見出し画像

黒曜

 学校は、バカな同年代の子どもばかりでつまらない。話す内容なんて、昨日見たドラマとか、今週の週刊漫画誌とか、愛とか恋とか青春を歌う邦楽とか、誰が可愛いとか、誰がかっこいいとか、他人の悪口とか、親への愚痴とか、心にもないなれ合いとか、そんなものばかり。幼稚で、稚拙で、哀れですらある。
 みんなは、勉強をしない。活字の本を読まない。洋楽を聴かない。面白くもないことで笑い、一人で行動できない。私は、そんな幼稚な人間になるわけには行かないと、齢十にして誓いを立てた。それからもう四年。私は孤高の存在として、気高く生きている。
 それは、一般人とは違う私、雛森千景十四歳の秋の出来事だった。

 先生の住むアパートが燃えていた。教室の後ろから二番目、一番窓際の私の席からはその光景がよく見えた。一つ後ろの席の坂木さんが私の前の席の近藤さんに興奮して話しかけている。邪魔者である私は、肩を竦めて周囲に溶け込むようにひっそりと外を眺めていた。まだまだ暑い九月の教室は、炎の上がっている外と断絶されているかのようにクーラーが稼働するゴウゴウという音が控えめに響いていた。
 坂木さんは、実際に、学校から見える距離の建物が、しかも仮にも自分のクラスの担任が住んでいるアパートが燃えているというのに、非常に楽しそうに笑っていた。私は彼女の甲高い笑い声が不愉快で、その声が少しでも聞こえなくなるように耳に手を当てて塞いだ。
 生物学上女である私は、学校と親から押しつけられたスカートから伸びた足をぶらぶらと揺らす。それで、少しでも気が紛れればと良いと願ったが、現実はそんなに甘くない。
「やばない? めっちゃやばない?」
「超燃えてるね」
 私は、燃え盛るアパートを見つめていることで、彼女らを初めとしたクラスメイトたちと同じ存在に成り下がるような気がして、みんなとは逆の方向、教室側に目を向けた。向けて後悔した。仮にも私たちの恩師と呼んで良い男の住むアパートが燃えているというのに、クラスの誰もがはしゃいで、笑っていた。担任への思い入れなんて全くない私でさえ、言葉では表せない嫌悪感がふつふつと胸に湧き上がる。
 呪い殺す勢いで一人一人の顔を眺めていると、私は珍しくも笑っていない生徒がいることに気がついた。六道と佐倉。二人とも意味合いは違うがクラスでも特に目立つ人物と言っても良いだろう。
 六道は、クラスの中心グループで、いつも楽しそうにはしゃいでいる男子。佐倉はいつも一人で過ごしている女子。どっちかというと私と同じ人種。あと顔が可愛い。
「……」
 六道は、いつも連んでいる友だちの輪の一番外側で、強ばった表情を浮かべていた。何やら話しかけられたら無理矢理笑顔を作って応えている。バカな男子どもは六道の強ばった笑顔に気付いていないのか、気にせず普通に話しかけている。その程度の友情なのだろう。
 佐倉は佐倉で、いつも通り一人でぼんやりしている。ぼんやりと、無表情のまま、遠巻きに立ち上がる炎を見つめていた。自分の席にいる人のほうが少ない教室の中で、大人しく席に座っている。
 佐倉に目線を向けていると、一瞬だけ、視線が交わった。佐倉は表情を変えることなく、それでも私を見ていた。それは、三秒にも満たなかったことなのだろうけれど、私にはとてつもなく長い時間に感じた。
(他人と目を合わせたの、久しぶりだ)
 心臓がバクバクいっていた。それを何とか抑えたくて私は小さく深呼吸した。
「ほら、静かにしろ」
 火事の詳細を聞くために職員室へと戻っていた教科担当が戻ってきた。ざわめく生徒たちと違い、先生は冷静に授業再開を告げた。自分の同僚の家なのに。何も思わないのだろうか。
