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梅原猛(1925.3.20-2019.1.12)『水底の歌 柿本人麿論 上巻・下巻』新潮社 1973.11  『梅原猛著作集 第11巻 水底の歌』集英社 1982.1  『さまよえる歌集 赤人の世界』集英社 1974年11  『梅原猛著作集 第12巻 さまよえる歌集』集英社 1982.6  阿蘇瑞枝(1929.4.24-2016.5.21)『萬葉集全歌講義 一 巻第一・巻第二』笠間書院 2006.3


梅原猛(1925.3.20-2019.1.12)
『水底の歌 柿本人麿論 上巻』
『水底の歌 柿本人麿論 下巻』
新潮社 1973年11月20日発行(初版)定価上下各900円
1976年3月29日 吉祥寺・藤井書店(古書)1400円(2冊)
2009年7月7日・10日再読(30年ぶり)https://www.amazon.co.jp//dp/B000J99XC8
https://www.amazon.co.jp/dp/4101244022

https://www.amazon.co.jp/dp/4103030046

https://www.amazon.co.jp/dp/4101244030

『スバル』1972年6月~1973年6月連載(季刊・5回)

人麿は、流刑の後、水死として処刑されたというのが著者の結論です。
本当かどうかは分かりませんけど、読んでいると引き込まれて納得してしまいそうな、まるで謎解きミステリーを読んでいるような面白さです。

「柿本朝臣人麿死時 妻依羅娘子作謌
且今日今日 吾待君者 石水之 貝〓形而 有登不言八方
[万葉集 巻二 224]
柿本朝臣人麿の死(みまか)りし時 妻依羅娘子(よさみのおとめ)作る歌
今日今日(けふけふ)とわが待つ君は石川の貝に交じりてありといわずやも
今日帰ってくるか、今日帰ってくるかと待っているあなたは、石川の貝に交じっているというではありませんか

『万葉集』は人麿がいかにして死んだかは語らない。ただ、人麿が死んだ後、妻の依羅娘子がつくった歌と、その歌にたいして、死んだ人麿に代わって答えた丹比真人(たじひのまひと)の歌をのせ、それによって人麿がどのように死んだかを暗示しようとする。」
p.205「柿本人麿の死の真相 人麿はいかに葬られたか」

「私は、この論文の途上において、人麿=石見国属官説に疑問をもちはじめた。人麿を属官[地位の低い役人]と断定したのは契沖[1640-1701]であり、彼を掾(じょう)と目(さかん)の間の朝集使と断定したのは[賀茂]真淵[1697-1769]であるが、この契沖真淵の人麿像が、間違っているのではないかというのが、この長い論文を貫く私の根本的懐疑である。

石見国の属官である人麿の姿にかわって、私の眼の前にちらつき始めたのは、流人としての人麿の姿である。もとより、その姿は未だ定かでないが、徐々にその姿は私ばかりか多くの読者の眼にもはっきりしてきたと思う。未だ断定するのは早いとしても、次のことは、はっきりいえよう。

人麿を六位以下の石見国の下級官僚とする直接の証拠はないばかりか、そう考えると、さまざまな矛盾が生じる。人麿を流人と考えると、今まで分からなかった人麿にかんする謎が容易にとける。」
下巻 p.184「柿本人麿の死の真相」

「柿本人麿は、吉野行幸の歌を残している。ということは、人麿もこの吉野行幸に参加したメンバーの一人であった。[藤原]不比等を中心とする漢詩グループにたいして、はたして人麿なる人物は、どのような地位をしめていたのか。
……
日本の和歌が歴史上、正当な文学として認められるには、勅撰集である『古今集』の出現をまたなければならなかった。それ以前、それは現代における歌謡曲の如き扱いを受けていたのであろう。

多少、人気のある歌謡曲作家・人麿、おそらく人麿のこの歌[『万葉集』巻一 吉野行幸の歌]は、多くの漢詩人たちに何の感興も起こさせなかったにちがいない。彼等は、明治の文化人以上に、だいたい日本のものは馬鹿にしていたのである。

