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50代後半の女で集まって読書会をしたら

最初は確か『流しのしたの骨』だったと思うが、江國香織の小説と自分の実人生とで、登場人物の考え方や感覚がかなりな頻度でシンクロするので、「どこかで見てた?って思うことがあるよね」と当時、友達と話した。前世紀のことだ。自意識過剰というより代弁。感じていたことや考えていたことが、あの美しく確かな日本語で表現されているのを、ドキドキしたりうれしく思ったりしながら読む。
江國香織はわたしにとってそんな作家だ。

新刊『シェニール織とか黄肉のメロンとか』はタイトルがピンとこなかったけれど読んでいるうちに納得した。そこにはまったく性格の異なる学生時代からの女友達(いまは50代後半)の日常が綴られている。

独身で母親と暮らす地味な作家の民子と、海外での仕事を辞めて帰国した、自由奔放で華やかな理枝と、専業主婦で保守的な早希。プールに通う民子の母(80代)、理枝の甥とガールフレンド(10代)、民子の友達の娘(20代)らの群像劇。

年代や社会的な立場は、人に先入観を持たせるかもしれない。でもそれはその人だけの概念だ。世代を一括りにして一般論で語るのはつまらない。それぞれが数字で表せない違いを携えている。それがおもしろさだ。

わたしの友達にはバイアスがかからない自由な人が多いと思う。江國香織の小説の登場人物もわりとそうだけれど、固定概念を持つ人もあえてそこにはいて、そういう人が変わっていったり、変わらないままだったりもおもしろい。

50代後半の女で集まってこの本の読書会をしたらどうだろう。どこに共感するだろう。そして自分は民子と早希と理枝の誰に近いだろう。

わたしは最初、自分は薫だと思った。薫とは民子の母親で、買い物のついでにふと思いついて眼科で手術するなど、自分一人で決めて勇敢に行動することにときめく老女だ。
それから自分は理枝だと思った。人生の中心に自分がちゃんといる。まっすぐものを言う。でもそんなに行動力がない。理枝は憧れで、自分は民子や早希に近いかもしれない。

師走の慌ただしさのなかで、掃除をしながらそんなことをつらつらと考えていた。


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