 私が何を思おうが、結局それは私の内側だけのことである。私の世界は、私だけのものであり、この聖域は他人に侵されて良いものではない。頭の中に浮かんだ言葉たちを押し込めて、私はノートを開いた。

 小学生の頃から、気がついたらこういう風に生きていた。他の皆は持っている、友達だとか、なれ合いの関係だとか、そういうものを私は持っていない。そのこと自体を悲観することはなく、ただ単に同年代の人たちがどれほど子どもかだけを毎日嘆いて生きている。幸運なことに有り余った時間をつぎ込んで得た学力と、若干過保護な母親が中学入学を期に買い与えてくれたスマートフォンがあったため、一人でも私は充分優秀な部類の人間だった。
 だから私はクラスメイトの愚かな部分が許せない。同じ空間にいるだけで自分まで底辺に落ちていくような恐怖が私に付きまとう。
「ねえ、エロツダのアパート燃えたんだって?」
「見てないの?」
「うちのクラス、体育だったから。バスケ」
 今だって、授業が終わったのだから、さっさと帰ればいいものを、他のクラスの人を連れ込んで長々と話を止めないクラスメイトに眉を顰めた。
 今日の施錠当番は私だから、クラスの全員が帰るまでどうしても残っていないといけない。暇を持て余した私は二年四組の札が付いた鍵を机に放って、代わりにスマートフォンを取り出した。原則、学校への持ち込みは禁止であるが、親が共働きであったり、片親であったりと事情のある家庭の子は学校からの許可制で持ってきても良いことになっていた。私の母親は私が家に帰るまでには帰宅するような短時間のパート勤務だけれど、私はスマートフォンを学校に持ち込みたいがために母親に申請書を書いてもらったものだ。私は帰りのHR後副担任から返却されたそれの電源をオンにした。
 休職中の担任教師と違い、大学を卒業したての若い女性副担任はこういうところの詰めが甘く、本来職員室まで取りに行かないとならないスマホも、帰りのHRで返却してしまう。そういうバカなところは好ましかったし、愛想も良く、クラスの派手な女の子とも親しげに話をしているのを見た。ああいう人たちの真似をするみたいで殆ど話をしたことはないけれど、それでも嫌いじゃない先生の一人。
 スマホを手にしたが、イヤホンは家に置きっぱなしだからゲームはできない。一度、複数並ぶゲームのアイコンの一つをタップしたが、今日は勤続百日のログインボーナスが貰える日だったので、ローディング画面が出る前に閉じた。今日のログイン時のボイスは特殊ボイスだから、聞き飛ばすのはあまりにも惜しい。
 クラスメイトの姦しい声は未だにヒートアップを続けていた。担任教師が――津田がどうなろうが、お前たちには関係ないだろうが。怒りにまかせてそう怒鳴ることもできず、私はツイッターの画面を開いた。
 そこには、ネット上の友人たちのお喋りが乱雑に並んでいた。それを流し見して、次はサブで使っているアカウントの方に映る。『†千の戦乙女†』というハンドルネームが表示される。そっちでは、同じクラスのやつらや、その友だちが津田の件で盛り上がっていた。現場まで写真を撮りに行ったバカまでいたらしい。そんな野次馬みたいなことをして、小さい子どもみたい。
 こんな場末のSNSでも未だにアカウントを所持しており、使っている人は大勢いる。周囲の状況を把握するだけならこれで十分だった。
 ある程度、周囲の情報を収集した後、私は自分の投稿を遡った。次に画像欄を遡る。そこには、いいね数が他の投稿の何十倍もある投稿が一つだけ紛れていた。私はその、諸悪の根源を見て顔を顰めた。自分をネタに噂話をされているみたいで、気分が悪かった。
 ここで、一つだけ。私の罪を告白しようと思う。誰にも知られてはならない、私の罪。懺悔というには、私の反省はあまりに軽く、私は徒人の気持ちがわからない。