人麿の歌と、『懐風藻』の詩をならべてみると、漢詩人の間における人麿の孤独さがよく分かるような気がする。」
下巻 p.82「人麿の吉野行幸歌と孤独の影」

『万葉集』と『懐風藻』の関係なんて、30年前に本書を読んだ時には、まったく気付かずに読みとばしていました。
現在の日本語の漢字仮名交じりの文章は、当時、万葉集成立の時代には、まだなかったんだなぁ。
著者の推理・論証が正しいのかどうかは、私には分かりませんけど。

「猿丸大夫は、延喜5年(905)に書かれた『古今集』序文に「大友の黒主が歌は、古の猿丸太夫の次(つぎて)なり」というところをみると、大友黒主以前の人であろう。しかし「古の猿丸太夫」といういい方は、六歌仙などよりはるか昔の人であることを暗示していて、万葉撰集のときとされる平城帝以前の人と考えてもさしつかえないであろう。

とすれば、彼の歌は当然、『万葉集』にとられているはずなのに、『万葉集』には一首もない。そればかりか『古今集』にも、それ以後の勅撰集にも、彼の歌は一首もない。」
下巻 p.166 猿丸太夫は伝承に埋もれた人麿に他ならない」

「猿丸太夫は高名な歌よみでありながら、その歌は一つもない。それは当然である。彼の歌は柿本人麿の歌とされ、『人丸集』にとられているではないか。

また伝承では猿丸太夫は弓削皇子だという。もちろんそうではないが、人麿と弓削皇子の関係と、弓削皇子の事件に連座して人麿が流罪になったらしいことを考えると、この伝承はよく分かる。猿丸太夫は流罪地における人麿の影であると断じて、まちがいはあるまい。」
下巻 p.196「反抗と好色 『柿本集』詞書と采女挽歌に見る人麿像」

『続日本紀』和銅元年(708)に従四位下で死んだと書かれている柿本朝臣佐留は柿本朝臣人麿と同一人物であり、同時に伝承の歌人猿丸太夫でもあったというのが、著者の推論です。なるほどと思いますけど、本当かなあ?

「[賀茂]真淵の説によった場合、人麿の人生には、多くの矛盾を生じる。たとえば、なぜ持統帝に代わって挽歌を歌った宮廷詩人が六位以下のままで地方勤務を命ぜられ、しかも石見国の掾(じょう)と目(さかん)の間というはなはだ卑官で、しかも国府からはるか遠い海中の島で死ななくてはならないかということが理解できない。

つまり真淵の人麿観は、それ自身の中に矛盾撞着を含むといってよい。しかし私の説のように、従四位下の大夫として宮廷第一の詩人であった人麿が政治事件と恋愛事件によって失脚し、流罪のはて刑死をとげたと考えれば、人麿論はそれ自身の中に矛盾撞着を含まない。」
下巻 p.338「体系構築のための素描 補助線の適否の検討」

『日本書紀』や『続日本紀』といった正史には柿本朝臣人麿に関する記述がないことと、『万葉集』に「柿本朝臣人麿死時」という記述があるけれども、当時の律令の規定によれば三位以上の者の場合は薨(こう)、四位と五位は卒(しゅつ)、六位以下は死と表記することになっていること、の二点により柿本人麿は六位以下だとされていました。
35年前の著者による異議申立が本書なのですけど、国文学界からは認められてはいないようです。

『梅原猛著作集 第11巻 水底の歌』
集英社 1982年1月刊
2009年9月10日読了
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J7RWKK


単行本は既読なので本文以外の
著作集版自序
解題・解説(中西進)
月報(石田吉貞、岡本太郎)
を読みました。

自序は20ページ以上あり、『水底の歌』1973 出版以降の解釈や見解が述べられていて、読み応えがあります。

当然、昨日(2009.9.9)読み終わった
『梅原猛著作集 第5巻 古代幻視』小学館 2001.2
と重なる記述もありましたけど、復習するつもりで楽しく読めました。

「戦争の中ですごされた私の旧制高等学校時代に、私がもっとも愛したものは、文学と哲学、特に万葉集と西田哲学であった。それゆえ、大学は文学部を選ぶとしても、国文科にするか哲学科にするか、ずいぶん迷ったが、私は、子供のときから数学が得意であったので、論理的思考の必要な哲学科を選んだ。

大学へ入ると間もなく入隊したが、戦場にはゆかずに、半年後、無事復員した。戦争というものを大いに忌み嫌った戦後の私は、戦争中の私の心の支えにしたすべてのものを忌み嫌った。

