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感 揺 句。

第7話 『雨の降る日は天気が悪い』

 仕事を辞めた。

 寿退社でもヘッドハンティングでもなく、ただ、辞めた。辞めたくて辞めた。

 意地になって、やめるもんかって思って、今の仕事を続ける気持ちはなかった。そこまで仕事に縛られる必要はないと思うし、私の代わりはいくらでもいる。

 しばらくは失業保険をもらいながら生活することにして...と考えている。

 自宅暮らしだから、家賃や光熱水費は困らない。

 ただ、一つだけ悩みの種がある。

 母だ。 

 母は、もうとっくに成人している私に対して、ずっと過干渉のように思う。母自身は、専業主婦で兄と私を育て、父のサポートを立派にし、家を守ってきたという自負がある。自分のやり方、考え方が間違っていない、という根っこがあり、家族が全て、という感覚ではないか、と私は思う。

 それが嫌で、兄は大学から他県に進み、卒業すると海外勤務のある会社に入り、今は外国の地で過ごしている。日本国内なら、母は何かと理由をつけて、いや、つけなくてもしょっちゅう兄の所へ行っていただろう。「心配だから。」というだけで。

 私はそんなこともあって、「地元にいなさい。」という母の願いを聞き入れ、高校、大学、会社も全て近くで決めてきた。遠くに行きたい気持ちもあったが、「泣く子と母には勝てぬ」というような感じで、とにかく母は

 「お母さんの言う通りにしていれば間違いないから。」

と、私の意見は二の次だった。

 「そんなの無視すりゃいいじゃん。」

と友だちは良く言ってくれたが、母が面倒くさくなっても嫌だと思った私は、言う通りに過ごしてきたと思う。

 「中学校は私立にいきましょう。あなたは引っ込み思案だからその方がいいに決まってる。」

 「お友だちは選びなさい。この前、うちに連れてきた人たちは、あなたには合わないわ。」

 「彼氏なんてまだ早いわよ。学生は勉強が仕事でしょう?」

 「バイト?そんなことしなくても。あなたには、お金に困らせるようなことしてないでしょ。」

 「風邪引いたらいけないから、ちゃんと布団を着なさい。」

 「門限は守るためにあるのよ。破るためじゃないんだから。」

 これはほんの一部で、母の意見というか言いつけというか、母ルールは山のようにある。

 一時、抵抗しようと思ったことがあった。反抗期を迎えるような時期だった。でも面倒だった。逆らえば逆らうほど、母は上をいく。自分の意見を曲げることはない。それにいちいち抗うことが疲れたし、母の言う通りにしていて、失敗したことはなかったから。

 しかし、今回は、相談もせずに仕事を辞めてしまった。今の仕事は嫌いではなかったけれど、最近は、ただただ締め切りに追われて、毎日同じことの繰り返しだった。それに少し疲れたのかもしれないし、漠然と、このままでいいのだろうか、人生、3分の1は過ぎたよな...と思うようになったのだ。

 さあ。明日から、どうしようか。

 

 とりあえず、朝、起きた私は、いつものように弁当を作り始めた。会社にいくわけでないから、腹もあまり空かないだろうと思って、いつもより少なめだ。

 「あら、それしか食べないの?ダメじゃない。疲れちゃうわよ。」

 父の弁当を作りながら、味噌汁を温め直しつつ、母が言う。

 「大丈夫、ダイエットよ、ダイエット。」

 「ダイエットなんてダメよ、あなたは太ってないわよ。はい、これも入れなさい。」

と私のいつもより小さい弁当箱に、野菜の肉巻きをギュッと詰めた。強引だな。今日はとてもそう感じた。いつもこんなことあるのに。

 「行ってきます。」

 そう言って、出かける。退職1日目。今日は、少し手続きとかやることがあるから、それを済ませてから何をしようか。たまにゆっくり買い物でもしたいけれど、これからあまり無駄遣いはできないな。

 私は、午前中で事務的な用事を終え、今日は天気も良いから、家から5駅ほど離れた場所の公園で、昼食を摂ることにした。

 公園は昼時のためか、子連れの人は少なく、近くの会社員たちが食事をしたり、お年寄りがベンチで居眠りをしている。

 いくつかあるベンチの一つに座る。弁当箱を取り出す。

 こういう状況で食べる弁当って、もっと味がしないと思っていたけれど普通においしかった。

 昼食を終え、時間を潰すために図書館へ行った。以前から読みたいと思っていた本があったから、それを手に取り、暖かな光が差す窓際の席に座る。夢中になって読む。時間はあっという間だ。その本を借りて、閉館する図書館を後にする。

 こうやって、あと何回、会社に行っているように見せかけなければならないのだろうか。そう思うと吐き気がしてきた。


 退職してから10日が経ち、結局、吐き気を我慢しながら、私は毎日、どこかへ出かけた。食欲があまりなくて、少し痩せた。母は

 「最近、痩せたんじゃない? 大丈夫? 仕事大変なんでしょう?」 

 と言った。

 「うん、まあね。」

私はそれだけ答えた。

 「でも、大変じゃない人はあなただけじゃないからね。みぃんな、大変だけど頑張っているんだから、あなたも頑張りなさいよ。今がきっとそんな時なのよ。」

 それって正論だろうけど、あなたの考えだよね、と思ったが、私は返事をせず、小さめのおにぎりを作ってから、いつものように出かけた。

 

