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ちさのはな

朝の公園のベンチに、ポップコーンが撒き散らされている、と思った。

それはポップコーンではなくて散った花だった。
エゴノキの下にベンチがあった。

エゴノキの季節になると、父を思い出す。実家の庭を受け継いだ妹は、父が好きだった木があったことを植木屋さんに知らされた。エゴノキだった。

わたしは昔、父に、エゴノキが好きだと話したことがあった。風に揺れていっせいに笑っているみたいな花が今頃の時季に咲くのがいいよね、と。
あのとき父はなんと言ったのだったか。

エゴノキは、妹の庭で、母が好きだった花石榴の木と向かい合わせに植えかえられた。どちらも同じ頃に花を咲かせる。

母が亡くなってからの父はいつも、世界で一番悲しい顔をしていた。それは誰にもどうしようもできない悲しみだった。

エゴノキは、「ちさ」の異名を持つ。花をいけるひとから、万葉集の大伴家持の長歌を教わった。

「ちさの花 咲ける盛りに 愛しきよし
その妻の子と朝夕(あさよひ)に 笑みみ笑まずも」

(エゴの花が満開の頃に、あぁ愛しい奥さんと、朝に夕に、時には微笑み、時には真面目な顔で)

それを知ったとき、胸がいっぱいになった。

父は知っていたのだろうか。

いま、ふたりが一緒にいればいいと思う。

今年もエゴの花があちこちで、揺れている。
父が、もうすべての苦しみから解き放たれて、そこにいるとわたしは思う。

今朝は目の前で、大鷹とカラスの空中戦を観た。
犬たちと戯れ、写真家の人たちと話し、静かに歩いた。

満開だった桜は実を結び、でもそれは苦くて酸っぱいのだった。地面に蔦のように這う蛇イチゴは、キイチゴと違って味がないと聞いていたけれど甘かったので、あれは蔦でなく木の、キイチゴの部類だったのかと思った、その場所もいまはドクダミに覆い尽くされている。季節がどんどん変わっていく。
わたしはやっぱり、亡き人や犬のことを考えながら歩いている。

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