万葉集も戦後の私にとって、戦争という暗い過去を連想させる、好ましくない歌集としてのイメージをまぬがれなかった。

それゆえ、昭和35年(1960)頃、私が西洋から日本へと研究の対象を移し、日本回帰を宣言した時も、日本文化の原点を密教と『古今集』に求めて、万葉集を遠ざけたのである。

ところが、『神々の流竄』と『隠された十字架』の二著を書き、七、八世紀の権力構造とその権力構造の中から生まれた文化の実態が見えはじめた私の眼に、突然に、この万葉集という、青春時代の私にとっては戦争と死の歌集という意味しかもたなかった歌集が、全く異なった姿で現われはじめたのである。

万葉集の中心歌人は、どう見ても柿本人麿であるが、柿本人麿をどう見るかで、万葉集の解釈は全く変る。この柿本人麿が、昭和46年[1971]以来、私の眼に、従来の人麿像と全くちがった像として登場してきた。」
p.11「自序」


梅原猛 『さまよえる歌集 赤人の世界』
集英社 1974年11月25日発行(初版 定価980円)
1976年3月29日 吉祥寺・藤井書店(古書)730円
2009年7月11日再読(30年ぶり)

著者の説によれば、藤原不比等の作った『律令』によって統治される社会で流罪・死刑になった宮廷詩人、人麿と、不比等の子、藤原房前(ふささき)や藤原宇合(うまかい)に重用された次の世代の宮廷詩人、赤人。
二人の対比がまるで小説の登場人物のように描写されています。

「『万葉集』の一人のヒーローが柿本人麿であることは、否定できないであろう。もう一人のヒーローは大友家持である。
家持は『万葉集』の編集者に擬せられる人物である。私は家持私撰集説をそのまま認めることはできないが、彼が『万葉集』編集に大きな役割を果たしたことは否定できない。
そればかりか、彼は『万葉集』において最も多くの歌をとどめる歌人でもある。『万葉集』を考える場合、人麿を一方の極におき、家持をもう一方の極におかねばならない。

この二つの極の間に、『万葉集』において彼らについで重要な役割を果す詩人たちがいる。山辺赤人、大友旅人、山上憶良。人麿、家持の間にある重要な詩人として、この三人をあげることに異議をとなえる人は少ないであろう。

もしもわれわれが、この三人を人麿と家持の間に正しく置くことができたら、われわれは人麿のまだ明らかになっていない人生を、家持の人生とともに理解し、そして同時に『万葉集』全体の意味を理解する重要な手がかりを得ることができるであろう。」
p.17「はじめに」

30年前に読んだはずですけど、何も内容を憶えていなくって、新鮮な驚きを感じながら、へえ~そ~なのか~、本当かな~、と思いながら読みました。

「神岳(かむをか)に登りて、山辺宿禰赤人の作る歌
 明日香河川淀(よど)さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに(巻三 325)

人麿と赤人。
人麿と赤人とは、すでに奈良朝の半ばには「山柿」の名をもってならび称せられてきたが、彼ら二人ほど作風の違っている詩人はあるまい。同じ万葉の時代にありながら、彼らの作風は対照的である。

性格の違いもさることながら、性格の違いだけですまされない問題がある。赤人のこの歌と比べられる歌は、人麿の

もののふの八十宇治河(やそうぢかは)の網代木(あじろき)にいさよふ波の行く方知らずも(巻三264)
であろう。

私は、この歌について、『水底の歌』でくわしく分析した。この歌に詠まれているのは、激しく流れる宇治川の水であるが、その水が、あじろ木にせきとめられて、行くえを失ってたゆたっている。この行くえを失ってたゆたっている川の水こそ、人麿自身なのである。

私は、この歌は最初の流罪のときに人麿が詠んだ歌と考えたが、そう考えると、歌の意はいっそう明白になる。この歌が単なる宇治川の水を読んだだけの歌ではなく、同時に彼の人生を詠んだものであることはまちがいない。

もしも飛鳥川の歌を、赤人の自己の人生にたいする自己認識の歌と考え、宇治川の歌を人麿の自己の人生にたいする自己認識の歌と考え、その点において二つの歌を比較するとき、人は、この二人の詩人の自己認識がいかに違っているかを知ることができる。

