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ネモフィラ

 人は一目惚れをする時、息が止まるものなのかもしれない。それは衝撃、強い力で鳩尾を殴られたくらいのショックがあった。
 生ぬるい風が頬を撫でるのも、遠くに立ちすくむその人がやたら鮮明に見えるのも、周りの音が何も聞こえないくらいになるのも、あまりにベタ過ぎて笑ってしまいそうだった。こんなの、安っぽい青春小説では語り尽くされた現象だと思っていた。
 空の青を思わせる青いカラーコンタクト越しの瞳は冷ややかで、雪女を見てしまったのかと思った。とんだ白昼夢もあったものだ。
 スカートと黒い髪を翻して去っていくその人を追いかけることも、声を掛けることもできずに、僕はそこに立ちすくんでいた。

「陳腐な話ですね」
 目の前で黙々とあんみつを食べていた後輩は、顔を顰めてそう吐き捨てた。
「そう? 自分で体験してみて、初めてわかることってあると思うよ」
 そう言ってコーヒーを啜る。和菓子屋にまで来て、コーヒーを飲むなんて有り得ない。日本茶にしたらいいのに、と散々罵倒された結果、それでもこの生意気な後輩の言うことを無視してコーヒーを飲み続ける僕に向けるこの子の視線は、寒々しいものだった。
「一目惚れの恋愛相談ほど無意味なものはないでしょう。どこの誰かもわからないんですよね? どうしようもないじゃないですか」
「そこなんだよね」
 僕は首を傾げた。
「あと、先輩、今彼女さんいますよね?」
「ああ、はいはい」
「さいってい」
 そう言いながらも、こうしてお茶に付き合ってくれるから、この子は良い後輩ではある。
「そうは言ってもね。揺木くん。恋煩いというものは存在すると思うんだよね」
「彼女さんが可哀想」
 正論ではあるけれど、それがどうしたくらいにしか思わない。彼女は僕の恋人になりたいと自分から言ってきたのだから、僕にできることは彼女に恋人という名前をつけてあげることだけだった。
「まあ、いつかは別れるだろうし、いいでしょ」
 僕がそう言うと、揺木くんは肩を竦めたがそれ以上何か言うことはなく、大人しく僕の相談相手になってくれた。
「会いたいな」
「そうですか」
 こうして揺木くんとお茶をするようになって暫く立つ。同じ大学の後輩であるこの子と親しくなったのは、この子がうちの大学に入学してきて暫くの頃だった。落単寸前だった僕が担当講師に急かされ、重い腰を上げて訪れた図書館でこの子がアルバイトをしていた。
 ひいひい言いながらレポートを仕上げている僕を見かねて、本探しなどを手伝ってくれたのが揺木くんだった。お礼として食事を奢ることが何回かあり、いつの間にかこの子と食事に行くと僕が奢るのが通例となっている。
「でも、先輩から人に興味を持つとか珍しいですね。天変地異が起こるんじゃないですか」
「そう? 僕、揺木くんのことは自分から誘ったけど?」
「……変な言い方しないでくれます? あれは、レポートお手伝いしたお礼ってことでしょう?」
「ふふ、そうだっけ?」
 首を傾げ、完璧な笑みを浮かべるが目の前の後輩はさらりと流す。
「可笑しいな。これで落ちない女の子はいないんだけれど」
「……女の子って言ってるじゃないですか。俺、どう見ても男でしょう」
 そう言い、嫌そうに顔を顰める揺木くんは、男としても充分可愛らしい顔をしている。抱けるかどうかと聞かれたら絶対に無理だけれど。
「そう? 揺木くんは可愛い顔をしているよ」
「うわ」
「本気で嫌がらなくても」
 揺木くんは、不精なのか伸ばしっぱなしで肩に付いている重そうな黒髪と、野暮ったい眼鏡と、私服にしているぶかぶかのパーカーさえどうにかすれば、充分イケていると思う。黒髪はクールでいいと思うし、可愛らしい顔立ちと、案外鋭く強い目力のある瞳は悪くないと思う。僕の生まれつき全体的に薄い色素にはない、日本人らしいミステリアスさと、人間離れした独特の雰囲気が良いと思う。
「本気で口説くの止めてくれます?」
 思ったことをそのまま口に出すと、揺木くんは更に表情が険しくなるけれど、耳が赤いのは隠しようがない。髪が邪魔だと耳に掛けてしまったから、丸見えだった。
「僕が本気出したらもっと凄いからね」
「はいはい」
 手持ち無沙汰に髪を弄る揺木くんに、僕は思いつきで手首に付けていたヘアゴムを差し出した。
「……何ですか?」
「ヘアゴム。邪魔なら結べば?」
「……いただきます」
 派手なピンクとイエローのストライプ柄になっているヘアゴムは、昔の彼女が部屋に置きっぱなしにしていたものだった。揺木くんほどではないが、平均より少し長い僕の髪はラーメンを食べる時に邪魔になる。
「どこの女の子からぶんどってきたんですか、これ」
「さあ、忘れた」
「最低」
 そう言いながらも、揺木くんは似合わない派手なヘアゴムで髪の毛を結んだ。

 部屋が暑い。暑いというより、熱い。頭が働かなくなって、本能に身を任せて動く。自分の体の下で、細くて柔らかい体がしなる。甲高い声が響いて、細い足が腰に絡みつく。
「あっ、あ」
 ふうふうと吐く息が熱い。絡みつく白い肉体が熱い。頭の中が熱い。
「あああっ」
 全身でしがみつくように抱きつかれる。正直動きづらいから引き剥がしたいところだが、好きにさせる。すると白い体がびくついて、それが気持ち良くて、ラストスパートに拍車を掛ける。
「ぐっ、」
 小さくうなり声を上げて、薄いスキンに欲を出す。

「はあ……」
 体は正直なもので、出すもの出したら冷静になってきた。腕に絡みついてくる女が鬱陶しいけれど、好きにさせる。こんなことで揉めるのは面倒臭い。
「ねえ、大学行かなくていいの?」
「あー、……」
「昼間っからお姉さんとセックスばっかりして、陣くんは悪い子だよねぇ」
 はいはい、と適当に相槌を打つ。煙草が吸いたいけれど、生憎手持ちがなかった。手持ち無沙汰をなんとかしたくて、手近な彼女の唇に吸い付く。
「もう、甘えん坊さん」
 砂糖を煮詰めたみたいな甘ったるい声を、甘やかされたいのだと解釈し、女の髪を梳く。女ってこういうスキンシップ好きだよな、と頭の中ではそれをバカにしているけれど、そんな素振りは見せないようにする。
「ねえ、煙草吸いたい」
「お小遣いあげるから、後で買いにいっておいで」
 ラッキーと、心の中でガッツポーズをする。この人は羽振りが良いから好きだ。
「ついでに、ゴムも買っておいて? 今日で使い切っちゃったから」
「わかった」
 もう一度キスをして、女は起き上がる。
「お風呂入ってくるね」
 バスルームに行く前に、俺に一万円札を渡してくれるところが、最高に良い女だと思った。
 彼女と付き合い始めたのは、僕が揺木くんと出会った後だったように感じる。最近してしまった一目惚れのお陰で、彼女の相手をするのが少し面倒臭い時もあるけれど、彼女といるとセックスをさせてくれるし、ご飯を食べさせてくれるし、お小遣いもくれるから損得で言うと得である。経済面ではズブズブに依存している。お陰で未だにズルズルとお付合いは継続している。
 丁寧に染められた髪や、品の良い香水、隙のない化粧、どこをとっても良い女であることは確かである。社会人であるから大学生の僕よりよっぽど収入も安定しているし。
『陣くんが卒業したらさ、私も苗字を葉神にしたいな』
と言われた時には、正直背中に汗が流れたけれど。その時は適当に返事したが、出会って半年経っていない大学生相手に結婚迫るとか正気じゃないと思う。そろそろ束縛が激しくなるのだろうと推測する。指輪だけはプレゼントしてはいけないと切に誓う。それがどんな安物だったとしても、だ。
 ベッドの上でゴロゴロするのにも飽きたので、手近なタオルを適当にシンクの水で濡らしたもので体を拭く。彼女の風呂は長いから、待っている間に色々な液体が乾いてもの凄いことになるのは経験済みだ。
 粗方綺麗になった体に、ベッドへ雪崩れ込む前と同じ服を着て部屋の鍵と、スマートフォンと、先ほど貰ったばかりの一万円札をポケットにねじ込んで部屋を出る。徒歩五分のコンビニに行って帰ってくるまでに彼女は風呂を上がっているのか、一種のタイムアタックであった。

「あれ、揺木くんじゃん」
「葉神先輩。お疲れ様です」
 適当に飲み物を物色してレジへ向かう途中、見覚えのある黒縁眼鏡に出会った。今日も今日とてぶかぶかのパーカーに地味なスキニーという出で立ちだ。いつもと違うのは、僕があげた派手なヘアゴムで髪を束ねていることくらい。
「今日は休講ですか?」
「ううん、さっきまで彼女とセックスしてた」
「……」
 汚いものを見る目で見られ、納得いかないと抗議する。
「ちゃんと体拭いてから来てるって」
「そういう問題じゃないです」
 ちらちと僕の持つペットボトルを見て、「一人分なんですか?」と悪気無く聞かれる。
「彼女さん、お部屋で待ってられるんじゃないんですか?」
「あー……」
 頭を掻き、そのままレジへと向かう。ペットボトル飲料をカウンターに置き、いつも吸っている煙草の銘柄と、チキンを一つ一緒に購入した。一万円で充分お釣りがくる買い物だった。
「……先輩?」
 レジのところまで僕を追いかけてきた後輩に、コンビニのシールが張ってあるペットボトルを差し出す。普通のお茶だから、嫌がられることはないだろう。
「あげる」
 それを受け取った揺木くんは、擽ったそうに頬を緩めた。
「さっきまでチンコ触ってた手で持った飲み物人にあげるとか、神経疑いますね」
「ちゃんと洗ったって」
「チンコのほうは否定しないんじゃないですか」
 それでも、律儀に礼を言う後輩は可愛い。そうして、素直に懐いていると僕みたいに単純な先輩は可愛がってしまうのだ。後輩はこうあるべきである。
「ちょっと、乱、どこ行ったのかと思った」
 突然やってきた手に、後ろから突き飛ばすようにして僕と揺木くんを引き葉がされ、蹈鞴を踏む。犯人の男に心当たりがあり、面倒くさいことになったと理解する。
「……ちょっと場所移動しただけじゃん。コンビニ内で迷子になるとか普通ない」
「でも」
「トイレ終わった? 買うものないならもう行こう」
 揺木くんを守るように僕の前に立ちはだかる男は、キャンパス内でよく見る顔の一つだった。確か、揺木くんの幼馴染みだかなんかだった気がする。一年生にイケメンが入ってきたと一部で話題になっていたことと、色っぽい女受けする顔立ちと体をしているうえに、人当たりの良い性格をしている。世渡りの上手いタイプ。あと、揺木くんにべったり。僕の彼に対する評価は概ねそんなところだった。
「……それ、どうしたの?」
 僕が揺木くんにあげたペットボトルのお茶が気に入らないようで、彼のテンションは降下し続けている。揺木くんは慣れているのか、適当に流している。
「俺も何か買うから、乱、ちょっと待って」
「わかった」
 今にも揺木くんを連れてどこかに行ってしまいそうだった彼は、意外にも冷蔵庫の方へと向かっていった。
「じゃあ、僕はもう行くから。彼によろしくね」
「え、どういう神経でよろしく言ってるんですか……。なんか知らないけれど、二人仲悪いですよね」
 そうは言いつつも、揺木くんは律儀にお茶のお礼と頭を下げ、彼を追いかけていった。
「……」
 コンビニに背を向け、自分の部屋へと帰る。今回も、彼の名前を思い出せなかった。
「そもそもあの子、僕に名乗ってたっけ?」
 袋の中から、少し冷えたチキンを取りだして囓る。彼女のご機嫌取りのつもりだったけれど、熱々じゃなかったら意味がなかった。それもこれも、あの子が突っかかってくるからだ。皆、揺木くんみたいに可愛い後輩だったらいいのに。もしくは、甘やかしてくれる女の子。