 私は、かつて半ば意図的に炎上を起こしたことがある。炎上した当人は担任教師の津田。津田はまだ二十代の若い男性教師だ。フレンドリーであまり怒ることもなく、男女共に人気のある教師だった。私のように、親しくもない生徒のことも名前で呼ぶような教師だった。英語の担当で、すぐに二人組を組ませてリーディングの練習をさせる教師だった。去年、一年生の時の授業で津田の担当クラスは、何故か津田に英語で書いた年賀状を送らされるという課題が出ていたらしい。だからうちの学年の殆どの生徒が、津田は学校の近くのアパートで一人暮らしをしていることを知っていた。
炎上については、津田に似た男が明らかに未成年の女の子と性行為をしている画像を入手してしまったのが全ての原因だったと思う。女性らしい凹凸のないのっぺりとした体の少女に、大人の男の人がのし掛かる様子は、なんだか妖怪に襲われているようにも見えた。写真の端にうつった、ぐしゃぐしゃのセーラー服が、何故か印象に残っていた。津田らしき男は、綺麗にセットしていたであろう髪を振り乱していた。その行為に、そこまで必死になる価値はあるのだろうか。
そもそも、フォロワーの一人が投稿していたその画像を勝手に流用し、津田であることを匂わせた投稿をしたのは私だけれど、ここまで大きな話になるとは思わなかったのだ。そもそも津田の名前も出していないし、まずそうなとこは加工で隠したし、全てにおいて本当に匂わせ程度のことだった。
 更に、学校の人たちの投稿を見るために使っているアカウントでは、相互フォローをしている人なんて殆どいない。いたとしても、それは同じ学校の人物だと思ったら無作為にフォローしているような低能だけだ。そもそも、本名で登録していないから私を私だと気付ける人は皆無だろう。だからこそ、こんな大ごとになるはずはなかったのだ。
 こんなにバズったのは初めてだった。バズとは言っても同じ中学の一部だけだから百いいねもなかったけれど、それでもメインのアカウントの自己記録を大幅に超える結果がそこには表示されていた。その日の放課後、私はコンビニへ行きエクレアとチキンを購入した。夕食が入らなくて、半分近く残した。
 津田には悪いと思っているが、それ以上にあの津田が、クラスの人気者で休み時間も生徒に囲まれていた津田があっという間に孤立し、蔑まれていく様子は見ていてゾクゾクした。私にも、何かを変える力があったことに歓喜したのだ。無断転載ではあるけれど、それでも私の成果には間違いなかった。
 同じ画像を更に流用して大喜利のようなことをやり始める人や、5%の確立で性器を出す津田botを作る人が現れ始めて、ちょっとしたお祭り騒ぎになっていくまで三日もかからなかった。
 時々、暇なとき、こんな風にぼんやりと件の投稿を見つめるのだ。私の成したことを、見つめなおすように。
「……雛森さん」
 突然自分の目の前で発せられた声に、肩を跳ねさせた。言葉の意味が一瞬理解できなくて、顔があげられなかった。けれど体は咄嗟に反応して、手に持っていたスマホを鞄の中に滑り込ませていた。
「ねえ、雛森さんってば。無視しないで」
 もう一度声をかけられたことで、それが私の苗字であったことを理解した。顔を上げると、私の席の真ん前に佐倉が立っていた。……本当に佐倉なのだろうか。でも、この学校でこのレベルの顔面の持ち主は佐倉くらいしかないだろうし、佐倉であっているだろう。学校で先生以外に話しかけられたのが久しぶり過ぎて、私は返事をすることもできずにぼんやりと佐倉の顔を眺めていた。
「聞いてる?」
「……え、はい」
 声が裏返っていたような気がする。顔が熱い。
「ツイッター」
「は……?」
「雛森さんのアカウント、教えて」
「え……?」
「だから、雛森さんのアカウント、教えてって。……意味わかる?」
