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感 揺 句。
第6話『空しきけぶり』
あれから、30年だ。
まさか自分が中年になっているなんて...思ってはいたけれど、こんなに早いものだったなんて、信じられない。信じられなくても、時は過ぎる。
まだ、私は一人でいる。結婚はしていない。何回かしようか...と考えたことはあるが、踏み切れないままの私に諦めをつけ、相手が去っていった。誰のせいでもない。
最近では友だちの結婚披露宴の招待はなく、職場の若い人たちや、ともすれば友だちの子どものそれに呼ばれるくらいだ。お祝いの席は華やかで素晴らしいけれど、年を取るごとに、出席後は疲れを感じていた。お酒をあまり飲めないのも理由の1つかもしれない。
私の誕生日が近くなる度に、私は少しソワソワしてしまう。
理由はわかっている。
30年前。
好きだった人がいた。心から愛した人がいた。でも、お互いぶつかりあってばかりで、心身ともに疲弊した。
思ったことを言えた。本気で向かった。夢も一緒だった。ずっと一緒にいられると思った。
彼は私のせいで神経をすり減らしたんだと思う。私もそれは同じだった。
乾いた地面に水をやるとどんどん染み込む。彼が私に与えた水は、私を満たしたが、またすぐに乾く。
ある日、私は、彼という花に水をやっていた。しかし私は、陽が照りつけるような時に水を与えてしまい、彼は潤うどころか、枯れてしまった。
彼と離れて1年ほどした頃、私の元に手紙が届いた。彼と暮らした部屋はとっくに引き払っていたけれど、郵便の転送をしていたお陰で、手元に届いた。
あなたと離れてから、私はあなたのことを考えない日はありません。あなたは私の魂の一部だったのだと思います。あなたが私に会ってくれるのならば、もし会えるなら、あなたと良く行ったあの場所で、30年後のあなたの誕生日に待っています。無理にとは言いません。
手紙にはそう書かれていた。30年後。あの場所。手紙をもらってから私は、あと何年だろう、あの場所はどこだろう...と考えていた。
私には才能がなかったのだろう。彼と別れてからも、芝居はしばらく続けていたけれど、表現者として舞台に立つのはやめた。元々好きだった裁縫を生かすため、専門学校で学び直し、今は舞台衣裳専門の会社で働いている。彼は俳優で脚本家で演出家を目指していた。でも、本当はそんなに器用じゃないことが、私にはわかっていた。そういう話でもよくぶつかりあった。
業界の中で、彼の名前を聞くことがないまま30年の月日が経った。
あれから30年後の誕生日。私は彼の思う場所についてずっと考えた。泥酔したり激論を交わした居酒屋。私たちが生活し作品を作るために過ごしたアパート。良く借りた小劇場やライブハウス。ネタを見つけるため、調べものをするために、という名目で涼みに通った公立図書館。
どこだろう。彼の言う場所はどこだろう。
あ。
私は決めた。
きっとあの場所だ。
小高い丘になっている公園。この公園のベンチやブランコでも私たちは良く演劇論を交わした。
「俺、いつか、公園で公演したいと思ってるんだ。」
「あはは。冗談でしょ? 親父ギャグじゃん。」
「いや、本気だよ。公園を舞台にさ、子どもも楽しめる作品を作りたい。」
「そっか。じゃあ、それができるようにお手伝いするよ。きっとやろうね。」
そんな話をしたことを思い出した。
きっとあの公園だ。
公園は、30年前と少し変化していたけれど、その場所にあった。危険だと騒がれるようになった遊具は外されている。
私は、午前10時頃から公園で待った。彼は早起きが苦手だったから、それほど早くは来ないだろう。
昼を過ぎても彼は来ない。私はコートの襟を立てながら、マフラーを巻き直した。買ってきたサンドイッチは、彼と良く食べたパン屋さんのもの。ここの玉子サンドが彼の好物だった。店主は代替わりしていて、現在は息子さんが営んでいるが、味は変わらない。
夕方になっても彼は来なかった。寒くなった。もうすぐ陽がくれ始める。
ふと、ブランコに揺られながら、視線を稜線に向ける。すうっと煙が浮かぶ。流れていく。青空と橙が混じり始めた空に。あそこには、煙突があるものね。この世界に生まれてきた躯を空に戻すための場所が。
結局、彼は来なかった。彼の思う場所と、私の思う場所は違ったのだろう。ごめん。本当にごめんね。
そして、誕生日おめでとう、私。
それから1ヶ月ほどして、私の元に、差出人のない手紙が届いた。
はじめまして。突然のお手紙、お許しください。私の夫は先月亡くなりました。病床でずっと、あなたとの約束を気にしていました。30年前に別れたとはいえ、あれほど熱く一緒に生きれた人は、男女関係なく、あなただけだったと聞かされていました。じゃあ、何で私と結婚したの?私は愚かな質問だと思いましたが、夫にそう聞いてしまいました。「君を守りたいと思ったから。」彼は声を絞ってそう私に言いました。正直、私はあなたが羨ましかった。でも、あなたとは違う軸で彼は私を愛してくれたと思っています。彼は、あなたの誕生日に火葬されました。だからあなたの待つ場所へは行けなかったのです。「待っているだろうか。また演劇の話がしたい。」と最後まで言っていました。小高い丘の公園で待っているつもりだったそうです。あなたはお待ちになっていましたか?それならば、きっとあの人は喜んでいたでしょう。煙となって空高くからあなたが見えたでしょうから。急にこのようなことを申してすみませんでした。夫の代わりに、あなたへメッセージを伝えたかったのです。かけがえのない時をありがとう。彼はそう思っていたと思います。時節柄、寒さが厳しくなります。どうぞお身体ご自愛ください。今後のご活躍を願っております。
あの場所で間違いなかった。
彼はあの日、煙になって私を見ていた。何ということだろう。こういう待ち合わせもあるんだ。
私は手紙を読み直し、震えを抑えながら引き出しの奥にそっとしまって、サンドイッチを買いにいくことにした。彼の大好きだった玉子サンドを持って、今から公園に行こうと思う。
先月より少し寒くなった公園へ。
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