 夏休みまで秒読みだった。揺木くんのお陰で無事単位も取得できたし、夏期集中講座なんていうのは面倒臭くて何一つ取る気のない僕には、大学生の夏休みはあまりに長くて暇なものだ。することと言えば、彼女に媚びてお小遣いを貰って遊び歩くか、彼女とセックスするか、知り合いの店を転々としながらお小遣い稼ぎのアルバイトに勤しむか。
「ほんと、生産性のない人間だよね、僕って」
「どの口で言ってるんですか……」
 思いの丈をぶつけると、可愛くない後輩は哀みを込めた視線を向けてくる。僕の長い暇の潰し方の最後の一つは、この可愛がっている後輩を連れ歩くことだった。和菓子が好きだと言う後輩のために、今日は抹茶のパフェが有名だというお店に来ていた。男二人では目立つとか言って嫌がっていた揺木くんも、パフェを一口食べた頃には子猫ちゃんみたいに従順になっていた。
「せっかくだし、夏休みにイメチェンしたら? 髪の毛切るとか、コンタクトにするとか」
「コンタクトは怖いんで嫌ですね。目の中に物入れるとか狂気の沙汰でしょう」
「髪の毛は?」
「いいんですよ、これで」
 最近の揺木くんは、僕のあげたヘアゴムで髪を束ねているから、前ほど陰キャっぽさはない。そっちのほうがいいと素直に褒めると、気持ち悪いとそっぽを向かれる。
「服は?」
「楽さ重視ですね。そもそも、俺は先輩と違って見た目に気を遣わないと生きていけない人間じゃないですし」
「僕も別に何もしていないよ。周りが勝手に色々やってくれる」
 今の彼女は美容師だから、髪の毛だって勝手に切ってくれている。服だって殆どもらい物だ。
「靴だけはこだわりがあるから自分で買ってるけど」
「……どうせ、女の人から貰ったお金でしょう」
「失礼な。僕だって偶にはアルバイトしてるよ。知り合いのお店でだけど」 
「そうだったんですか」
 あまりにびっくりした顔をする揺木くんが面白くて、声を上げて笑う。
「キミ、僕のことをどれだけダメな人間だと思ってるの」
「いや、だって、普段俺にこうして奢ってくれているお金の出所も女の人でしょ?」
「わかってて奢らせてる揺木くんも、中々に魔性の後輩だよねぇ」
 揺木くんといると飽きない。彼女といるよりずっと楽だし、いっそのこと揺木くんが女の子だったら良かったのに。
「ねえ、夏休み何かして遊ぼうよ」
「何かって何ですか。どうせ、気まぐれに呼び出して話し相手にするんでしょう」
「ダメ?」
「暇な時なら相手しますよ」
 こうして、程よく僕を甘やかしてくれる揺木くんくらいが丁度いいのかもしれない。その日は二人でお喋りして、その後別れた。あの子と一緒にいると、自分がほんの少しだけマシな人間に感じられる。
「あ゛―」
 歩きながら、煙草に火を付ける。あの子がいれば、きっと「歩き煙草はダメですよ」と注意してくることだろう。煙を吸って、吐く。
「美味いなあ……」

 その日、彼女と別れた。揺木くんとのお茶会が終わった後、その足で向かった適当な居酒屋で意気投合した女の子を部屋に連れていったら、合鍵で部屋の中まで入っていた彼女と鉢合わせた。カンカンに怒った彼女はヒステリックに叫び、近所の人に警察を呼ばれる始末だった。
 居酒屋で出会い、僕の飲み代まで払ってくれた女の子は早々と逃げていってしまっており、結果として僕一人が彼女からも警察からも怒られるということになってしまった。散々だ。
 ベッドに寝転がって、暇つぶしにスマホを弄る。部屋はじんわりと汗を掻くくらいに暑かったけれど、今の僕にはエアコン代を払う甲斐性がないからそれは贅沢な選択だった。
「……なんか、テンション上がる投稿ないのか」
 タイムラインに流れてくる情報を流し見て行く。
「ん、」
 最初はそんなつもりもなかったのに、段々性欲が高まってくる。どうせならエッチな女の子で抜きたい。適当なものはないかと下半身を持て余しながら、良さげなアカウントを探していく。世の中には自己顕示欲を満たしたいバカな女の子がいっぱいいるお陰で、こうしてオカズには困らなくて良い。本物の女の子にしてもらうのが一番いいけれど。
 いくつかのアカウントを梯子していくうちに、一つのハッシュタグが目に付いた。
「おとこの、むすめ?」
 そこには、女の子と見紛うくらいに可愛らしい男の子の自撮りが並んでいた。これは面白いものを見つけたかもしれないと、体を起こす。男はストライクゾーン外だけれど、こうして見ている分には良いかもしれない。
「へえ……うわ、ちゃんと男だ」
 そうしていくつかの投稿を見て行く。世の中には意外と女装を趣味にしている男が多いのかもしれない。そういうアカウントは意外と沢山出てきた。
「あー、……あぁ、うん、いいかも……」
 決定的なところさえ見なければ、胸の小さな女の子みたいで可愛らしい。右手を下半身へと伸ばす。こうして自分で慰めることはいつ以来だろう。ゆっくりと手で全体を覆い隠すようにして、上下に動かす。自分でするのは、自分の加減でできるから楽ではあった。
「暇だからオナるとか、高校生かよ……」
 そこまで言って、一人で笑う。下半身を弄っていないほうの手は、今も休み無くスマートフォンをスクロールし続けている。
「ふ、……あれ」
 目に留まったのは、あるアカウントだった。アイコンのその子は、あからさまにウィッグの白髪。目には青いカラーコンタクトを付けている。写真だけで、射貫かれたような気持ちになる。その感覚には、覚えがあった。
「……あの時の」
 それは、一目惚れのあの子が男であることの証拠でもあった。僕の一目惚れは、夏を越すことなく死んでいった。

「揺木くん、慰めて……」
『あの、今出先なんでそういう生々しい話止めてもらえません?』
「だってさぁ」
『いや、マジで……あの、俺呼ばれてるんで、もう切りますよ』
 癒やしを求めて掛けた後輩への電話は、通話時間一分足らずで切られてしまった。
「人の心がない……」
 一目惚れ泥棒のSNSアカウントを改めて見ていると、上手く自分の体を生かして色っぽい写真を撮っていることがわかる。その上、顔がはっきりとわからない程度に隠すことも上手い。それでも、確かにあの子がこのSNSアカウントの持ち主であると僕の直感が告げている。
「まあ、そういうこともあるかぁ」
 立ち直りの早さには自信がある。こうなると性欲もどこかに飛んでいってしまっている。本格的に暇になってしまった。
「……」
 そういえば、揺木くんは呼ばれたとかなんとか言っていたけれど、アルバイトなのだろうか。そもそも図書館では携帯電話は使えないけれど、休み時間だったと考えるのならあり得る。暇を持て余している僕は、迷いなく行き先を図書館に決定した。いなかったらいなかったで考えればいいだろう。
 そうして出かけた先も空振りで、僕は前の彼女から最後に貰ったお小遣いを手に、居酒屋に来ていた。そろそろどこかでアルバイトでも始めないと、夏を越せないという事実からは目を背けた。
「腹立つ」
 今日は散々だ。居酒屋だって周囲にいるのは臭そうなオッサンばかりだし、店員も汗臭い男ばかりだし、さっさと帰るべきだろうか。ちびちびと甘い酒を飲みながら、これからどうしようかと悩む。
「あいつら全員死ねばいいのに」
 自分の酒代を自腹で払うほど惨めなものはない。財布を片手に席を立った。

 最近、やることなすことが上手くいっていないような気がする。学校に行く気も起きないし、彼女を作る気にもなれない。暇で、ストレスの発散方法がない。試しにそこら辺にいる女の子に声を掛けてみたら失敗して、柄にもなく凹んだ。
 そして、時間だけは有り余るほどあるからと考えた。自室のベッドに寝転がったまま、原因を探った。こんなに物事を考えたのはいつぶりだろうかと思うくらいに。何回か後輩からスマートフォンへ連絡が来ていたが、ウザくて無視をしていたら、いつの間にかそれもなくなった。
「あいつのせいじゃん」
 僕が思い至ったのは、一人の男。女の子と見紛うほど可愛らしい容姿をしているのに、どう足掻いても男の体を持って、男として生きているらしいあの子。チンコ付いてる時点で普通にキモいし、萎える。一瞬でもあいつに心奪われてしまったから、だから僕自信のバランスが取れなくて色々と失敗してしまうのだ。きっとそうだ。僕はそう結論付けた。
 そこからの行動は早かった。スマートフォンを手にして、あいつが使っていたものと同じSNSを開く。そして、新しいアカウントを取得する。
「あー……そうえいば、あいつのアカウントってどれだっけ」
 髪を引っ張ってみる。爪で頭皮を引っ掻くが、全然思い出せない。適当にいくつかの単語を合わせて検索して、やっとのことであいつを見つけだす。ハンドルネームは「YUKI」。巫山戯いると思った。バカにされているようにすら感じる。ロマンチックにも雪女みたいに美しいと思った相手が、自分でそう名乗っているとか、バカみたいだ。
「……」
 少し迷った後、フォローをした。こいつ一人だけフォローするのは不自然かと躊躇したが、どうでも良かった。失敗したらまた別のアカウントを取得してやり直せばいいのだ。そうして、僕はそいつにメッセージを送った。
『はじめまして。あなたに一目惚れをしました。お会いできませんか?』
 後は返事が来るのを期待するだけだった。こんなのに反応するようなバカだったら、指を差して笑ってやろう。
「絶対痛い目見せる」
 こいつを痛めつけるくらいしか、今の僕のフラストレーションを発散させる方法はないようにすら感じた。こんな細っこい男一人くらい、簡単にねじ伏せられるだろう。泣きながら、僕に謝るこいつを想像すると、少しだけ気分が良かった。