 こんな、突然クラス一の美少女に突然声をかけられて、SNSのアカウントを教えろと要求してくる。どんなライトノベルだ。佐倉が着ているものが野暮ったいデザインのセーラー服じゃなかったら完璧だった。完璧じゃないからこそ、現在の異常性に私は怯えている。
「……なんで、です、か」
「は?」
 ここで引いたら負けだと、私は彼女を睨みつける。もともと一重で目つきの悪い顔立ちをしているから、睨みを聞かせるのはなかなかに得意だった。これで内心怯えていることはばれていないだろう。私は腹筋に力を入れた。
「突然何、……なんですか」
「……だったらはっきり言うけど。あんたなんでしょ、津田先生の炎上の犯人」
「……」
 背中に嫌な汗が流れた。どうしてこの女はそのことを知っているのか。こいつ以外にもばれているのか。先生たちにはばれていないのか。そもそも今ばれていないとしても、佐倉が誰かに言うかもしれない。
「……」
 誇りある沈黙を貫いた私に、佐倉は大きな溜息を吐いた。
「貧乏クジ引かされた結果だとしても、一応クラス委員だし、優等生ぶってるんだったらクラスでスマホ弄るの止めたほうがいいよ。するにしてもSNSはバカなんじゃない」
「私にも考えがあって、」
「考えのある人は自分の炎上投稿見てにやにやしないでしょ」
「……盗み見たの」
 佐倉は長い髪を掻き上げた。その仕草がなんだか自然で、人間味のないものに見えた。この人は人外で、何かのスパイかもしれない。
「極秘情報、なんですけれど」
「極秘情報?」
 佐倉はそれはそれは面白そうにけらけらと笑った。私は何も可笑しなことを言っていないのに、突然バカにされたような気がして、顔に熱が集まった。周囲を見渡してみると、いつの間にかお喋りをしていたクラスメイトたちは全員帰っていた。いつの間に帰ったのだろう。私も早く部屋に帰りたかった。
「まあいいや、本人ってわかったんだったらいいよ」
「……別に、私が津田先生の件に関わっているっていう、しょ、証拠はないですよね……」
「いや、スマホ見れば一発じゃん」
私は自分の席に座ったまま、佐倉の顔を見上げた。佐倉は長い髪を弄りながら、既に私の顔を見ようともしていなかった。
「あとさぁ。さっきキョロキョロしてたけど、あいつらもうとっくの前に帰ったよ。っていうか、他の人いるのに、こんな話するわけないじゃん」
 佐倉とは今日初めて話したけれど、顔が可愛いだけでものすごく性格の悪い人間であることがわかった。これから先、何があっても私はこの女が悪女であることを忘れないでおこうと、心の中でひっそりと誓った。
「なんで」
 佐倉は私の前に立ったまま、姿勢を崩すこともなく、そう問いかけてきた。
「何が」
 私は、ぼそぼそとそう返すので精一杯だった。
「あんた、津田さんの何?」
 津田さんって何だよ、と突っ込んで聞きたい気持ちもあったけれど、佐倉相手に会話を広げることは私にも無理だった。そもそも、最近学校で先生以外と話をしていなかった。
「何って、普通だけど……」
「普通の何?」
 佐倉はこうして向き合ってみると、想像よりずっと身長の高い女の子だった。すらっとしたスタイルと、長い黒髪、可愛い顔は自分と全然違う生き物みたいだった。こうして喋っていると、歯のひとつを取っても綺麗であることがわかる。こういう歯なら、抜き取ってアクセサリーにでもしたいくらいだ。私だって、佐倉と同じ歳の女子だし、クラスだって同じだし、着ている制服だって同じ学校指定のもので、髪色だって佐倉と同じ黒だ。私の髪は短いけれど、たとえ私が佐倉みたいに髪を伸ばしても、佐倉みたいにはなれないことは明白だった。
 要するに、そんな美人が腕を組んで凄んでくる状況に、私はもう逃げ出したくて仕方がなかったのだ。元々早く帰りたかったのに。佐倉は話を始めた瞬間より、ずっと機嫌が悪くなっていた。
