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聖夜の酒飲み雑記

今年は少し暖かいと思っていたのに、12月になってから一気に冬が訪れたような気がする。

そんなある日、大学時代の友人が近くまで遊びに来てくれることになり、車を出して色々な場所をドライブした。
うどん屋、展望台、うどん屋、和菓子屋…と食い倒れ、そして日が落ちる頃、友人の提案でイルミネーションに行くことになった。

国営讃岐まんのう公園
広大な土地と起伏を活かした、圧巻のイルミネーションで有名だ。

そもそも人類はいつから、暗闇に微細な光源を散りばめることに喜びを感じ始めたのだろう。
おそらく、キリスト教圏では12月になるとイエスの生誕祭にちなんで巷にはお祝いムードが流れ、日常の風景に祝福の明かりを灯すようになったことが、イルミネーションの起源なのだろう。
そして日本も、戦後十数年あたりだろうか。海外の文化が続々と流入し、経済も活性化し、あらゆる商売人があれやこれやとマーケティングについて思考を巡らせていたところ、「財布の紐が緩みがちな年末直前で」「街を彩る様子がロマンチックで」「プレゼントを贈る習慣がある」クリスマスに白羽の矢を立て、真似事をするようになった…そんなところだろうか。

実に上手く日本文化に馴染んでくれたものだ。真夜中にプレゼントが届いていた頃は嬉しかったけれど、今となっては街並みや人間模様からそのニオイを感じるまでだ。
ロマンチックで、美しくて、…煩わしい

何が「幻想的なイルミネーション」だ。
幻を名乗るのに相応しいのはオーロラのような自然の賜物であって。人類の信仰心…いや、商業戦略および地域振興の一環として現れた光彩をいちいち幻と呼んでいては、人類は幻慣れしてしまうだろう?せめて造形や色遣いを褒めるのなら、芸術として評価すべきではないのか?

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17時半に点灯が始まってから、辺りはみるみるうちに暗くなり、より光彩が際立つようになった。
場内は四国の片田舎とは思えないほど賑わっており、行き交う人々が思い思いに写真を撮っていた。

自分は余計なことを考えるあまり、少しぼうっとしていた。
友人に会話を振れていないことを思い出した時、いくつかある小高い丘の全てにおいて、上の方に人が密集しているのが見えた。

「大学の頃に習った物理化学でさ、横線を何本も引いて、下の方にばっかり粒が密集してる図なかったっけ?」
「エネルギー準位図ですね。励起状態になった原子を上の方に書いて表してるやつだったと思います!」
「うわ〜よう覚えてんな!丘の上にばっかり人がいるのを見て、これの逆やな〜とか思っちゃって。」
「めっちゃ通じにくい例えですね…!私は、鼻毛みたいだな〜って思いました。」

突然の“鼻毛”。思わず吹いてしまった。
形状をそのまま描写するなら、乳首もしくはサルゲッチュの頭の方が的確だろう…と思いつつ、彼女の感性はこういうところが侮れない。

この後も、ロマンの欠片もない会話でもちゃんと打ち返してくれるのを良いことに、失笑されそうな話ばかり振ってしまった。

「電気配線ってどこから引き回してるんやろ…あ、あの黒いネット被せてるやつかな?ちゃんと夢を壊さないように配慮されてる!」
「あのグラスタワーのグラスって、上から1個、4個、9個…やからグラスの合計数は平方数の和になるよな…高校の頃の自分たちなら、Σとか使って計算できたんかな?」
「色とりどりのLEDを発注する時って、あらかじめデザインを決めておいてそれに沿って発注するのか、ざっくりで色んな色発注して後から適当に配置するのか、どっちなんやろな?」

友人は、一体どんな思いでイルミネーションを見ていたのだろう。
どうかこんな自分を、ロマンをぶち壊す人間を、許してほしい…。

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いつの日だったか、職場の上司との面談で言われたことがあった。

お前は、何というか理論武装しがちなところがあると思う。
その個性を否定する意図はないんだけど…この世は、理屈が全てじゃないんだよ。

美しい言葉だ…そして、まさしくおっしゃる通りだ。

もし自分一人なら、イルミネーションなんて絶対に行きたくなかった。
人工的で俗っぽく、芸術にも至らない茶番。でもそれ以上に、そこに群がる人間が嫌だった。

カメラを向けられて、笑顔ではいポーズ。口をついて出る言葉は「うわ〜きれい〜」。
彼らに「何故イルミネーションを見に行くのか」と聞けば、「綺麗だから」「風物詩だから」、その限りだろう。
死にたいとか消えたいとか、そんなこと1ミリも考えたことなさそうな顔で。
其方は、茶番を見せられている自分が虚しくならないのか?
一体何を考えて生きているんだ…??

いっそ自分も、考えない人になりたかった。
林檎の絵を見せられて、「林檎」としか思わない人でありたかった。
考えすぎて、崇高な自己実現を望みすぎて、息がしづらくなっているようだ。マズローのかの三角形の上の方を整えようとするあまり、下の方は酷くグラついているようだ。

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場は移り、移動中の車内にて、友人は持論の哲学を展開してくれた。
何とも友人は、“鼻毛”を軸に物事を考察することにハマっているようで、自分はその鼻毛論の大ファンなので、積極的に話を引き出した。

友人曰く。

鼻毛は数秒おきに人間の呼気と吸気に晒されているため、数秒おきに「暑さ」「寒さ」の繰り返し、すなわち数秒サイクルで四季を巡っていることになる。
これを「地球・人類」のスケールに置き換えると、地球にとっては、人類もまたごく短い時間で四季を繰り返して生涯を終えるため、人類は地球にとって鼻毛のようなものである。
すると、地球の外にも更に大いなる存在がいて、地球を鼻毛的存在と捉えることができるかもしれないし、また人類も鼻毛から見れば「ミニチュア地球」であるといえる。

…とのことだ。

ある意味、食物連鎖やマトリョーシカを用いても似たような議論ができるような気がするし、鼻毛に絞らずとも、プランクトンや細菌でも代役がきいたかもしれない。
それでも自分として魅力的に感じたのは、サイズの大きさや時間軸だけでなく、「四季の流れ」という人間ならではの感性を、よりにもよって鼻毛に見出したことだ。
…友人は、少なからず狂気を秘めていながら、この令和の時代に欠いてはならない天才なのだと思う。
己を見失わず、したたかに生きてほしいと思った。

そうして、他愛もない話も交えながら夕食を共にし、解散した。

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そう、さっきは、「考えない人になりたい」なんて書いてしまったけど。
考えるという行為は、見方を変えればロマンに溢れており、非常に魅力的だ

ただ、もうちょっと寛容になりたいとは思う。
そんなことを思いつつ、肌寒い夜を20℃の暖房でしのぎ、缶チューハイを空けながらパソコンのキーボードを叩く夜だった。

おわり


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