 女装野郎に連絡を取るのは、案外簡単だった。メッセージはわりかし直ぐに返ってきたうえに、相手も満更ではない様子だった。ホモなのかもしれない。知らないけれど。
「それにしても、以外と身近にいるもんだな」
 女装野郎の住んでいる地域はうちから比較的近い場所にあった。想像よりちょろかった。男同士だからと気を抜いているのか、何なのか。女装なんてするやつの考えていることはわからない。
「先輩、お疲れ様です」
 ぼんやりとスマートフォンを眺めているところに声を掛けられたから、驚いて肩をびくつかせる。声の主を責めるように見ると、何のことやらと首を傾げられる。キャンパス内に無造作に置かれているベンチの一つに、偶々僕を見つけるなんてこの子はどれほど僕を慕っているのだろう。
「どうしたんですか、ぼーっとして」
「いや、別に」
 そう返すと、そうですかという素っ気ないレスポンス。揺木くんの、無遠慮に踏み込んでこないところが心地よい。心地よいから、僕も揺木くんに踏み込むことは永遠にないのだろう。
「一目ぼれの君とでも再会したんですか?」
「なんでそう思うの?」
「先輩がぼんやりしてるの、珍しいと思ったから」
 大学内では特に、と続けられる。揺木くんの手にはコンビニの百円コーヒーが握られていた。隣良いですか? と尋ねられ、どうぞと頷く。彼がベンチに座るのを待たずに話を続けた。
「そう? 僕結構ぼんやり毎日過ごしてるけど?」
「そんな可愛らしいもんじゃないでしょう」
 そういう揺木くんは、鬱陶しそうに髪を耳にかけた。
「あれ? 今日は髪下してんだ」
「……あんたに貰ったヘアゴム使ってると、煩いやつがいるんで」
 そういう揺木くんの表情は穏やかだった。いつの日だったか、僕をこんな表情で見ていた女がいたような気がする。結局別れてしまい、彼女が今どこで何をしているかは分からないけれど、羽振りの悪い女だったことだけは覚えていた。
「あー、なんだっけ? あの幼馴染みの子?」
「藤です。御手洗藤。先輩って人の名前覚えないですよね」
「そんなことないよ。御手洗くんね、御手洗くん」
 そんな名前だったような気もする。
「あいつ、僕に名乗ったことないでしょ」
 揺木くんは興味があるのか、ないのか。コーヒーのカップに口を付けた。
「揺木くん、もう授業ないでしょ。なんで大学来てるの?」
「バイトです。先輩は?」
「家暑いから」
 揺木くん相手だし、となんでもないように話を続ける。
「ねえ、揺木くん」
「なんです?」
「知らない男に突然告られるのて、どんな気分なんだろうね」
「……」
 男に、告られたんですか? そう尋ねる揺木くんの声色はいつもと変わらない。
「いや、そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、告るんですか?」
「まさか。キモいでしょ」
 同意が返ってくるかと思ったが、揺木くんは「うん」とも「ううん」とも着かない声を出し、コーヒーを傾けていた。
「そりゃ、揺木くんからしたら、他人のケツの穴なんてどうでもいいんだろうけどさ……」
「そうじゃなくて、」
 揺木くんはそこで言葉を切って、少し考えてから、続きの言葉を捻りだした。そのとき、ちらりと見えた手首に、僕のあげたヘアゴムが付けられていた。白黒で纏められている揺木くんの手首だけがカラフルで、この子らしくないけれど、それをプレゼントしたのが自分だと思うと気分が良かった。
「俺は、自分の知り合いがゲイだったとしても、俺がそいつと仲良くすることはそれと関係無いって思います」
「それって、自分の話?」
「違います」
「……揺木くんは良い子だねー」
 揺木くんが立ち上がった。
「休憩時間、そろそろ終わるんで……」
 そのまま、振り返ることなく去っていく。揺木くんは良い子だ。良い子過ぎて、嫌になるくらいに。

 YUKIと会う日は割と直ぐにやってきた。特に何も意識せず「会おう」とメッセージを送ると、「いいですよ」とだけ返ってきた。相手が一方的に指定してきた待ち合わせ場所は、うちからほど近かった。
 当日、言われた場所に行くと、そこには確かにYUKIらしき人が立っていた。憎たらしいほど女性らしく淑やかな様子だが、あれの中身が男だということも、女装した自撮りをSNSにアップして喜ぶ変態だってことも僕は知っていた。
 今日のYUKIは、僕が一目惚れをした時のように青いカラーコンタクトを付けて、肩に付くほどの黒い髪を下ろしていた。最初に見た時も黒髪だったから、派手な色のウィッグはSNSだけなのかもしれない。膝丈のスカートも、明るい色のブラウスも、男とデートをする予定の少女のようで、僕は唇を噛み締めた。どんなつもりなのだろう、あれは。
 僕がYUKIの元に歩みを進めると、YUKIはこちらに気付き顔を上げた。
「先輩……」
 潤んだ瞳と、人工的に潤ませた唇。本物の女性であったら庇護欲を煽るものなのかもしれない、けれど。
「は、」
 息を吐いた。声が出ない。
 そこにいたのは、YUKIとして僕と待ち合わせをしていた男は、僕のよく知る少年だった。
「葉神先輩……」
 僕の名前をそんな風に呼ぶのは、この世で一人しかいない。信じたくなくて、足下から順番に見て行くと、手首にしっかりと僕があげたものと同じヘアゴムを付けている。
「さいっあく……」
 頭を抱えた。憂さ晴らしに一発殴ってやろうと思っていたのに、揺木くんがくるとは。そして、どうして今まで気づけなかったのかと久しぶりに自分を責めた。確かに、こうして実物を見るときちんと揺木くんだ。きちんと、男だった。
「……揺木くんだったの」
「逆に、先輩はわかっていて声を掛けてきたのかと思っていました」
 揺木くんは驚くほどいつも通りであった。普段と何一つ変わらない表情で、普段と同じ口調、声。かろうじて仕草だけが女として不自然ではない最低ラインを保っている。
「……わかんなかった」
 そう言うと、憎たらしくも揺木くんは嬉しそうに微笑んで、右手首に付けたヘアゴムを、左手で触れた。
「そうですか。あの、俺」
「……本当、最悪」
 もう一度繰り返すと、揺木くんの動きが止まった。こうして間近で見ると、でかいし、女の子にある柔らかさというものもないし、どうしてこれに好意を持ったのかもわからない。
「帰る」
「ちょっと、先輩……」
焦ったように腕を掴んでくる揺木くんが忌々しくて、苛立ちに任せて腕を振り払った。その勢いで、揺木くんが足をもつれさせて、転ぶ。周囲の人の視線がこちらに向いてきていることに気付いていたが、そんなの関係なかった。
「……先輩」
僕に手を伸ばそうとする揺木くんの、その弱々しい姿に吐き気さえ感じて、この子の強い眼差しはどこに消えてしまったのかと、まるで揺木くんの皮を被った別人を対峙しているようにすら感じて、僕は逃げ出すようにその場を離れた。