永久に晴れない霧のかかっている飛鳥川の川淀と、あじろ木によってせきとめられた宇治川の早い流れ。この二人の詩人が自己の人生をシンボリックに表現した二つの川の歌においてほど、二人の詩人の詩境の違いの見られるものはない。」
p.126「人麿から赤人へ 自己表出の歌から自己韜晦の歌へ」

藤原不比等の作った『律令』によって統治される社会で流罪・死刑になった宮廷詩人、人麿と、不比等の子、藤原房前や藤原宇合に重用された次の世代の宮廷詩人、赤人。二人の対比がまるで小説の登場人物のように描写され、一気に読んでしまいました。まだ読んでいない『万葉集』巻三以降を読むのが楽しみです。
追記 今も、まだ、『万葉集』巻三以降は未読です。

『梅原猛著作集 第12巻 さまよえる歌集』集英社 1982年6月刊
2009年7月26日読了
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J7O618

2009年7月11日に読んだ、単行本、
『さまよえる歌集 赤人の世界』集英社 1974.11 に、
大伴旅人・山上憶良・大伴家持についての論考を追加した本ですが、
追加した部分の方が多く440ページもあるので、
増補版というより、別の本になっています。

「憶良と旅人の文学を知るためには、万葉集巻五を正確に理解しなければならない。万葉集の巻五は、憶良の編集になるか、旅人の編集なのか、あるいは彼等二人以外の他の人の編集なのか、さまざまな説があるが、私は、ここではもっとも一般的な説、憶良編集説をとりたい。

まあ多少の後人の追加があるにせよ、巻五のほぼ全部は憶良の編集になるものと考えてよかろう。なぜなら、巻五には憶良の歌と同じく旅人の歌も多く含まれているが、憶良の歌は、この巻の終りまで含まれているいるのにたいし、旅人の歌は途中までである。

また旅人の歌はすべて何らかの意味で憶良との関係においてよまれたものであるのにたいし、憶良の歌は、特に後半の歌はそうではなく、旅人が都へ行った後、あるいは旅人が死んだ後の歌も多く含まれているからである。」
p.646「巻五の世界 何よりも政治家であった詩人たち」

憶良(660-733)は神亀(じんき)3年(726)に筑前国司、旅人(665-731)は神亀5年(728)に大宰帥(だざいのそち)になります。
旅人は天平2年(730)に都へ帰り、翌年、亡くなります。
憶良も天平5年(733)に旅人の後を追いました。

私はまだ万葉集の巻一と巻二しか読んでいないので、梅原猛の万葉論を読んでから、
阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義  1  巻第一・巻第二』笠間書院 2006.3
https://www.amazon.co.jp/dp/4305401916

の続きを読むのが楽しみです。

「大伴家持(718?-785)は万葉集の歌人であるが、同時に、万葉集編集に関係ある人と考えられてきた。関係あるというのは、万葉集編集について、古来から異説が多く、平城帝(へいぜいてい 在位806-809)撰説あり、橘諸兄(たちばなのもろえ 684-757)撰説あり、いっこうに定まらなかったからである。

家持撰説を、はっきり唱えたのは、徳川時代の国学者契沖(けいちゅう 1640-1701)であり、しかも契沖は、それ以前に勅撰集と考えられていた万葉集を、私撰集と断定した。以後の学者は、だいたい、この契沖の説に従っていて、その説が常識となっているので、万葉集撰集の功は、もっぱら、家持ひとりに帰せられている。

とすれば、家持は、わが国最古にして最大、しかも最良の歌集の編集者として、不滅の文化的業績をあげたわけであるが、近年、また歌人としての家持に対する評価が高まってきている。

たとえば、彼が天平勝宝五年(753)につくった三首の歌、
春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かげに鶯鳴くも
わが屋戸のいささ群竹(むらたけ)吹く風の音のかそけきこの夕((ゆふべ)かも
うらうらに照れる春日に雲雀あがり情(こころ)悲しも独りしおもへば

という歌は、家持のというより、万葉集のなかの、あるいは日本の歌のなかの名歌とされている。しかしこのような歌が、必ずしも、古来から名歌とされてきたわけではない。

家持の歌は、大伴氏が応天門の変(866)によって、最終的に滅んだのち、逆賊の扱いをうけたせいもあり、人麿(生没年未詳)や赤人(生没年未詳)の歌ほどには評価されなかった。

