(はるやなぎ)葛城山(かづらきやま)にたつ雲の立ちても座(ゐ)ても妹(いも)をしそ思ふ」

「我恋 妹相佐受 玉浦丹 衣片敷 一鴨将寐
わが恋ふる妹(いも)は逢はさず玉の浦に衣(ころも)片敷き独りかも寝む

この「独りかも寝む」という言葉は、よほど人麿と縁の深い言葉と考えられたのであろう。古来、人麿の代表作として、
「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜を独りかも寝む」
という歌があげられている。

ところがこの歌は、巻十一の読み人知らずの歌(2802番)の左注に「或る本の歌に曰はく」として出てくる歌で、万葉集に基づいて判断する限り、人麿の歌ではない。問題はなぜこの歌が古来人麿の代表的名歌とされてきたかである。

この歌は、男を待つひとりねの女のわびしさを歌ったものであろう。もしも真淵以来の人麿に対する理解が正しいとしたならば、こういう歌は一向に人麿らしくない歌である。なぜこのような一向人麿らしくない、あるいは全く人麿的でないと思われる歌が、人麿の代表作と考えられ、藤原定家[1162-1241]ですらそれを認めたか。

私は、それは、『人麿歌集』の歌は古来疑いもなく人麿の歌とされたので、この歌にある「独りかも寝む」という言葉が、人麿の美的世界を最もよく表わすものと考えられたからであろうと思う。

この「独りかも寝む」という言葉が、どんなに日本の詩人たちにとって新鮮な印象を与えたか。それはまさに人麿美学の真髄を表している言葉である。
そう人麿以後の歌人たちは考え、人麿といえばこの言葉を思い出し、ついに、人麿の歌ではないがおそらくは人麿の歌の模倣であり、それだけにかえって俗耳によく理解されやすい「あしひきの」の歌が、人麿の代表作とされたのではないかと思う。

人麿は優婉な恋歌の名手で、そういう評価が古代・中世を通じての変わらぬ人麿評価であった。そしてこの優婉な歌の例として、人麿作歌より『人麿歌集』の歌があげられたが、このうたなどはその中でもとりわけ優婉な歌と考えられたのであろう。

この歌は、私の恋しているあなたは逢ってくれない、だから仕方なく玉の浦の海岸に衣を片敷いて一人寝ましょうかという意味であろう。
当時、男と女はそれぞれの衣を重ね合わせて寝るのが習わしであったのであろう。しかし、男は女に振られた。やむなく海岸に一人だけの衣を敷いて寝る。男は女に一人寝のわびしさを嘆きつつ、他の女と寝ようとしない意思を訴えているのである。」
p.511「絶望的状況の美学 「ひとりかもねむ」の世界」

人麿作歌は、万葉集に収録されている歌の詞書に、柿本朝臣人麿が作った歌、と書かれている歌のことで、84首あります。

藤原定家が選んだ『百人一首』で人麿作とされている「あしひきの」の歌が、万葉集では読み人知らずの歌だったというのは、何とも不思議だなぁ。

梅原猛(1925.3.20-2019.1.12)
『梅原猛著作集 第15巻 飛鳥とは何か』
集英社 1982年12月刊
2009年8月24日読了
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J7IXSK

1 飛鳥とは何か
2 黄泉の王
3 十字架の墓
4 古墳時代という時代
5 滝川政次郎『律令の研究』について
6 死の聖化
7 飛鳥をめぐる謎
8 忘れられた一万年

本書には、『藝術新潮』1980年6-7月号に連載された標題作と
『黄泉の王』新潮社 1973.6
https://www.amazon.co.jp/dp/410303002X

https://www.amazon.co.jp/dp/4101244057

の他に、単行本に収録されなかった文章がまとめられています。

短めのものが多いので読みやすいとも言えますが、読んでいてぐいぐいと引き込まれてしまう迫力という点では、上下二巻本で刊行された『水底の歌 柿本人麿論』や『歌の復籍 柿本人麿朝臣歌集』などには敵いません。
長篇の方が短篇より楽しめるというところは、翻訳ミステリと似ているなぁ。

「飛鳥とは何か」では、推古天皇・聖徳太子が遷都した小墾田宮(おはりだのみや)の所在や山岸涼子『日出処の天子』にも登場する帰化氏族東漢(やまとのあや)氏が論じられています。

「『神々の流竄』以来、私の関心は七、八世紀という時代に集中したが、すでに五年前から私の中に一つの問いが目ざめ始めた。それは、七、八世紀という時代は、現在の日本の基礎が出来た時代であったとしても、けっして日本国家がはじめて作られた時代ではないのである。聖徳太子が考えたように、日本の国家はずっと前から出来あがっているのである。

そして、日本国家が出来上がる以前にも、日本には多くの人が住み、現代の日本語と関係のある古い日本語がしゃべられていたと思われる。日本文化の源は、日本国家の成立以前に求められねばならない。とすると、日本国家の発生、あるいは日本人の発生、日本語の発生、日本文化の発生を明らかにするには、七、八世紀を越えて遠くさかのぼらねばならない。」
p.20「自序」