揺木くんの女装アカウントは、他のそれらよりよっぽど健全なものだった。可愛いフリルやリボンに囲まれて、天使のように微笑んでいる写真が殆どだ。それも顔がちゃんと写っていなかったり、写っていても加工のし過ぎで本人かどうかがわからなくなっている。露出も少なく、エロ目的の男に纏わり付かれても上手く躱すなり、無視するなりしていた。
スマートフォンを投げ捨て、ソファに寝そべった。「寝るなよ」という注意をされたような気もするけれど、どうでもいい。
僕は揺木くんを別れた後、その足で知り合いの経営しているバーにやってきていた。隠れ家的バーと言ったら聞こえはいいけれど、客なんて殆ど来ない、狭くて小汚いただの飲み屋だった。カウンターに四席と、ソファ席が一つ。客がこないのを良いことに、僕はその唯一のソファ席を占領した。
「おーい、客来たらどけろよ? ただでさえ少ない客が寄り付かなくなる」
マスターの男が僕の前に水を置いた。酒は一滴も出さないつもりらしい。
「酒は」
「お前、今日金持ってないだろ」
「そうだけど……」
仕方がないから、起き上がって水に口をつける。薄くレモンの香りがした。
「……」
マスターの男とは、僕が高校生の時からの付き合いだった。この、人の良さそうな、少し年上の男が僕を見限らないのは何故なのだろうと不思議になる。既に色々と諦められてはいるのかもしれないけれど。
 ふて腐れてもう一度店の硬いソファに寝転がった瞬間、出入り口に付けられたベルが鳴り、人が入ってきた。男の二人組のようだった。
「ほら、陣、人来たからどけって」
 客に愛想良く言葉を掛けた後に、小声で僕の名前を呼ぶマスターに反応したのは、まさかの入ってきた客の男だった。
「陣……?」
「は?」
 革靴の踵が床を蹴る。その音が思いのほか大きく響く。
「……やっぱあんたか」
「……あー、」
 不躾にも僕の顔を覗き込んできたのは、顔見知りの男だった。揺木くんと行動を共にしていることの多いやつ。僕を何故か目の敵にしている一個下の可愛くない後輩。
「なんであんたがこんなところにまでいんの? あんたの顔見ただけで酒が不味くなるんだけど」
「じゃあ飲まなかったら?」
「ちょっと、陣」
 剣呑な空気に、マスターが恐る恐る言葉を挟む。酒を出す店をやっているのだから、客同士のいざこざくらい慣れておけばいいものを。そんなに恐る恐る声を掛けるくらいしかできないなんて、どうしようもない男だとつくづく思う。
 大きく息を吐いて、体を起こした。相手はそれに会わせるように一歩引く。丁寧なやつだ。そんなに僕が嫌いなら、頭を押さえ付けるなり、寝転がっている状態で暴力を振るったりすれば良いものの。そうできないくらいには、良い子ちゃんなのだろう。
「面白みのないやつだよね」
「……あんたに言われたくない」
「あはは」
 面白くもないのに笑ってみる。分かりやすく嫌悪感と苛立ちを表わすこの可愛くない後輩を前にすると、自分の苛立ちが少しは緩和されるのではないかと期待したい。どうせ無理だろうけれど、期待するくらいならタダだから。
「……あんた、乱と一緒じゃないの」
「……どうして?」
「……」
 後輩は僕から目を反らす。僕は態とらしく首を傾げたまま、それを見つめた。
「全部知ってるってこと?」
 いつまで経っても僕を睨み付けたまま動かない連れに豪を煮やしたのか、後輩と共に店へと入ってきた男がいなくなっていた。
「お友達、帰っちゃったみたいだよ? いいの」
「……」
 名前も知らない後輩に睨み付けられるのも飽きてきた。全てが面白くない。つまらない。苛立ちだけが満ちている。無気力でいるしか身を守る方法を知らない。最低な世界。
「いいんだよ、友達とかじゃないし」
「そこらで引っかけてきたの? ホモじゃん、きも」
「うるっせえ!」
 未だソファに座り込んだままの僕の、胸ぐらを思いっきり掴んで無理矢理に立ち上がらせた後輩は。あまりに酷い顔をしていた。
「酷い顔」
 ぐしゃぐしゃで、真っ赤で、あまりにも滑稽だ。
「直ぐに感情的になれていいね。毎日楽しいでしょ?」
 今にも後輩に殴り飛ばされそうになった瞬間、僕たちを引き離したのは先ほどまで空気だったマスターだった。
「はいはいはい、いいから離れて。喧嘩なら店の外でやって」
 やはり良い子ちゃんだからか、後輩は傷ついた表情を浮かべ、ゆっくりと手を離した。そうして、マスターに頭を下げて謝罪をした。こんなに丁寧な良い子なのに、僕の何がそんなに気にくわないのか、いつもわからない。わからないし、感情的で気持ち悪いから、できるだけこの子に関わりたくない。
 服の胸元を整え、ソファに座り直す。今度はマスターに睨み付けられているような気もするが、全部知らない。面倒くさい。
「……あんた、乱の何なんだよ」
「先輩だけど」
「知ってる。けど、あんたがっ……」
 小さなバーに立ちすくんだまま、彼は俯く。ソファに座ったままの僕からは、その歪んだ表情が全て丸見えなのに、そんなことはお構いなしに自分の世界に入り込んでいる。僕は無事だったレモン水に口を付けた。先ほどより美味しく感じる。
「あんたが、乱のことああしたんだろ」
「は?」
「今日、乱はあんたと会うって言って出かけていった。すごく、楽しそうに。なのになんであんたはこんな時間にここにいるんだよ、乱はどうしたんだよ」
 酒なんて一口も飲んでいないのに、二日酔いになったみたいに気持ち悪い。とんだ悲劇のヒロインだった。友達のために怒れる自分をかっこいいと思っているのだろうか。最低に気持ち悪いことに後輩本人が気付いていないことが何より滑稽だった。
「なんで名前すら知らない男に自分のプライベート語らないとなんないの」
 僕がそう返すと、後輩はさも傷つきましたといった風に顔を歪める。全てを諦めたマスターは、力なく後輩に椅子を勧めた。後輩は無難な酒を一杯頼んで、カウンター席へと腰を下ろした。
「御手洗藤」
「は?」
「俺の名前」
「始めて聞いた」
「そうだっけ」
 本人からは。その言葉を飲み込んだ。実際、この子が僕に名乗ったのは初めてのことだった。この可愛げのない後輩は、名前を名乗ったことで落ち着いたのか、出された酒に手を付けた。その動きは学内の女子たちが騒ぐのが分かる程度には、洗練されていた。
「いいの、さっきの男」
「……マジで適当に声掛けられて一緒に飲むことになっただけだから」
 そう、とだけ返す。男相手に媚びを売る予定はないし、そうしても良いことなんて何もないことを知っている。
「あんた、本当に乱に会ってないのかよ」
「……会ったよ」
「じゃあ、なんで」
「……」
 席を立った。これ以上ここにいても面倒くさいだけだ。こんな風に、青春みたいに男に人生相談するつもりはさらさらない。マスターは、災厄
の種がやっと帰ってくれるとでも言うように、嬉しそうに手を振っている。
 ドアを開けると、ベルが控えめに鳴った。外は肌寒くて、全部燃やしてしまいたいくらいの気持ちになった。

 数日後、何食わぬ顔で僕の前に現れた揺木くんを僕は無視して通り過ぎようとした。
「ちょっと、」
 家から一番近いコンビニのイートインスペースに揺木くんはいた。僕がくることを分かっていたような顔をしていたが、僕はわかる、これはストーカーをしてくる女の子と同じ顔だ。そして、何より困るのは揺木くんが女の子の格好をしていたことだった。
 今日も青いカラーコンタクトを付けて、真っ白のフリルが何重にも重なったロリータ服を身に纏っていた。その服は、SNSの自撮りで見たことがあるものだった。
 僕を呼び止めた揺木くんは、前回別れ際に見たような傷ついた雰囲気は微塵もなく、あの強気な光を宿した目をしていた。肩にかかった長い髪を振り払い、ヘッドドレスを軽く撫で付け、そして何気ない仕草のようにして僕の腕を掴む。まるで女の子が甘えて縋り付いてくるかのような甘さを滲ませて、男の力で逃がさないと主張される。コントのようにちぐはぐだ。
「離して、煙草買いにきただけだから」
「離しません。俺と話をしましょう、先輩」
 可愛らしい見た目をしていても、力も声も男のものだった。このふわふわの布の下にあるのも僕と同じ男の体だと思うと、今まで可愛いがっていた後輩が何か別の生き物になったように感じる。
狭いコンビニの中に逃げ場はなく、ずっとこうしているわけにもいかない。僕より後に入ってきた客が、もう買い物を済ませて出て行ってしまった。
「……いいよ、好きにして」
 僕が力を抜いた瞬間、揺木くんは、それはそれは嬉しそうに、可愛い笑顔を浮かべた。
 可愛い笑顔ついでにといった風に手を繋がれ、コンビニを出る。この子はこんなに図々しい子だっただろうかと首を傾げた。揺木くんは意外と早いスピードで僕を引っ張り歩く。そして、僕は始めて揺木くんの歩くスピードを知った。
 今まで何度も揺木くんと遊んだけれど、こうして二人で並んで歩いたことは一度たりもなかった。僕は、もしかしたらこの子のことを何も知らないのではないだろか。そう思い至った瞬間、ぞっとした。僕は、揺木くんの何なのだろう。僕はこれからどうされるのだろう。揺木くんの考えていることが何一つ分からない。そのことすら今まで知らなかった。
「あの、揺木くん」
「好きにして、って言ったのは先輩ですよね」
「だからって、どこ行くかくらいは教えてくれてもいいんじゃないの?」
「言ったらどうしてくれるんですか」
 揺木くんは歩くペースを落とさずに、僕の瞳を覗き込んだ。反射的に半歩退くが、繋がったままの手がそれを許さない。
「好きにして、って言ったでしょう」
 そうして引きずり込まれたホテルの部屋のベッドに、放り投げられた。部屋に入るまでに何度も腕を振り払おうとしたけれど、想像よりも随分強い力で阻まれた。この子はこんなに怖い子だっただろうか。僕の知っている揺木くんと、今目の前にいる揺木くんは違う人間なのではないだろうか。
「ちょっと、何するつもり」
「黙って」
 躊躇なく胸に足を乗っけられる。体重を掛けられ、起き上がれない。息が苦しい。
 揺木くんはその格好のまま自分の鞄を漁って何か作業を始めた。スマートフォンに自撮り棒を取り付けて、何やらごそごそしている。
「何……自撮り? 今ここで?」
 頭湧いてるんじゃない? と僕が続ける前に、揺木くんの作業が終わった。
「……先輩、かなりハッピーな脳みそしてますね」
 揺木くんは自撮り棒をベッドサイドにセットし、満足そうに微笑んだ。それは丁度僕を写すところに位置しており、嫌な予感に腕を振り回した。今すぐ帰りたい。一瞬でも諦めて「好きにして」なんて言った自分がバカだ。
「揺木くん!」
 揺木くんは僕の両肩を押さえつけ、ただじっとこちらを見つめている。二つの青がただこちらを見つめている状態に心臓がざわついた。新手の拷問を受けているような気分だ。
「……名前、もっと呼んでください」
 そう、甘く囁かれた瞬間、左頬に衝撃が走った。痛い、というより熱いと感じる。それくらいに全力で殴られた。揺木くんがそういうことをする子だと想像したことすらなかった僕は、自分に起こったことが理解できなくて、ぼんやりと揺木くんを見ていた。
「俺に暴力振るおうとしたら、もっと酷いことをします。あと、ここから勝手に逃げようとかしてもです。わかりましたか?」
 天使のように可愛らしいワンピースに身を包んで、悪魔のようなことを言う。僕はもしかしたら、とんでもない人と関わってしまったのではないだろうか。
「……うん」
 僕は、掠れた声で返事することしかできなかった。
 揺木くんは黙って下着を脱ぎ捨てる。頭の冷静なところが、「下着は男物なんだ」と細かいところばかり気になってしまう。
「……男に、挿れる趣味はないんだけれど」
「俺だって挿れられる趣味はないです」
 そう言って僕の体から揺木くんが退く。ロングヘアのウィッグが邪魔なようで、何度もそれを手櫛で直しながら、自分の服を整える。もしかしたら、何もないのかもしれない。お互い男だし、揺木くんも勢いでここまで来たけれど、何も考えていなかったのかもしれない。
「揺木く、」
「先輩、服脱いで。下半身だけでいいです」
 揺木くんが何かをベッドに投げ捨てる。軽い音を立ててシーツの上に落ちたのは、アメニティのゴムとローション。揺木くんは、ふりふりの服の袖を捲り上げた。その手首に、僕があげたヘアゴムがちきんと付けられていることが、無性に悲しかった。

