メタフィクションが好きになれない話

 創作物のうち、メタフィクションと呼ばれるジャンルがある。
 現実と虚構の壁があいまいになるような作品。漫画のキャラクターがふいに読者の方を向いて、「僕らの命運は君たちにかかっている」と宣言したり、ミステリーの探偵役が「この不可能犯罪の犯人は読者自身だったのだ!」と推理を披露したりするアレである。
 特に小説は好きなのでそれなりの冊数を読んでいるが、やはりメタフィクションが何冊か存在していて、こちらの力不足で被害を防げなかったり、人が亡くなるような小説を楽しんでいるせいで起きたのだと罵られたり、特殊能力で読者の数だけダメージが入って自殺を遂げるタイプの人間がいたりするのだ。
 このオチに、いまひとつ納得がいかない。
 まず第一に、特に推理小説等で「お前が犯人だ!」と名指しされたパターン。これに対して、「なるほど。私がやってしまったのか…」と思ったことはほとんどない。なるほど、たしかに理屈で言えば「読者」という存在は犯人だけれど、私自身はただ読んでただけで犯人じゃないね、と思ってしまう。また、「お前が喜んで読んでたせいだ!」という指摘シーンで、こちらは全く喜んで読んでいなかったパターンもある。その場合、私は友人から強く薦められて気が進まないながらも義理を果たすために最後まで読んだのに、なんでそんなこと言うの?と、なんとなく理不尽な気がする。
 第二に、作り込みが甘い場合が多い。この手の話は、読み手がどこまで没入できるか、真実味があると思えるかが勝負だと思う。創作の中の彼・彼女たちが「生きている」としっかり感じられるほど、こちらの現実が創作側に影響を与えたんだな、という自覚も強くなるというものだ。ただ、それはとても難しい。同じページは何度読み返しても同じことが書かれているし、ゲームのキャラクターは同じタイミングで同じことしか話さない。創作と現実をあいまいにしなければならないのに、創作物は一度作ったらそう簡単に動かせない。できることに制限がある。
 第三に、安易だなあと思わせがちである。メタフィクションは、大勢を驚かせる結末を簡単に作れる方法のひとつだ。登場人物が「これは、あなたに向けた物語だったのだ」と言うだけで、多少はびっくりする。物理トリックで扉を閉ざす方法を考えるより、心理トリックで容疑の圏外に抜け出す方策を練るよりも、伏線を張ることは難しくない。何しろ、リアリティに配慮する必要がないのだから。

 しかし、読んでいるこちらとしては、魅力的な謎や世界観に胸をわくわくさせていたのに突然そんなことを言われて、肩すかしを食らったような気分になってしまう。例えるなら、アリバイ工作をメインにした推理ものを読んでいて、いざ名推理を開陳するという段階になって探偵が「アリバイ?そんなもの気にしていたら謎は解けないよ。無視したまえ」と言い出したような気持ちである。だったら、最初に言ってくれ…。物語の序盤から「わたしはアリバイなんて無視する主義だ!」と言うのが、フェアなやり方だと思うのだけど。
 そんな自分でも、ひとつだけ、「みんなは生きている」と思ったメタフィクションがある。
 それは海外の有名なゲームで、驚くほど緻密な世界が作られていた。人の手で作られたゲームであることは理解しているのに、ひとつの宇宙として認識した。プレイした時、「私が壊してしまった」という喪失感がたしかに残った。そんなことは初めてだった。
 いつかもう一度、あんな傑作に打ちのめされたいものだ。

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