パパ66日目 フリーライダーになっちゃいけない

パパ66日目。本日の目覚めは宅配便対応。地域コープの担当者の方が、玉手箱を持ってやってきた。

我々の住む街には、自治体がコーディネートし、地方テレビ局が中心となり、地元企業が協賛して、新しく赤ちゃんを迎えた家庭に贈るプレゼント詰め合わせセットがある。体裁のよい試供品付きダイレクトメールとも言えるけれども、あって困らないものが多いし、新しい発見もある。詰め合わせている箱も可愛いし、赤ちゃんの知育に役立ちそうな小物もあったりして、割と良い。地域の産業コミュニティが子育てを応援してくれているようで嬉しくなる。資本主義経済の継続のためには顧客の新規開拓と市場の維持が必要なので、赤ちゃんのいる家庭を大切にするのは当たり前のことではあるけれど、そこにストーリーと温かみをプラスしてラッピングしてもらえると、受け取る気持ちは、結構変わってくるもの。単純な新米パパ。

今日3人で近所を散歩している時も(涼しくなってきたので靴下やベストを着用させたら超絶かわいい我が子)、ベビーカーを伴ってのバス乗車に関する話題になり、似たようなことを考えた。「ベビーカーだからといって助けてもらえるのが当たり前ではない」という考え、つまり「子育てという行為を(他の社会的モジュールに優先して)積極的に支援することはしない」という態度がしばしば見られるが、この態度は「私はこれまで継続してきた社会インフラ(ハード・ソフト)へのフリーライダーです」と宣言しているようなもので、こんなことをいい歳の大人が言っているのは、見ていて目を覆いたくなる。
コミュニタリアン的視点のみならず、自由主義経済的視点においても、あるいは整合的な社会経済の形成と市民の主体的参画を唱える他のいかなる思想においても、フリーライダーは組織運営上の悩みの種である。だからこんな宣言を、仮に(本当は若年者であっても宣言すべきではないのだろうけれど)年端のゆかない、未だ社会の主体的参画者としての権限も資格も責任を与えられていないかのような若者が(本当は大人たちがその年齢に関わらず若者にも与えなければならないと思うが)旧時代を批評的に観察し社会を問い直す視点で提議する分には、まだ「アリ」だと思う。しかし、こんな宣言をするのが結構いい歳のオジサンやオバサンだったりするから困る。それも往々にして、割と「私はこれまで人一倍頑張ってきましたよ、立派なんですよ」と言いたげな方が多い、ような気がする(気のせいかもしれない)。こんな人々がのさばり大きな顔をしていられるような社会が、子育てしやすい社会のはずがない。

そんな大人たちを見ていたら、子どもたちの中には何が正解か分からなくなってしまう子が出てくるのも当然だろうから、彼らにかける言葉を用意しておこうと思う。

 君が、思いやりと助け合いの優しい社会を好むなら、迷いなく困っている人に手を差し伸べよう。その手の繋がりが、生きる幸せを生むことでしょう。いつか君のことも救ってくれる。
 君が、弱肉強食のビジネスゲームにプレイヤーとして参加したいのなら、それでもやはり迷いなく困っている人には手を差し伸べよう。そのゲームが継続するには社会の維持が必須条件だから。社会がなければウィンもルーズもなく、時間が来たら全員ゲームオーバーになるだけ。有利なのは君たちよりもずっと早くそのゲームに参加した人たち。これから参加する君たちはすでに敗北が決まっているようなものだ。そんなゲームに参加したい?

新米パパ

おそらく色んな人が言っていることだけれど。

フリーライダーの身勝手な大人の真似をしちゃいけないよ、ということをうまく伝えてゆくのが教育者のお仕事です。

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