「酷いことは、しないって言った……」
「酷いことはしませんよ。痛くないでしょう?」
 排泄穴に指を突っ込まれることなんて、一生ないだろうと思っていた。触りたがる女の子も偶にいたけれど、何が何でも嫌だと言って押し通していた。
「゛う……」
「気持ち悪いですか? それは良かったです」
 ベッドにうつ伏せに転がされ、ただケツ穴を弄られる。どうしてこうなったのか、延々と自問自答を繰り返す。かつての、揺木くんを殴ってやろうとすら思っていた自分はどこにいったのだろうか。
「先輩、先輩めちゃくちゃ処女じゃないですか。女遊びばっかりしてたんですもんね。こっちは知らないんですよね」
「だま、……れ」
 状況があまりに酷い。ベッドのシーツを握り締めて、唇を噛み締めた。早く終われ、早く揺木くんが俺に飽きますように、それだけを祈っていた。無事に家に帰れますようにとか、これからの揺木くんの関係性とか、そういうのはとりあえず置いておき、今が終わるのをただ願うしかなかった。
「先輩、何か余計なことをしたら、わかりますよね?」
 一つ一つの言葉を区切って、小さな子どもに言い聞かせるようにして揺木くんは僕に語りかける。
「ずっと撮ってますからね? 女の子みたいな格好をした俺にお尻弄られちゃってる先輩のこと」
「……っ」
 内臓を無理矢理指で押し広げられる感触が気持ち悪い。気持ち悪くて泣きそうになるけれど、ここで泣くことだけは避けたかった。女みたいに、レイプされたなんて言って泣きたくない。自分が良い人間だとは思えないけれど、幽かなプライドだけは残っていた。
「先輩、全然喋らないですよね。いつもはペラペラどうでもいいことばかり喋るのに」
 揺木くんは「もういいや」と呟くと、うつ伏せにしていた僕の体を仰向けにひっくり返した。正面から見た揺木くんの顔は、びっくりするほどいつも通りで、可愛らしいワンピースとあまりに不釣り合いだった。
 客観的に見れば充分可愛いのだろう。そこらの女の子よりも揺木くんのほうがよっぽど可愛い。可愛いけれど、だからと言って女の子の格好をする理由がわからなかった。
「……動かないでくださいね」
 足を持ち上げられる。これからされることに気がついて、血の気が引いた。
「ちょ、揺木く、揺木くん⁉」
「黙って」
 スカートに隠れて、何をされるか全然見えないけれど、感触はきちんとある。
「待って、そういうのする空気だった⁉ 僕らそういうのじゃないし、そもそも揺木くん、
どうして、男相手に」
 揺木くんは返事をしなかった。ただ、黙って陰茎を僕の中に押し込んでくる。
「゛う、」
 本来、排泄のためにある穴に、内臓にものを突っ込まれ、息が詰まる。痛みしかない。本来広げられるわけない箇所を、無理矢理に広げられるのだ、当たり前のことだった。全力で腕を突っ張って、逃れようと暴れるがあまり効果はなかった。
「や、め……」
 持ち上げられた足を、なんとか動かして揺木くんの背中を蹴る。けれど、動くとそれだけで痛みが増した。苦しくて、痛い。やはり、アダルトビデオなんてフィクションなのだと実感する。
「いたい、ゆらぎ、くん……」
 自分が女の子にするように揺さぶられる。けれど、女の子にこんな苦痛を与えたことは一度もない。ないと信じている。体を重ねることは本来、こんなに苦しいものなのだろうか。
「゛う、うぅ、゛あ」
 生理的に滲み出てくる涙で歪んだ視界で、揺木が顔を顰めたのが見えた。嫌そうな、苦しそうな顔をしている。揺木くんの目が揺らいで見えた。
「せんぱい……」
 ずっと僕の足を掴んでいた手が、僕の首へと伸びる。
「先輩」
 手が絡み、力が込められる。最初は痛みも苦しさもないのに、徐々に痛みと苦しさが襲いかかる。息が出来ないことより、気道が狭まった時の、喉の違和感が苦しかった。酸素が足りないと感じるのはその後で、痛みと苦しさでぼんやりとしてきたくらいの時に、揺木くんが何かを言ったような気もしたが、それを聞き取ろうとする前に僕は意識をなくした。

 ラブホで一人、目が覚める。こんなに虚しいことはないだろう。
「……」
 女の子みたに、レイプされたと騒ぐつもりはないけれど、無体を働いた先輩をホテルに置き去りにするのは如何なものなのだろか。
 寝起きの僕が最初にしたことは、揺木くんの連絡先を全てブロックすることだった。もう二度と会うことはないだろうし、もう二度とこんなことはごめんだった。テーブルに置いてあるホテルの部屋代が嫌に生々しくて、本当に嫌だった。
 動揺する心に気付かないふりをして、夏休みだし、揺木くんに会うこともないだろうと自分を納得させる。一体何を納得しているのかもわからないけれど、そうするしかなかった。そして、僕の思惑通り揺木くんに会うことも、ブロックしているから当たり前だけれど連絡もなかった。僕は、適当に遊んでくれる女の子を探す気にもなれず、財布になってくる人を探す気力も起きず、夏休みの殆どの期間を部屋に引き籠もって過ごした。
 そんな状態だから、他人と話すことも殆どなかった僕が、久しぶりに会話をしたのは、忌々しくも可愛くない後輩の一人だった。
「ほんと、このコンビニ、会いたくない人にばかり会うよね。さっさと潰れたらいいのに」
「一番利用してるアンタが言うのかよ……」
 呆れた表情を浮かべ、不躾にも僕の全身を舐め回すように見つめる御手洗くんは、これからデートにでも行くかもような気合いの入った格好をしていた。コンビニに行く程度でそんなに気合いを入れないとならないなんて、人気者は大変だ。
「いくら大学から近いって言っても、夏休みにまで知り合いに会うとか最悪じゃない?」
「俺だって好きでアンタに会ったわけじゃねぇし」
 御手洗くんを見ると、嫌でも揺木くんのことを思い出してしまい、気分が悪かった。刺々しい態度を取ってしまうのも仕方の無いことだったし、本当なら八つ当たりでもなんでもして、この生意気な後輩を痛めつけたかった。
「そういえばアンタ、最近乱に会いました?」
「……いや?」
「あんなにしょっちゅう乱を連れ出して、好き勝手に相手させてた癖に」
 僕の態度とは反対に、揺木くんといない時の御手洗くんは少し穏やかな気がした。この子は、僕と揺木くんが一緒にいるのがどうしても不愉快なようだ。
「……ねえ、御手洗くんは、揺木くんと付き合ってるの?」
「はあ⁉」
「……ちょっと、店内で大声出さないで」
 可愛くない後輩の腕を引いて、コンビニを出る。外は暑いけれど、店内で騒がれるよりマシだった。本来の目的であった昼食はまだ買えていないけれど、一食ぐらい抜いても大丈夫だろう。それに帰ったら前回纏めて買って置いた缶チューハイがいくつか残っていた。
「……付き合えてたら、苦労しないだろ」
 蝉が鳴いていた。一週間しか地上に居られない癖に、そんなに頑張ってどうするのだろう。子孫を残すことの何をそんなに魅力に感じているのだろうか。一人を選ぶことも、選ばれることもただ煩わしいだけだろうに。
「御手洗くんってホモだったんだ」
「その言い方なんか嫌なんだけど」
「どうでもいい」
 御手洗くんは生意気にも、先輩に断りもなくコンビニで購入したアイスを食べ始めた。そんなもの、溶かして捨ててしまえばいいのに。
「だからアンタ嫌いなんだよ。無神経だし、」
「何?『ボクの好きな人取らないで!』って? 小学生?」
「うっるせぇな」
 図星だったのか、鳩尾に衝撃を受けてから殴られたことに気付く。今更だけれど、僕は喧嘩に向いていないかもしれない。いくら女装をしているとはいえ、男を殴ろうとか考えるのはバカだった。見事返り討ちにされたし。
 そもそも、あれは返り討ちだったのだろうか。僕はあれから何週間か経った今でもまだ、その意味を考えることを放棄していた。
「いった……」
「……」
「……ふふ」
 思わず地面に座り込む。アスファルトが熱かった。見上げた御手洗くんは、わかりやすく「やってしまった」という顔をしていて、少し面白かった。この生意気な後輩は、きちんと善悪の区別が付くし、罪悪感というものもある。
「どうして、お互いにあの子に執着しちゃったんだろうねぇ」
 御手洗くんは、僕と目を合わせようともしなかった。ただ、手に持つアイスだけが食べられることなく、溶けていく。先輩を前にして、食べるのだから、最後まで責任を持って食べてあげたらいいものを。
「ねえ、僕のこと殴ってもいいよ」
「……は」
「その代わり、お小遣い頂戴よ。今、お小遣いくれる女の子のキープ切れちゃったから」
 御手洗くんは、信じられないものを見るように目を見開いた。間抜けな顔なのに、なまじ顔が良いからいうほど間抜けに見えないのは嫌らしい。
「どうする?」
 御手洗くんは力ない声で僕の申し出を断った。
「意外と度胸ないんだね。だから揺木くんに告白の一つもできないんだ」
 それでも、御手洗くんは僕を殴らなかった。