「普通に、担任……」
 喉がカラカラだった。水かお茶が飲みたかった。水筒で持ってきていたお茶は五時間目の休み時間に飲み干してしまったし、学内に設置されている冷水機の水は衛生面が心配だから飲みたくない。あれはダメだ。他のクラスの男子たちがふざけて冷水機の水やら、水量を調節するボタンで遊んでいたし、あいつら、直接口を付ける勢いで飲むから。そもそも、今の佐倉が私に飲み物を飲ませてくれる感じはしない。
「ふーん……」
 そう言った後、佐倉は黙ったまま何か考え込んでいるようだった。まるで私が時間を止めてしまったかのように。
 たっぷりと時間をかけた後、佐倉は私と目を合わせた。火事が起った日のことがフラッシュバックした。酷く長い時間に感じたそれは、やはり一瞬のことだったのだろう。
「こんな近くにいたとは思わなかった」
 佐倉の顔が可愛いことは知っていた。けれど、こんなに真っ直ぐ佐倉の顔を、真正面から見たことは初めてだった。
「あの写真を拡散してくれてありがとう、雛森さん」
 続けて佐倉は言った。あの写真を投稿したのは自分だと。
「ねえ、あの写真、津田先生本人だと思って投稿した?」
「……そんなわけない、です」
「まあ、普通そう思うか。実際、クラスの人たちも半信半疑で叩いてた感じだし。……ストレス発散の捌け口にできたら何でもいいんだろうね」
「……」
「……なんでこんな話してるかわかる?」
 早く帰りたかった。もう話は十分に大きくなってしまった。津田は、可愛がっていたクラスの子ども達に裏切られ、自分の住んでいるアパートまで燃えて、もう散々だろう。後はもう、黙って事が終わるのを待てばいい。もう関わりたくない。あと一年ちょっとで卒業できるのだ、もう放っておいてくれ。私は孤高の情報屋的な存在として残りの学園生活を過ごすのだ。
「……さあ」
「……アンタ、舐めてる? 話、本当にちゃんと聞いてる?」
「……聞いて、ます」
「これでも、真面目な話してるんだけど」
 早く最終下校のチャイムが鳴ればいいと願った。けれど、最終下校時間ピッタリに教室を出ると、部活帰りの人たちとバッティングしてしまうから、それはそれで嫌だった。
「……もういいや。どうせ雛森さんはもう共犯者になっちゃってるし、雛森さんなら誰かに話したりしないだろうし」
「……何を、知っているの、……ですか」
 夕日に右側の頬が照らされた佐倉を見て、突然、あることを思いついた。もしも、だ。もしも、佐倉が重大な秘密を手にしているのなら。あの写真の元投稿をしたのが佐倉本人だったとしたら、佐倉は何者なのだろうか。それこそ、学園の情報屋のようなものなのだろうか。それだったら、佐倉の話を聞く価値はあるかもしれない。佐倉なら、もしかしたら私と同じ高みに登れる人間なのかもしれない。
 佐倉は、あのとき笑っていなかった。他の低俗で、幼稚で、何も考えていないようなクラスメイトと佐倉は違うのかもしれない。そんな風に一瞬でも期待してしまう。きっと、今の佐倉の顔が、あの火事が起こった授業中に見たものと同じだったからかもしれない。
「……誰にも言わないって、約束して」
 だから、私は反射的に頷いた。
「誓い、ます」
 佐倉は満足そうに頷いて、それから廊下まで出て周囲に人がいないことを確認した。私はその様子をただ見ていることしかできなかった。
 一通り確認して満足した佐倉は、先ほどと同じように私の席の前に立った。この姿勢じゃないと話ができないのだろうか。
「じゃあ、言うけど、あの写真、私が津田先生のスマホから抜いたやつだし、先生本人だよ。相手はどこの子がわかんないけど、多分違う中学の子」
「は、」
「証拠あるけど、見る?」
 再び、反射的に頷いていた。
「はい」