 今日はいつもより足を伸ばした。40分ほど電車に揺られて、私はその街に降りた。ファミレスでドリンクバーだけ注文し、読書に勤しむ。温かく甘ったるいココアを飲んで、それから口直しにブラックコーヒーをいただく。そうやって水分で腹を満たす。実際のところ、空腹なんてほとんど感じることが、この頃はなくなっていた。空腹を感じてはいけない、働いてもいないのに...と思っていた。

 ファミレスから出て、駅から歩いてきた時に見つけた公園に向かう。子ども連れのママたちが談笑していたり、ゲートボール場ではお年寄りが真剣に楽しんでいる。

 「あ。」

 思わず、声が漏れる。

 ベンチに見たことのある人が座っていた。

向こうも私に気付く。一瞬しかめ面をしたが、こちらにおいで、というように私を手招いた。

 「お父さん、ここで何してるの?」

 ベンチに座っていたのは父だった。しばらく黙っていたが、

 「実は、先月、退職したんだよ。」

 「えっ? でも、毎日仕事に行ってるよね。」

 「行ってるふりだよ。」

 「お母さん知らないのね?」

 「うん。まだ言えなくてね。新しい仕事が見つかったら言うつもりで、見つからないままなんだ。」

 父はそう言って、飲みかけの缶コーヒーを口に含んだ。

 「実は、私も会社、辞めたの。」

 父は驚いて、私を見た。

 「いつ?」

 「10日前くらいかな。」

 「そうか。」

 父はそう言って、じっと子どもたちのいる方を見る。

 「ねえ、お父さん。一緒にお母さんに言おうか? どうせバレるだろうし、いつかバレるなら、言っちゃおうよ。」

 父は私の発言に驚きながらも、頷いた。


 帰宅した父と私は、カレーをよそう母を待った。自分でよそうと言っても、それぞれにちょうど良い量って、お母さんが一番わかってるんだから、と言ってやらせない。

 湯気を出し、スパイシーな匂いだが、食欲が沸かない。グーっと胃が押されるように鳴る。

 「母さん。話があるんだ。」

 「どうしたの改まって。」

 母はカレーを食べる手を止めた。

 「俺、仕事辞めたんだよ。それからな、」

 「私も辞めたの。」

 父が言い終わる前に、私が言う。自分のことは自分で言う。母の言いつけだ。

 母は声を出さず、交互に父と私の顔を見た。

 「俺は、早期退職勧奨でさ、辞めることにしたんだ。新しいことってこの年じゃなかなかできないだろう。これがチャンスだと思ってさ。」

 「私は、仕事を辞めて何かしたいと思ったの。会社の駒でしかなくて、誰でも代わりができる仕事じゃなく、自分しかできないことを。」

黙っていた母が口を開いた。

 「お父さん、なんで相談してくれなかったの?辞めて生活どうするの?それにあなたも、仕事辞めたなんて、結婚するんでもないのに、なんで、なんで...」

母は大粒の涙をカレーの上に落とした。

父の状況を心配したり、私のことなんて結婚の話をしてくるなんて、この人は、自分のことしか考えられないんだろうなと思った。ずっとそうだった。

「ねえ、泣くのはいいけどさ、父さんが言えなかったのはなぜか、私が言わなかったのはなぜかって、考えないわけ?」

 答えず母は泣き続ける。まぁまぁ、と母の肩に手を当てる父。それを振り払う母。

 「お母さんが面倒くさいから言わなかったの、私はね。今まで、ずーっとお母さんの言う通りに生きてきたと思うよ。学校も友だちも仕事も。お母さんは正論を言う。確かに今までで、失敗したなってことはなかった。でも、今回は言う。これからは私の好きなようにする。失敗したっていいもの。」

 さらに母は大きい声を出し、泣き続ける。嗚咽しながら。

 「...私が間違っていたの? 私はみんなのために...今まで一生懸命やって来たのに...」

 「お母さん、重い。もう、私は一人でやれる。お母さんには酷かも知れないけど、もっと自分のことやりなよ。家族が生きがいなんて、家族ががんじがらめになるだけだから。もう十分だよ。」

 泣いて泣いて、人ってこんなに涙が出るのだと思うほど、母は泣いた。不思議の国のアリスが自分の涙に流されるくらい、と言ったら大げさかもしれないが、それくらいは、泣いたと思う。

 

 母は、一週間くらいは落ち込んで、話もあまりせずにいた。仕方ないと思う。自分の生き方を否定されたと言われたも同然だから。でも、言わなきゃ進まない。私はそう思った。私は母の所有物でないし、母の人生をやり直すための投影機でもなんでもない。

 父は、勤めていた時の取引先で、仕事ができることになった。私は、母はかなり渋ったが、他県で住み込みの仕事をすることにした。お金を貯めて、春からは、専門学校に行こうと考えている。

 これから、忙しくなる。期待と不安の入り交じった今までに味わったことのない気持ちがこみ上げた。荷物をまとめながら、開け放たれた部屋の窓の向こうで、鳩が飛び立ったのをしばらく見つめた。



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