 揺木くんのSNSは、承認欲求と求愛の化身とも言える内容だった。
『新しい服買ってみました。可愛い?』
『YUKIとデートなう、に使っていいよ』
『いいねくれた人にDM送る』
 こういう女、いっぱいいるよな。女々しい。そう思い、半ば無意識に軽蔑した。軽蔑てなお、あの揺木くんがこんなことするとは信じられないと思っている自分もいた。
 あの子は、もっと冷ややかで、自分というものをしっかりと持っていて、先輩である僕に媚びることもなく、言いたいことははっきりと言い、愛されなくても生きていけるような子だと思っていた。だから、大切にしていた。つもりだった。
 有り体に言えば、ショックだったのだろう。強い子だと思っていた後輩は、もしかしたらとてつもなく脆い子どもだったのかもしれない。よく考えたら、あの子はまだ未成年だった。学生で、子どもだ。
 狭いアパートの自室で、ベッドに寝転んだままつらつらと考えるのは揺木くんのことばかりだった。こんなこと、今まで一度たりとも無かったのに。あの子は、人を惹きつける魅力があるのかもしれない。引力のようなもの。そんなものを、あの瞳に宿らせているのかもしれない。
「こわい」
 あんな乱暴に抱かれて、抱かれるというか無体を強いられて、それで絆されるなんて、僕のプライドが許さなかった。僕自身が、今まで絆す側だったせいもあり、どうしたらいいのかわからない。
 不特定多数の人間に、劣情を向けられるのは、一体どういう気分なのだろうか。揺木くんはどうして、僕に触れたのだろうか。
 枕を顔を埋める。買った時はあんなに心地よかった枕も、今では眠りづらいものになっている。枕の寿命は二年という話を昔どこかで聞いたことがあった。僕と揺木くんの関係性の寿命は、枕よりも短いのかと思うと笑えた。
「……あ」
 脈絡もなく、ひとつのことを思い出した。
「あ⁉」
 そこら辺に放ってあったスマートフォンを鷲掴みにする。揺木くんの連絡先は全部消したつもりになっていたけれど、そうではなかった。一つだけ、残っていた。
「あった」
 揺木くんが《YUKI》名義でやっていたSNS、そして僕がYUKIと接触するためだけに作った捨てアカ。それだけが、忘れ去られて残っていた。
 急いで確認すると、ブロックされることもなく、そのアカウントは今でも《YUKI》と繋がっていた。そのまま《YUKI》の投稿を確認する。
「……っ」
 血の気が引いた。一番新しい投稿は、写真付きのものだった。そして、その写真の光景に僕は見覚えがあった。
 安っぽいホテルのベッド、白いシーツ、絡み合う二人の足。あの時の写真だった。
リベンジポルノ。そんな言葉が頭に浮かんだ。自分の足を見て、写真をもう一度見る。写真に文章は添付されていなかった。けれど、それがどういったことの写真かは、きっと誰もがわかることだろう。いくつかいいねが付いている。
 スマートフォンごとくたびれた枕を殴った。痛くもなんともなく、スマートフォンにも傷一つ付いていなかった。それが腹立たしく、今度はスマートフォンのみを壁に投げつけた。鈍い音がしたが、ベッド側の壁に投げたせいでスマートフォンは無事だった。ぐしゃぐしゃになって詰まれている掛け布団の上に落ちた端末は、きっと何一つ壊れていないだろう。
「……」
 枕を壁に投げつけて、代わりにスマートフォンを拾い上げる。とりあえず、揺木くんの投稿した写真にいいねを付けていたやつ全員と、コメントを付けていたやつも発見したのでそいつらも全員、何かしらの理由を付けて運営に違反報告をしておく。アカウント凍結でも食らえばいい。そして、揺木くんのアカウントも同じように違反報告をする。
「最悪……」
 ベッドに突っ伏すが、枕がない。最低の気分だった。そもそも、僕があの子のどこに一目惚れしたのだろうか。

 揺木くんと会わないで、女の子とも遊ばないで過ごす夏休みは信じられないほど長かった。揺木くんのせいで、性的なものから離れざるを得なかった。そういう気分になれない。ストレスが溜まりに溜まっている。
「……うわ、葉神」
「先輩、でしょう」
 ゼミ担当の講師にせっつかれて登校した学校で鉢合わせた後輩は、いつも通り生意気で可愛くない。揺木くんにならあんなににこにこと尻尾を振っているのに、とまで考えて、揺木くんの姿が見えないことに気付く。正直、会いたくない気持ちが大きいせいで、始めて御手洗くんが一人でいることに安心感を持った。
「今日は一人なんだね」
「いつでも乱といるわけじゃないんで」
「それもそうか。お付合いしているわけじゃないもんね」
「……」
 敵相手にするように睨まれる。廊下のど真ん中でそんな風に男二人、対峙しているのが面白くて、笑いが込み上げてくる。
「御手洗くんは、ホモなの?」
「……だから、その言い方嫌なんだけど」
 御手洗くんは顔を歪める。わかりやすい反応に、意外と可愛い子かもしれないとさえ思う。
「でも、揺木くんのことが好きなんでしょ。……男のどこがいいのだか」
「……男なら誰でもいいわけじゃない。乱だから、俺のことを俺として見てくれる、あいつだからいいんだよ」
「へえ」
 廊下の端に身を預ける。外は未だに暑いというのに、背中に当たる無機質な壁は冷たかった。
「葉神、センパイは贅沢なんだよ」
 聞いてもいないのに、御手洗くんは話を続ける。僕は、仕方がないから黙って話を聞く姿勢になってやる。次の授業は多分遅刻だが、これは僕のせいではない。迷惑な後輩に捕まってしまったせいだ。
「もっと、アンタは自分がどういう人間か知ったほうがいい」
「あっそ」
 背中の壁が温くなってきていた。壁に手を突いて、体を起こす。そこで丁度チャイムが鳴った。
「次、授業あるから」
 授業に出る気になれなくて、そのまま真っ直ぐ構内のカフェテリアに向かう。面倒臭いことを言う人に会わない場所であれば、どこでも良かった。欠伸をすると、滲んだ涙で視界がぶれた。

 あまり知り合いに会わなそうという理由で選んだカフェテリア。僕は相当運がないらしい。飲み物を買って、適当な席に座った途端これだ。
 片手にコーヒーを持ったまま、揺木くんはわかりやすく気まずいです、という顔をして、僕から視線を逸らした。
「珍しいね、今日はコーヒーなんだ」
「……はあ」
「普段、和菓子と日本茶ばっかりじゃない?」
「…………はあ」
「で、僕に謝ることあるでしょ」
「……」
 揺木くんを、空いている前の席に座るように促す。揺木くんは、戸惑いを隠せないままゆっくりとコーヒーをテーブルに置き、椅子へ腰を下ろした。
「スマホ」
「はい?」
「スマホ、渡して」
 揺木くんは、案外素直にポケットからスマートフォンを取り出し、僕へと手渡した。
「パスワード」
 テーブル越しに揺木くんが四桁のパスワードを打ち込んで、スマートフォンのロックを解除した。パスワードは見えなかった。
「生意気にもパスワード秘密にするんだ」
「普通そうでしょう」
「そういうのが生意気って言ってるんだけど」
 スマートフォンを勝手に操作し、SNSのアプリを開く。揺木くんはただ黙って僕の手元を見ていた。
 僕は、揺木くんのいくつか所持しているアカウントの中から《YUKI》名義のアカウントの、画像欄を漁る。そこには、沢山の揺木くんの女装写真と、一枚の僕と揺木くんの写真。
「一枚しかアップしてないよね?」
「はい」
 問答無用にその投稿を消す。ついでに確認しておくと、この投稿へいいねやコメントを残していた奴らのアカウントもいくつか運営に止められていた。スマートフォン本体の画像フォルダの方にある写真も全て消して、揺木くんに端末を返した。
「もういいよ」
「……聞かないんですか」
「揺木くんは聞かれたいの?」
 テーブルの上に置きっぱなしになっていた自分のコーヒーを一口飲み、顔を上げると、揺木くんは、いつもと変わらない目でこちらを見ていた。思わず手に持ったままであったカップを落としかける。
「大丈夫ですか?」
 揺木くんは、自分の分のコーヒーには一度も手を付けず、その両手は膝の上でスマートフォンを握り締めていた。そんなに大切なものなのだったら、簡単に人に触らせないほうがいいだろう。
「自分でもわかってますよ、自分がどれだけ最低なことをしたのかとか。聞かないんですか、どうしてあんなことしたとか」
「ここ外なんだけど」
「じゃあ、前みたいに一緒にホテル行ってくれるんですか」
 あまりに明け透けな物言いに眉を顰める。意識して乱暴にカップをテーブルへと置いた。できればそれで揺木くんが少しでも怯んで、ここからいなくなってくれたら良いのに、という願いを込めて。
「……葉神先輩」
 しかし、そんな願いも無意味だった。揺木くんはその鋼の精神で、椅子から一歩も立ち上がることもせず、ただ、じっとこちらを見つめていた。
「……」
 無言が続く。その間、何度も何度もコーヒーを少量ずつ口に運んだ。一気に飲み過ぎると、トイレが近くなるから嫌なのに。煙草を吸うとでも言って、出て行ってしまおうか。そんな算段を付けている時、揺木くんはその重たい口をやっと開いた。
「先輩、俺のセフレになってくれませんか?」
 まるでプロポーズをするかのように真剣な表情で、その両手にはスマートフォンを握り締めたまま、揺木くんは真っ直ぐそう言い放った。
「………………頭おかしいよね」
「そうですか?」
 やっとのこと絞り出した言葉も、軽く躱された。
「どうして僕は君のことを可愛いと思っていたんだろうね」
 揺木くんは女装写真の中の《YUKI》みたいに可愛らしく首を傾げた。
「今では可愛いと思ってくれてないんですか?」
「……自分を無理矢理抱いて、ホテルに置き去りにして、その時の写真をネットにアップして、よく可愛がってもらえると思ったね?」
「まあ、先輩も先輩で、碌でもない人なので……」
 揺木くんは先ほどまでの沈黙は何だったのかという勢いで、今まで通りに話し始めた。僕も、揺木くんの連絡先の殆どを消したはずなのに、もう二度と顔も見たくない、名前も見たくないとすら思っていたはずなのに、
「不思議だねぇ」
 揺木くんは、やっとコーヒーを飲み始めた。カップを見るにホットコーヒーらしいが、こんなに放置して酸味が出ないのだろか。それに、揺木くんはどちらかと言えば甘党な子だと思っていたから、コーヒーをブラックで飲むとは思わなかった。
「僕、一応好きになった子としかセックスしたことないんだけど?」
「……そうなんですか?」
「本気でびっくりしないで欲しいかな」
 苦笑を浮かべる。揺木くんは目を見開いたまま、固まっている。この子も、こんな表情ができたのか。
「めちゃくちゃ揺木くんのこと、顔も見たくないくらいに腹立ってたんだけどね。なんだろう。こうして喋ってると、まあいいかって思っちゃう」
「俺もです。あんなに先輩に会うのが怖かったのに、こうして実際会ってみると、もっと早くこうしておけば良かったと思ってます」
 揺木くんは、膝の上に置きっぱなしであったスマートフォンをポケットに直した。
「それはそうと、写真のことは許してないからね」
 僕がそう言うと、揺木くんは素直に「ごめんなさい」と誤り、僕はそれをとりあえず許した。揺木くんは、頭を下げた表紙にずり落ちた眼鏡の位置を直している。そういうところが、可愛らしいと思ったこともあった。
「ねえ、好きって何だと思う?」
 揺木くんは眼鏡を定位置に戻し、僕の唐突な質問の答えを真面目に考えていた。
「……俺は、肯定することだと思います」
「なにそれ」
「そこにいるだけで許すことができる……みたいな。先輩は今まで好きになった人たちのことを、どう思ってたんですか」
「どうなんだろうね」
 揺木くんに言われて、始めて歴代の彼女達のことを考えた。
「ちゃんと好きだったよ。それぞれ、どこが好きだったかも言える」
「……へえ」
「時々、名前を覚えていない人もいるけれど」
 カフェに人が増えてきた。授業が終わったらしい。そういえば、御手洗くんはどうしたのだろうか。あのまま、授業に行ったのだろうか。あの子は、揺木くんのことが好きらしいが、あの子にとっての好きとは何なのか。無性に彼に話を聞きたくなった。
「最低ですね」
「そうだよね」
 揺木くんは眉を寄せたが、それは不快感からのものではなかった。
「一応ちゃんと好きなんだよ。僕だって嫌いな女と付き合う趣味はないし、全てとは言えなくても、好きな部分はちゃんとあった」
「そうですか」
 こうして揺木くんと向かい合って話をする機会は沢山あったが、今みたいに揺木くんと意味のあることについて話すことは始めてだった。僕は揺木くんのことを何一つ知らない。
「ねえ、嫌じゃなかったら、今からホテル行く?」
 周囲に人が増えたので、揺木くんだけが聞こえるギリギリの声でそう囁いた。揺木くんは僕の声を聞き逃さないように、僕へ顔を近づけてその言葉を丁寧に拾いとった。そして、耳をほんの少しピンク色にして、口を開こうとしてそれを止めた。代わりに一つだけ、頷いた。