この「自序」が執筆された1982年10月、著者の関心は縄文文明の研究・アイヌ文明の研究に向かっていました。その結果としての著書は、この集英社版著作集 全20巻 には収録されず、約10年後に出版された小学館版著作集 全20巻 にまとめられたようです。

「黄泉の王(おおきみ) 私見・高松塚」
『藝術新潮』1972年10月号~1973年2月号連載

「この高松塚壁画の意味するものは、そこに一つの世界があるということである。そして、この世界を、他ならぬ日月(じつげつ)が、つまり天皇が支配しているのである。ここに、われわれは、大宝元年(701)に地上で成立した天皇制と同じ天皇制が、地下において成立したと考えざるをえない。

このような、天皇の権力を日月に比する考え方が成立するためには、天文にたいする関心が必要とされるが、有坂隆道氏は、それを天武天皇の時代に求めていられる。これは、王制ではない、いわゆる天皇制の成立の時期を天武天皇以後に、そして、その完成を、大宝以後に、つまり、藤原政権の成立の時期に求めているわれわれの前々からの考え方と、期せずして一致する」
p.139「孤高なる古墳 華麗な壁画の意味」

「弓削皇子((ゆげのみこ)について語ろうとするとき、私はただちに一つのことに気づくのである。それは弓削皇子が、ほとんど正史[『日本書紀』・『続日本紀』]において現われないということである。弓削皇子が正史において現われるのはわずか三度である。
……
生とただ一度の叙位、そして死、まったく弓削皇子にかんしては、正史の記事は簡単である。これに対して万葉集においては、弓削皇子はかなりはっきりとした姿を見せている。
……
万葉集では、弓削皇子は、大津皇子や草壁皇子や、高市皇子(たけちのみこ)とならんで、あるいは、それ以上に、はっきりとした姿を現わしている。このコントラストをどう考えたらよいであろうか。

正史に現われず、万葉集のみに現われる人物がある。その最たるものは、柿本人麿であるが、彼は、けっして正史上にその名を現わさないのに、万葉集では主役を演じている。あるいは額田王(ぬかだのおおきみ)、山辺赤人なども、正史にはほとんど登場しない人物である。

逆にかえって、正史に登場する重要な人物、藤原不比等とか太安万侶などは、万葉集においては、ほとんど登場しない。この食い違いをどう見るのか。私はこの食い違いの中に古代史の謎をとく最大の鍵があると思う。

『日本書紀』は、藤原氏を中心とする権力者側の歴史書である。ここでは、自己に都合の悪い一切の事実は故意に抹殺されている。それにたいし、万葉集は藤原氏を中心としてつくられた律令体制によって没落せざるをえなかった大伴氏などによってつくられたものであろう。

そこには、権力側の眼と逆な眼がある。そこには、むしろ権力側によって抹殺された事実を、忠実に書きとめようとする意志が働いている。万葉集は、権力によって殺されたひとびとに深い同情の眼をそそいでいる。万葉集は、天智帝によって殺された有間皇子(ありまのみこ)や持統帝によって殺された大津皇子にたいしてはなはだ同情的である。

弓削皇子は、万葉集では、大津皇子とならんで、天武の皇子の中でももっとも個性的な姿を現わすが、『日本書紀』や『続日本紀』には、ほとんど登場しない。すでにそのことが異常なことであるし、その古代日本の歴史を語る二つの書のコントラストの中に弓削皇子の人生の秘密が隠れている。」
p.216「謎の皇子・弓削 正史と万葉集」

高松塚古墳の被葬者が、著者の主張するように、弓削皇子だったのかどうかは、私には分かりませんけど、楽しく読めました。

「[本書は]私の三つの原理的な説、
記紀=藤原不比等撰定説、
法隆寺=鎮魂寺説、
人麿=流罪刑死説の三つの説の応用問題なのである。

この三つの説は、その一つなりとも、長い間かかって常識になっている誤謬にとらわれている人にとって、認めるにはいささか時間を必要とする説であるが、私はその三つとも、まずまちがいのない説だと思っている。

この高松塚論は、三つのほぼ確実な説によってつくられた三角形の中から、突然に浮かび上がったイメージから生まれた。それゆえこの説は、この三つの原説に比べれば確実度がとぼしい。私が副題に、「高松塚論」ではなく、「私見・高松塚」と名づけた所以である。

それゆえ、人は、それを学術論文として読むより、一つの夢幻能として読んだ方がよいかもしれない。私は、世阿弥のように、高松塚を舞台にして一つの現代能をつくったと考えていただいてもよい。このように考えられることは、学者として不名誉なことであるとは私は思わない。

日本の塚というもの、古墳というものについて、世阿弥ほど、的確な認識をもっている人物はない。日本の考古学、歴史学は、近代的学問の方法を身につけると共に、世阿弥から、塚というものの意味を学びとらねばならない。
……
日本の古代学は、古代日本人の精神構造をほとんど真面目に考えなかったことにより、はなはだ未開な段階にある。柿本人麿や法隆寺や記紀が今までどのように説明されてきたかを考えてほしいというのが、ますます堅くなる私の確信である。」
p.348「黄泉の王 あとがき 応用問題としての高松塚」