 佐倉が私に向けて、自分のスマホを差し出した。画面には、津田らしき男がありとあらゆる相手といやらしいことをしている写真が何枚も表示されていた。確かハメ撮りとかいうやつ。ネットで聞いたことがある。それらは何一つ加工されておらず、見えてはならないところが沢山見えており、私は長時間それを見ることができずすぐに目を逸らした。
「……なんで」
「私もここの一人だったから。だからこれは、私の復讐」
 佐倉は顔を歪めて、汚いものを見るかのようにその写真を眺めた後、スマホを制服のポケットにしまった。
「絶対誰にも言っちゃダメだから。言ったら私も雛森さんが先生の写真拡散したってばらすから」
「な、にが目的なの……」
 このセリフを本当に使うことがあるとは思わなかった。一回使ってみたかったけれど、こんな風に本当に脅されている状態では言いたくなかった。
「別に……これと言って目的はない、けど」
 息をひそめて、佐倉の言葉を待っていた私にその言葉はあまりに拍子抜けだった。
「ただ確かめたかっただけだから、津田さんのお家が燃えたとき、笑ってなかったの雛森さんくらいだったし」
「……」
「それだけ。じゃあ」
 それだけ言って、佐倉はそのまま本当に教室を出て行ってしまった。私は、全てにおいて現実味を感じることができなくて、最終下校のチャイムが鳴るまでそのまま自分の席から立ち上がることができなかった。

 マンションの駐輪場に自転車を止める。ヘルメットを脱いで、荷台に紐でくくりつけていた鞄と一緒に腕に抱えた。鞄の重みでヨロヨロしながらエレベーターまで向かうが、エレベーターホールには一個下の階に住む小学生たちがいた。中学校より遙かに早く授業が終わっている彼女たちは、ランドセルを置いて、着替えてから遊んでいたのだろう。小学生の癖にそんなに足とか腕とか肩とかを出した格好をしているのはどうかと思う。きっとうちのお母さんは私があんな格好をしたら目を剥いて怒るだろう。
 私は鞄を抱え直した。小学生たちに気付かれないように、気配を消して彼女らの後ろを通り過ぎた。そのまま階段を上る。家までの十二階分全てを階段で上るのはあまりに酷なことだったから、2階に上がったら、小学生たちが乗ったのと別のエレベーターに乗ろうと決意する。
 いつもよりほんの少しだけ時間を掛けて帰った家は、ドアを開けたテレビの音が聞こえた。バラエティ番組だろうか。笑い声が聞こえる。私は形式的に「ただいま」とリビングに声をかけ、荷物を置きに部屋へと直行した。
 ほんの少し、休憩するだけと言い訳をして倒れ込んだベッドは思いのほか心地よくて、もう二度と起き上がりたくないとすら思った。けれど、半時間もすれば母親が夕飯の時間だと私を呼びに来るだろう。それまでに制服から着替えておかないとならない。夕食の席を思い出して、憂鬱な気持ちに拍車が掛かる。今日はただでさえイレギュラーなことが起こったのに、これ以上疲れたくなかった。
 今日もきっと母と二人の夕食で、父は母がお風呂に入るくらいの時間に帰宅する。私は黙って母の話を聞きながらご飯を食べて、父のためにご飯をよそい、味噌汁とおかずを温めるのだろう。
 指が彷徨い、昨日から出しっぱなしにしてあったジャージに伸びた。本当はそれに着替えて、リビングに向かわないといけないけれど、疲れてしまった。ほんの少しだけ眠ろうと思い、スマホで十五分のアラームを設定した。

 次の日からなんとなく、佐倉と話すことが増えた。増えたと言っても、二人組を作らないといけないときになんとなく互いに目が合いそのまま組むとか、そういう互いに利用し合う関係性みたいなものだけれど、それでも一日誰とも喋らないまま過ごすこともあった私にとっては天変地異レベルの変化だった。
 それは先生と組むより断然マシだけれど、佐倉は目立つから、佐倉と組むことで私まで目立つのは最低の気分だった。
