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元夫の葬儀

4月下旬の早朝、元夫のお母さんから
電話が入った。第一声は
「あのねMがもう危篤なのよ。脳死なの」
一瞬、脳死だから危篤なのか、危篤だから脳死なのか、とにかく「死にそうが二乗」と理解。
ベッドの上に正座して、別れてから20年のダイジェストをきく。
結局、臨終には間に合わなかったのですが帰省し、
元の婚家にいくと、残り少ないドライアイスと共にベッドで寝てました。
なぜか葬儀屋が決まってなくて、翌日はトモビキで
いつ荼毘にふせるか未定なままドライアイスが減り続ける最中に、娘と到着してしまいました。
このままではアカン気がする。
どうも、病院紹介された、葬儀屋さんは坊さんを呼ばないといったら離れてしまった模様。
さらに、コロナ禍での葬儀。
娘とネットで検索して、電話して、無宗教で最低限の直葬で、トモビキでも火葬の段取りをしてくれるところを見つけてお願いする。
たぶん、この段取りのために呼ばれた。
今年の誕生日は元夫のお葬式。
娘と緊急事態宣言直前の芦屋のホテル竹園に宿泊し、封印をとくようにMの話をする。
娘との二人旅を最後にプレゼントしてもらったような気がした。

以下はまとまらないモヤモヤをそのまま。
離婚成立時には完成形のアルコール依存で
そこから20年。
成人式の写真をおくったり、ぽつりぽつりと連絡は
とっていたものの、入退院やスリップを繰り返し、
「ちょっとだけ呑んでる方が調子がいい」なんて言葉をきくと、とても娘には会わせられない。
とも思っていた。
それでも来年長女が大学を卒業したら、区切りとして一緒に会いにいってみようかとも心の片隅で考えてた。
私には言わないけれど、長女はきっと会いたかっただろうし、話したかっただろうなと思う。
残念だったけど、
私の父がアルコール依存で、自殺未遂をくりかえし、暴力と失明と、禁断症状の被害妄想。
現実と1ミリも対峙しない母との確執。
これらの経験は今の私を形づくる要素の一つではあるけれど、こんな経験は無くていいともおもう。
あの禁断症状がでたときの壮絶な姿を繰り返し見る経験は、我が子にはさせたくなかった。
私の子育てで唯一、問答無用で自分の気持ちを優先させたことかもしれない。
そして、今回初対面。
長女とは腹違いの妹。15歳。
入退院をくりかえす父と二人でくらし、
彼女が発作を起こした父の心臓マッサージをし、救急車にのせ、看取ったという。
「Mは娘に看取ってもらえてよかったね」
とある弔問客はいった。
ビダンニスルナ
亡くなっておわりじゃない。
アルコール依存者の家族は、ここから七転八倒しながら自分の人生をとりもどす。
それがどれほど大変か、大変なんてものではない。
命が削られるほど苦しかった。
フザケンナと心のなかにやるせなさが染み出す。
私が心の中で過去の亡霊と戦っている間も
隣にいる初対面の娘二人はケラケラとよく笑う。
長女も、自分のルーツの半分の輪郭がみえ、少し嬉しそう。
いろんなことはあるけれど、やっぱりどの子も生まれてきてくれて、生きててくれてよかった。
そしてしあわせになってほしいと心から思う誕生日







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