[2009年は]立秋を過ぎても暑い日が続いています。
『梅原猛著作集』は著者を名探偵とするシリーズ物の謎解きミステリのように読めるので、暑気払いに最適です。

「昨年の夏、九州で装飾古墳を見てから、私に別な世界がおとずれた。私は今まで、仏教によって、日本の精神史を見てきたが、仏教以前の日本の精神史をどう見たらよいか見当がつかなかった。

戦中派の私は、あの戦時中に流行した国家主義に嫌悪感をもっている。
神道=国家=軍国主義というイメージの結合が私にあり、神道とよばれる日本の仏教以前の思想に、私はいささかならず抵抗感をもっていたことは否定できない。仏教以前の日本の思想、宗教をどう考えてよいか、分からなかった。
……
熊本で装飾古墳を見てから、私の心にこの時代の世界が入ってきたのである。装飾古墳の中で、私はたしかに柿本人麿の挽歌を聞いた。装飾古墳は、今までの私では、とても説明することの出来なかった一つの世界であった。一つの世界がある。しかもそれをつくったのは日本人である。しかしその世界について、今の私は理解することができない。この日本人の精神は何か。

私は、それから夢中で、あちこちの古墳をまわったり、古事記や日本書紀や、万葉集を読みあさったのである。 装飾古墳の中で、私は人麿の歌を聞いたといった。たしかに、それは、世紀と場所に、多少ずれがあるが、やはり、同じ世界の上に存在しているものである。

装飾古墳は、だいたい五世紀から七世紀の産物である。そのもっともすぐれた傑作と思われる日の岡古墳や、王塚古墳がつくられたのは、だいたい六世紀の半ばである。人麿の歌は七世紀の末から八世紀の初め、一世紀半のちがいがあるが、それは、同じように死の芸術なのである。

古墳と人麿、今までの万葉の見方には、そのような発想が全くおちていたと思うが、私は人麿という詩人も、このような古墳時代との関係において考えないと理解出来ないし、また日本の精神史も、このような古墳時代を深く考えて見ないと、全く理解できないと思う。」
p.359「古墳時代という時代」

『万葉集入門 別冊太陽 日本のこころ 180』
監修 神野志隆光(1946.9.19- )
平凡社 2011年4月刊
2011年5月15日読了
https://www.amazon.co.jp/dp/4582921809

名歌百首の鑑賞、登場する植物の紹介、万葉の地への旅行案内などの、たくさんの美しい写真や色々なコラムを構成した一冊。
『別冊太陽』ですから、言うまでもありませんが、A4サイズの誌面の見事な写真の連続に魅了されます。
万葉集は巻一と巻二しか通読していないので、もっと読んでみたくなりました。

「柿本朝臣人麻呂が歌一首
近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ (巻三 266)
近江の海に夕方の波打ち際に鳴く千鳥よ、おまえが鳴くと、こころもしなえるほどに遠い昔のことが思われる。

夕波千鳥の歌と呼ばれる。「夕波千鳥」はこの歌がつくったことば。
二つの体言を並べることで、水際の千鳥をいうことばを絶妙につくりだした。
波は寄せては返すものであり、ここも繰り返される「いにしへ」への思いを表象する。千鳥の声に呼びおこされた懐旧の悲しみが繰り返し打ち寄せ、こころをぐったりさせるというのである。
「いにしへ」は隔絶した過去としてとらえるものであって、「むかし」がつながりの感じられる過去としていうのとは異なる。(神野志隆光)」 p.65

隔絶した過去としての「いにしへ」は、壬申の乱(672)で滅びた近江大津宮(天智天皇の都)の時代のことでしょうか。

読書メーター 梅原猛の本棚(登録冊数25冊 刊行年月順)https://bookmeter.com/users/32140/bookcases/11091243

https://note.com/fe1955/n/n08735622d98f梅原猛(1925.3.20-2019.1.12)
『隠された十字架 法隆寺論』新潮社 1972.5
『梅原猛著作集 第8巻 神々の流竄』集英社 1981.9
『梅原猛著作集 第9巻 塔』集英社 1982.3
『葬られた王朝 古代出雲の謎を解く』新潮社 2010.4

https://note.com/fe1955/n/n0d24de331f0b梅原猛(1925.3.20-2019.1.12)
『水底の歌 柿本人麿論 上巻・下巻』新潮社 1973.11
『梅原猛著作集 第11巻 水底の歌』集英社 1982.1
『さまよえる歌集 赤人の世界』集英社 1974年11
『梅原猛著作集 第12巻 さまよえる歌集』集英社 1982.6
阿蘇瑞枝(1929.4.24-2016.5.21)
『萬葉集全歌講義 一 巻第一・巻第二』笠間書院 2006.3



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