「ねえ、これ何やるの?」
 今日の体育の授業も、気がつけば佐倉が隣に立っていた。暢気に体育館シューズの紐を結び直す佐倉をどうすればいいのかわからずに、何となく二人組ができてしまっていた。今日は休みの人がいるので、偶数人数の女子は余りが出ずにぴったり二人組ができてしまっていた。
「……話聞いてなかったの?」
「私、体育の田口嫌い」
「ふーん」
「なんかいつも汗ばんでるし、顔テカってるし、なんかキモい」
 私たちは他の子たちが群がっているボール入れにゆっくりと向かった。ゆっくりと向かったせいで、私たちはボールを選ぶことすらできず、最後に残っていたバスケットボールは空気の抜けた、ふにゃふにゃの、バウンドもしないものだった。
「……パス練? ならあっち行こ」
 佐倉が指差したのは、体育の田口先生から一番遠い体育館の端だった。
「……佐倉さん、突然なんで」
「は?」
「私と組むの」
 正直体育は嫌いだ。体育が楽しかったのなんて、小学二年生のころくらいまでだったから、六年間ずっと体育を忌み嫌って生きていた。部活動にも入ったことがない私は、そんなんだから体育で良い成績を取ったことなんて一度もなかった。
「別に。どうせ雛森さんも組む人いないんだしいいでしょ」
「……」
 私のパスしたボールはあらぬ方向に飛んでいき、体育館の壁へと激突した。
「あーあ」
 佐倉がのろのろとした動きでそれを拾いに向かう。私は自分の体育館シューズのつま先を眺めながら、佐倉を待っていた。
「雛森さーん、パース」
 大声ではないけれど、佐倉の声はよく通る。そしてその声が呼んだのは自分だった。私が顔を上げると、私の目の前いっぱいにバスケットボールが映った。
「ぶっ」
 空気が漏れ出るような音を出して、私は顔面でボールを受けた。
「え、雛森さん⁉」
 佐倉のよく通る声が、悲鳴のようなニュアンスで私の名前を呼んだ。顔を覆い蹲る私の元に佐倉が駆け寄る。
「ごめん、大丈夫?」
 佐倉の手が触診するように私の顔をなぞる。さっきまで動き回っていたわりに、冷たい手だった。
「うん……」
「痛くない?」
「……大丈夫」
 佐倉の冷たい手は、痛みで熱を持っていた顔に当てると気持ち良かった。私に駆け寄ってくれたのが佐倉だけであることから明白だったが、他の人たちは誰一人こちらに気付いておらず、各自パス練という名のお喋りに夢中になっていた。話のネタは昨日のテレビのことだったり、有名なYouTuberの最新動画だったり、津田先生の家が燃えたことだったりととりとめがない。ボールを拾いに行くふりをして、風の当たる出入り口付近にたむろしているやつらまでいる。田口先生はというと、パイプ椅子に座って近くでパス練をしている女子たちに話しかけていた。きっと、私が怪我したことにも気付いていないのだろう。
「……顔だから、保健室行こ」
 佐倉に手を引かれて、立ち上がった。
「なんでそんなに優しいの……」
「いや、ぶつけたの私だし。それに顔だよ、顔」
 佐倉はずんずん進む。私が保健室に行くことを田口先生に伝えようとしたら、余計に強い力で手を引いた。そして、出入り口付近で涼を取っていた女子たちを押しのけるようにして、体育館を出た。
「ね、ねえ。田口先生に言わなきゃ……」
 休み時間のことを考えると信じられないくらいに静かな廊下を二人で歩く。私は今更ながら体育館に戻ろうと佐倉に声をかけたが、佐倉は呆れたように眉を上げた。
「どうせ体育の成績底辺なんだから、今更変わんないでしょ」
 全くもってそうだった。

「ねえねえ」
 給食の時間、突然目の前に現れた人物に心臓が止まるかと思った。最近こんなことばかりだ。けれど、私に声をかけるなんて佐倉くらいのものだから、佐倉以外の人に声をかけられたというだけで、虎にでも睨まれているような心地になるのだ。