彼の歌の真価が認められたのは、むしろ明治以後、特に昭和になってからである。これらの歌には、繊細で自意識過剰の近代人の悲しみのようなものが現れている。」
p.729「まず政治家であった歌人」

次は、『梅原猛著作集 13 万葉を考える』集英社 1982.9
を読みます。
まるでシリーズもののミステリを読んでいるような感じでやめられません。

阿蘇瑞枝(1929.4.24-2016.5.21)
『萬葉集全歌講義 一 巻第一・巻第二』笠間書院 2006年3』
笠間書院 2006年3月刊
2009年6月28日読了

https://www.amazon.co.jp/dp/4305402009


福岡市総合図書館の返却期限に迫られて、残念ながら、漢字だけで表記された原文をほとんど無視して読みました。

「万葉集における巻一と巻二は、二十巻中の二巻でありながら、はなはだ重く大きな位置を占める。

万葉集歌の時代は、舒明天皇の時代(元年は629年)から、淳仁天皇の天平宝字3年(759)正月一日までの約130年で、平城遷都の710年を以て、前期と後期とを区分することが広く認められているのに、巻一と巻二とには、その舒明天皇の時代の歌から平城遷都までの主要な歌の多くが載録されているからである。このような巻は他にない。」
p.19「概説(巻第一・二)」

「山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜〓國曽 蜻嶋 八間跡能國者
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は」p.45

原文はまるで暗号解読かパズル集です。

「相聞は、相聞往来歌とも言われるように、親愛の情を寄せる相手と歌を贈り交わすのが本来の性格であった。万葉集の相聞歌は、男女間の恋歌が大部分を占めるが、友人・同僚・親子・兄弟・姉妹間で親愛の情を込めて贈り交わした歌も含まれる。

巻二の相聞は、仁徳天皇の皇后磐姫の歌を巻頭に置くが、成立の時代はかなり降るとみられ、それを別とすると、天智天皇の時代の歌に始まり、平城遷都前の歌で終わっている。求婚に関わる歌が特に多く
……
巻二の相聞は、相聞歌を交わした人物に対する関心と興味が成立年代よりも優先され、配列された形跡がある。個々人が織りなす恋物語への関心がうかがわれる。
……
磐姫皇后思天皇御作歌
君之行 気長成奴 山多都祢 迎加将行 待尓可将待
磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)、天皇(すめらみこと)を思(しの)ひて作りませるみ歌
君が行き 日(け)長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
磐姫皇后が、仁徳天皇を恋しく思われてお作りになったお歌
あの方がおでかけになって、日数長く経った。山に分け入ってお迎えに行こうか。それとも待ち続けようか。」p.244

漢字だけで表記された原文を読みとばせば、捗りますけど、味わいが減ります。

「挽歌の名称は『文選』(梁の蕭統《昭明太子》の撰。周から梁まで約千年間の作家百数十人の詩賦文章約八百篇を選集。蕭統は、531年没)の挽歌詩に由来すると考えられているが、孝徳・斉明朝の挽歌の誕生にも中国の挽歌詩の影響が濃い。

挽歌の挽は、引く、意。柩車の引き綱を引く者がうたう歌であった。
殯宮(あらきのみや)挽歌を中心とする万葉挽歌の盛期は、殯宮儀礼の変化にともなってはぼ柿本人麻呂の時代と共に終わるが、個人的哀傷を詠じる抒情挽歌は、亡妻挽歌を中心として万葉末期まで続いた。」p.346

「柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時、自傷作歌
鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有
柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)、石見国(いわみのくに)に在りて死に臨む時に、自ら傷(いた)みて作る歌
鴨山の 岩根しまける われをかも 知らにと妹(いも)が 待ちつつあるらむ
柿本朝臣人麻呂が、石見国にいて死期が近づいた時に、自ら悲しんで作った歌
鴨山の岩を枕として(死のうとして)いる私を、そうとも知らずいとしい妻は待っていることだろうか。」p.541

読書メーター 梅原猛の本棚(登録冊数25冊 刊行年月順)https://bookmeter.com/users/32140/bookcases/11091243


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