 内臓を広げられる行為に慣れることは、一生ないかもしれない。適当に入ったホテルのベッド、揺木くんは前回とは比べものにならないくらいに丁寧に僕に触れた。それでも僕は、体の奥に触れられることへの嫌悪感から脱却することはできなかった。揺木くんのものを体内に受け入れてなお、気持ち悪さは続いていた。
 揺木くんは前回と違って、ずっと無言だった。何なら、ホテルの部屋に入ってからもぼんやりとしていたから、僕が手を引いてバスルームまで連れていってあげたくらいだった。
「゛う、」
「……痛いですか?」
 揺木くんはずっと黙っていたせいか、声が不自然に掠れていた。
「痛くはない、けど、すごく気持ち悪い」
「吐きそうになったら言ってください」
 僕が頷くと、揺木くんは再び黙って僕の体を揺さぶった。
 僕のほうはと言うと、気持ち悪さで目が回りそうだった。痛くはないとは言ったけれど、我慢できるというだけで全く痛くないわけではないし、無遠慮に中を掻き回されて、内臓を破られるのではないかと思うくらいだった。
 向かい合って抱き合っているくせに、揺木くんは僕の顔をまともに見ようとしなかった。それが何となく悔しくて、そしてこれが今まで自分のしてきたことでもあるのかもしれないと反省した。
 早く、終われないいとは思わない。前回とは違い、僕は自分の意思で揺木くんを受け入れた。揺木くんという人間を知りたくなったのかもしれない。自分がどうしてこんなことをしているのかもわからない。
 思考が何一つ纏まらない。揺木くんはよくもこんな状態の男相手に、硬くできるものだと思う。思考が纏まらないから、じわじわと涙が出てきて、呼吸も荒い。手がシーツを滑り、彷徨う。本当なら離してくれと足をばたつかせて暴れたいくらいだったけれど、どこか必死な揺木くんを見ているとそれもできなかった。この子は、何に必死になっているのだろう。何を求めているのだろう。
「……先輩」
「なに」
「気持ちいですか?」
「いいや」
 女の子相手だったら、嘘でも気持ちいいと言ったかもしれない。そして、自分が気持ち良くなれるように相手を誘導するなり、自分が行動するなりすれば良かった。けれど、殆ど無意識に本音を言ってしまっていた。揺木くんは動きを止め、「そうですか……」と力なく呟いた。
「え、なに? 止めるの?」
 男性器を抜こうとする揺木くんを、僕は慌てて自分の足をこの子の腰に絡みつかせて止めた。中途半端に入ったまま、揺木くんは困ったように僕を見た。
「やっとこっち見た」
「……何がですか」
 揺木くんは、不安そうな目で僕を見ていた。
「揺木くん、何を怖がってんの? 僕が良いって言ったんじゃない。むしろ怖がるのは僕のほうでしょう? 何日和ってんの?」
 そう言うと揺木くんはぐっと眉を寄せ、泣きそうに顔を歪めた。最近、揺木くんのあの意思の強い瞳を見ていない。ずっと、こんな風に泣きそうな顔をしているか、困った顔をしているか。
「……僕、君のその目に惚れたのかもね」
「は?」
「あ、今の感じ。意思が強いっていうか、冷ややかっていうか」
 揺木くんは何を言っているのか分からないと目で訴えてくる。肩に掛かった髪が鬱陶しそうに見えて、手を伸ばしてそれを払いのけた。
「ヘアゴム持ってないの? 結べば?」
 揺木くんが何かを言う前に、彼が手首に付けていた派手な色合いのヘアゴムを奪い取る。そして乱暴に髪を掴み、結んだ。不格好だけれど、邪魔にはならないだろう。
「……うん、似合ってる。可愛いよ」
 戯れに言った言葉に何か大きな意味があったのか、揺木くんの瞳に涙が溢れ、零れ落ちた。あまりに一瞬のことで、僕は呆然としたまま、涙を受け止めて水たまりの出来ている眼鏡を外してあげた。ついでに目元を撫でてやると、揺木くんは尚更涙を流す。
「揺木くん?」
「俺、可愛いですか?」
「……うん、そうだね。可愛い後輩だとは、ずっと思ってたよ」
「本当に?」
「うん」
 揺木くんはぼろぼろと泣きながら、僕の体を抱きしめた。こんな風に揺木くんと触れ合ったのは、初めてのことだとこんな時なのに、冷静に思った。僕は、僕に抱きついたまま泣く揺木くんの頭を、拙く撫でながらこの子が泣き止むのを待った。
「でも、俺、今、普通に男ですよ」
 セックスの途中にこんな風に話し込むなんて初めてだ。揺木くんといると飽きることはない。だから、僕はこの後輩を連れ回していたのかもしれない。今まで、そんなことも分からずにいたのだ、僕は。
「だから何?」
 揺木くんは顔を上げて、僕の目を見た。涙で濡れていたけれど、しっかりとした瞳だった。
「葉神先輩」
 髪を梳き、頬を撫でる。その仕草が今までしたどんな性行為よりも艶っぽく感じ、どう振る舞えばいいかわからなかった。されるがままに、揺木くんに身を任せる。揺木くんは優しい力で僕の首を撫で、「ごめんなさい」と囁いた。
「先輩」
 もう一度頬を撫で、揺木くんは手を頬に添えたまま、僕と唇を合わせる。しっかりケアされているのか、想像よりもずっとふわふわで、しっとりしていて、女の子みたいな感触だった。キスをするのに、男も女も関係ないはずなのに。
「好きです。俺のことも好きになってください」
 真っ直ぐな瞳でそんなことを言われた。今まで沢山の女の子と付き合って別れてを繰り返してきたけれど、こんな風に告白されたことはあっただろうか。
「……僕、ノンケなんだけど」
「はい」
「揺木くんのこと、好きになれるかな?」
「……俺も、頑張ります。先輩のこと大切にします。もう二度と傷つけません」
 泣き腫らした目で、真面目な顔で、二人安いホテルのベッドで繋がったままこんなことを言っているのがあまりに可笑しくて、吐息だけで笑った。エアコンの音だけが部屋に響いていて、揺木くんは黙って僕の返事を待っていた。その無言も、気まずいものではなく、心地よい。
「そういうこと言うやつって、大体屑人間なんだよね」
「自己紹介ですか?」
「ふふ、僕のこと大切にするって言って直ぐそんなこと言う。酷いな」
 思ってもいない「酷い」を口にする。こういう戯れのような会話をこの子としたのは何ヶ月ぶりだろう。前に揺木くんと会った時、僕は半袖の服を着ていた気がする。そしてもっと暑かった。暑い暑いと文句を言って、揺木くんにアイスを売っている店を探させたこともあった。
「なんだかんだ、揺木くんはずっと僕に甘かったよね」
 強く揺木くんに抱きついてみると、揺木くんも抱きしめ返してくれる。それが普通の恋人同士みたいで、男二人で何をしているのだろうと、また可笑しくなる。揺木くんといると楽しい。
「ずっと、好きでしたから」
 体を起こして、揺木くんは僕の太股を抱える。
「俺のことを好きになってくれたら、そしたら、俺と付き合ってください」

 快感なんて全然無かったはずなのに、体に触れられ続けているとなんだか熱を持ったように温かくなっていく。中が熱いような、気持ちいいのかもしれないような。
「う、ぁ」
「ゆっくり息してください。前も触りますから、そっちに意識集中して」
 揺木くんは何度も何度も僕の首に触れながら、全身に愛撫をしていく。
「ほんと、首、好きだよね」
 揺木くんはゆっくりと俺の体を指でなぞり、微笑んだ。
「好きっていうか、贖罪というか。……先輩に、酷いこと言われるかもって思うと怖くて」
 予備動作無しに、男性器を握られる。女の子がするような優しく、躊躇のあるそれではなく、少し乱暴がものに腰が跳ねる。
 擦られていると、生理的に段々と気持ち良くなっていく。すると何故か中も気持ちいいように思えてきて、足が不自然に跳ねた。
「はっ、あ、先輩、先輩、めっちゃ気持ちいいです……。ナカすごい狭い。挿れちゃダメなところに挿れてるみたい……」
「挿れて、いいっ、場所じゃないけど」
 内臓全体を男性器で擦られ、揺さぶられる。その動きに合わせて息が漏れ出て、まるで喘ぎ声のようだ。
「゛う~~~~~」
 気持ちいい部分と、気持ち悪い部分があり、その不快感に体を丸める。他人と体を合わせるのは久しぶりで、他人の手によって高められるのは本当に気持ちいい。けれど、自分の体が自分の支配を離れて他人の手中にある感覚が慣れない。
「先輩、先輩、好き」
 あやすように背中を撫でられ、額にキスをされる。優しい行動とは裏腹に、揺木くんの手によって太股は痛いくらいに曲げられて、ぐいぐい腰を押し込まれる。
「お、おく、奥嫌だ」
 内臓を突き破られそうで怖くなり、嫌だ嫌だと子どものように駄々を捏ねた。揺木くんは、声は優しいまま、大丈夫と繰り返すだけで止めてくれない。どことなく、小さい頃通っていた歯医者さんみたいだ。痛かったら右手を挙げてと言われたけれど、右手を挙げたって決して治療を中断してはくれなかった。
「あっ、あ、ん、ぅぅ……」
 女の子みたいに声を出してよがりたくなくて、両手を口に当てるが、揺木くんに容赦なく止めさせられる。この子は優しいのか、優しくないのかわからない。腹の中はこんなに気持ち悪いのに、揺木くんが触れてくれる表面はこんなに気持ちいい。
 腹の中が気持ちいいのか、ずっと片手で触れられ続けている男性器が気持ちいいのかが曖昧になってくる。どちらも絶頂に至らない程度の刺激なのに、自分の意思でそれを調節できないからか頭が上手く働かない。
「ごめんなさい、先輩、もうちょっと。もうちょいしたら、俺イきますから、そしたらちゃんと気持ち良くしてあげますから」
 乱暴に体を揺さぶられ、漏れた泣き言に、揺木くんは優しく返してくれた。僕は、ひどい、ひどいと譫言のように繰り返す。微かにあったはずのプライドも涙腺もボロボロと決壊していく。頬に流れた涙が冷たくて気持ち悪い。
「先輩」
 揺木くんに抱きしめられる。揺木くんの動きが止まり、中の男性器がビクついた。揺木くんが絶頂したな、というのがわかり安堵している自分と、まだゴム付けずにやってしまったなと思う自分がいる。案外思考が冷静でまた笑ってしまう。
「揺木くん」
 自分から揺木くんに抱きつく。僕はここで初めて、自分からキスをした。

「……あの、何かお探しですか」
 図書館で僕に声を掛けてきたのは、ぱっとしない、地味で陰キャっぽい男の子だった。染めもしていないうえに肩に付くくらいの長さの髪と、もさい黒縁眼鏡。全身黒の服装は、なんだか不審者みたいだった。かろうじて、この図書館の学生アルバイトスタッフの名札を掛けていることから、どういう立場なのかわかった。
「あー……、レポートの資料欲しくて」
「どういう本でしょう?」
 僕の差し出したメモ用紙を見て、その子は小さく「なるほど」と呟く。
「ご用意しますね。少しお待ちください」
 メモ用紙を手に去っていったその男の子は、五分と経たないうちに僕の探していた本全てを見つけて帰ってきた。
「どうぞ」
「すご、全部場所覚えてるの?」
「……まあ」
「真面目だね」
 これが揺木くんと初めて話した時。
 家でレポートをやる気が一ミリもない僕のために、揺木くんは毎日のように本を探してくれた。そして、段々レポートまで手伝ってくれるようになっていた。
「先輩、ここ、この本の七十三ページに詳しいグラフ載ってますよ」
「先輩、その本よりこっちの本のほうがわかりやすいと思います」
「先輩、もうちょっとじゃないですか。頑張ってください」
 こんなに僕のことばかりやっていていいのかと一度だけ聞いたことがあった。揺木くんは「職員の人も、先輩のことは手伝ってあげてって言ってたので」と微かに微笑んだ。
「揺木くん、全部のレポート無事に終わったら、手伝ってくれたお礼に何が奢ってあげる。何好き?」
 そう聞いたのは気まぐれだった。そして、揺木くんが「和菓子が好きです」と答えたのも、気まぐれだったのではないだろうか。
 お互い気まぐれにどうでもいい話をして、気まぐれに一緒にご飯を食べた。家の場所も、出身地も、趣味も何も知らないまま、揺木くんとは何回も遊んだ。
「可愛いってだけで愛されて、良い人生ですよね」
 いつの日か、母親に甘えて抱きつく少女に向かって、蔑んだような目でそんなことを言った揺木くんを覚えている。揺木くんがどういう感情でそう言ったのか、あの時の僕はわからなかったけれど、今なら、わかることができるかもしれなかった。
 揺木くんのことを知ることで、もしかしたら僕はあの子を好きになれるかもしれない。

 目が覚めると、安っぽいホテルの天井が見えた。寝返りをすると、そこには可愛い後輩が、無防備な顔で眠りこけていた。こんなに可愛らしい顔をしているのに、薄らと髭が生えていた。
そういえば、勢いで入ったホテルだけれど、今日は現金を禄に持っていない。前の時みたいに揺木くんが出してくれるだろうか。少し前まで揺木くんとの初めての夜を思い出す度に、嫌悪感と苛立ちで頭が可笑しくなりそうだったのに、今はこんなに穏やかだ。
「不思議だねー」
「……何がですか」
「起きた?」
「はい」
 怠慢な仕草で起き上がる揺木くんの腕を引っ張って、ベッドに逆戻りしてもらう。
「なんか、起きたときに揺木くんがいただけで、全然むかつかないんだよね。……前はあんなに虚無だったし、むかついたのに」
「それは……すみません」
 そう言いながら、うつ伏せに寝直す揺木くんの手首には、夏頃に僕が上げた派手な色のヘアゴムが嵌められていた。
「それ、捨てよう」
 そう言ってヘアゴムを指差すと、わかりやすい嫌そうな顔をされた。
「どうしてですか」
「他の女のお下がりあげるのとか、ちょっと可哀想じゃん」
 YUKIちゃんが、と続けると揺木くんはものすごく微妙そうな顔をして、それでもやっぱり「嫌です」と返した。
「きっとそれ、ゴム切れてるよ。もう髪結べない」
「突然すぎません?」
「……新しいのあげるから」
 隙を突いて、揺木くんの手首からヘアゴムを強奪する。昨日のティッシュやらローションの空パックやらが入ったゴミ箱にシュートする。ゴミ箱の前で勢いを無くしたそれは、縁に当たり、なんとかギリギリ入った。

「そういえば、聞きたかったんだけど」
「はい」
 ホテルを出て、ゆっくりとした足取りで家へと向かう。こんなこと初めてではないはずなのに、どこか現実味がないのは何故なのだろう。
「どうしてあの時、僕の写真撮ったの?」
「え」
 少し先に、チェーンのコーヒーショップの看板が見えた。モーニングセットもあるらしい。ホテルのルームサービスで朝ご飯は食べたが、あんなサービス品みたいな、しょぼいものを食べたくらいでは二十代の男の胃袋は満たされていない。
「ねえ、揺木くん、あそこでご飯……揺木くん?」
 隣を歩いていたはずの揺木くんは、いつの間にか随分後ろで立ち止まってしまっていた。
「どうしたの?」
 僕は立ち止まったまま、声を張って揺木くんに尋ねる。揺木くんは何かを誤魔化すように眼鏡の蔓に触れていた。
「……あと、何でSNSに写真アップしたのかも聞きたいかな」
「ごめんなさい……」
 蚊の鳴くような声だから、車の音などでかき消えてしまいそうだ。そんなに朝の早い時間ではないから、人の姿もちらほらとある。通勤通学時間でないだけマシだけれど。
「怒ってないって言ったら嘘だけど、今更これで絶交とか言わないから。ね、あそこで何か食べて帰ろ」
「……最初は、せめてもの想い出って思ってたんですけど。アップしたのは、こうすれば、先輩が俺のこと気にしてくれるかなぁ……って」
「めんどくさ……」
 思わず漏れ出た本音に、揺木くんは目を伏せた。揺木くんの目は、僕の好きなパーツの一つなのだから、そんな風に隠されるのは不本意だった。
「まあ、いいや。店入ろ」
 一人でずんずんと進み、自動ドアを潜った。後ろから、揺木くんが付いてきている気配がする。アルバイトの女性店員の、眠そうな高い声が注文を尋ねてくる。
(……おかずにされてたってことか)
 時間差で脳が追いついてきた。面倒くさいな、とは思ったけれど、そんなに不快に思っていない自分がいることに驚いた。

「……葉神センパイ」
「そんなに嫌そうなセンパイ呼び、初めて聞いた」
 欠伸を噛み締めて、二限の教室で一人ぼんやりと座っていると、可愛げのない後輩に声を掛けられた。
「適当なこと言わないでくれます? いつもこんなんでしょう」
 今日も少しの隙もないオシャレな格好をして、御手洗くんは学校に来ていた。いつものように僕を睨みつけてはいるが、何だか今日はいつもよりトゲトゲしいような気がする。
「御手洗くんもこの授業取ってたの?」
「……あんたなら知ってるかもしれませんけど、乱の裏アカ」
「……どの?」
 御手洗くんは黙ってスマートフォンの画面を僕に見せた。それは《YUKI》のアカウントだった。
「それなら知ってるけど、どうしたの?」
「これ、あんたが書かせたの?」
 御手洗くんが指した投稿は、写真無しの文字だけのものだった。
「何? えっと……『大好きな人と心を一つにできそうです。恋をして、もっと可愛いなっていく私をもっと見てね』?」
「乱がこんなこと投稿するの初めてなんだけど。何したの?」
 付き合ったのか?と無言で責められているようだ。
「……ふーん」
「いや、何したって聞いてんだけど?」
「まあ、座りなよ。揺木くんも来るの?」
「一緒の授業取ってはいますけど」
 にんまりと、態とらしい笑顔を作って御手洗くんをからかってみる。
「じゃあ、揺木くんの席も取っておかないとね。一緒に受けよっか。……あ、俺と揺木くんと一緒だと気まずい?」
「……てめぇ」
 一瞬、蟀谷を引くつかせたが、諦めたように溜息をついて御手洗くんは僕の隣へ腰を下ろした。
「……まあ、俺は乱が幸せそうだったら、それでいいけど」
「美談だね。涙出ちゃう」
「嫌味か」
 話をしながら、僕の手はスマートフォンに伸びていた。《YUKI》のアカウントを表示させ、最近の投稿を流し見する。
『先輩はそのままの俺を可愛いって言ってくれる』
「へえ……」
 いいねをしようか迷い、そのままスマートフォンの電源を落とす。
「おはようございます。二人でいるの、珍しいですね。いつの間に仲良くなったんですか?」
「おはよう、乱」
 授業開始ギリギリに滑り込んできた揺木くんは、躊躇なく御手洗くんの隣へと鞄を下ろした。
「おはよう、揺木くん」
「おはようございます、葉神先輩」
 僕の欠伸混じりの挨拶に、揺木くんはにこりともせずに挨拶を返した。鬱陶しいくらいに長い髪は、青いヘアゴムでハーフアップに結ばれていた。
「髪の毛、可愛いね」
 僕がそう言うと、黒縁の眼鏡越しに揺木くんの瞳が笑みを作る。
 きっといつか、僕はこの子のことを好きになれるだろう。僕は今からその日のことが、楽しみだった。

表紙:GIRLY DROP さん https://girlydrop.com/flower/3013

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