「な、なに?」
 にこにこと微笑みながら私の机の前に立っていたのは、六道蒼也だった。片手にノートを持っていた。そのノートは何故か表紙全体を使う勢いで大きく教科名がかかれていた。六道を見上げるアングルが、この間の放課後、佐倉と初めて話をしたときとよく似ていた。
「俺、昨日集める予定だったノートまだ出してないんだけど、どうすれば良いかわかる? 雛森って学級委員だから知ってるかなぁって」
「あ……それだったら、来週でも良いって岡本先生が言ってた……」
「そっか! ありがと」
「……」
 六道はそのまま自然に私の机の前にしゃがみ込んだ。机の端に頬を付けてじっとこちらを見ている。私はまだ三分の一程度残った給食を食べてしまいたいのに、そんなふうにそこにいられたら食べられない。
 六道になんて声をかけるべきか迷いながら、卵スープをかき混ぜた。
「雛森、今日の体育の授業堂々とボイコットしたって聞いたけどマジ?」
「……え、違う、けど」
「冗談だって。雛森、真面目だからそういうのじゃないってわかるって。保健室? 怪我したの? 鼻ちょっと赤い」
 卵スープはどんどん冷えていく。六道が私に話しかけてきたのは初めてではなかったけれど、殆どが提出物についてとか、委員会についてとかのことだったから、こんな風に雑談みたいな内容を話すのはどうしたらいいのかわからない。
「……あ、……大丈夫」
 佐倉に連れていかれた保健室で一応診てはもらったけれど、当たり前だがどこにも異常はなく、少しだけ休憩して次の時間には普通に授業に出た。なぜか佐倉も保健室で休憩していたが、保険の先生は放っておいてくれていた。
「よかった」
 六道みたいなカースト上位の男子が、私みたいなカースト底辺の女子に話しかけていても誰も何も気にしていなかったのが、余計にいたたまれなかった。周囲の人たちは各自友達と机をくっつけて、楽しそうに談笑している。こそこそと顔を近づけて話をしているグループはきっと津田先生の話をしているのだろう。佐倉が睨み付けている。女子で誰とも机をくっつけずに食べているのは、私と、佐倉くらいだ。
誰かが六道に声をかけさえしたら、六道はそっちに気を取られて、きっと私の元から去ってくれるだろうに、そんな素振りもない。六道のことは好きでも嫌いでもないけれど、できるだけ早くどこかに行ってほしかった。私は給食を食べてしまいたいだけなのに。
 食事を残すのは嫌だった。家だったら翌日とか、深夜に夜食として食べるとか、そういう選択肢があるけれど、給食は残したら捨てられるから余計に残したくなかった。もったいないし、何より残飯を残飯用バケツに捨てるときの、あらゆるものが混ざったあの掃き溜めに自分の食べ残しを捨てるドロドロした感覚が最低だった。
 いつもだったら無理矢理にでも全部食べてしまうのだけれど、六道がこのままここにいたらきっと時間を過ぎてしまう。昼休みまで給食を食べているなんてダサいことしたくないし、お皿やお盆を遅れて給食室まで届けるのも嫌だ。
「雛森、いつも一人でいる印象だったけど最近佐倉と仲良いよな。保健室も二人で行ったんだろ?」
「……仲良いとかじゃないけど、別に」
「そう? なんか急に二人でいるようになったから、なんかあったのかなぁって」
 六道は私の想像よりずっとクラス全体のことを見ているのかもしれない。私が普段から一人であることも、私が佐倉と話すようになったことも、他の人たちは気にも留めていなかったのに、彼だけは気が付いてくれていた。私が体育の最中に保健室へ行ったことだってそうだ。
 相変わらず六道の顔を見れないまま、私は俯いた。同い年の男子なんて子どもでしかないけれど、ちょっとは大人びた子どももいるものだ。
「あれだよね、津田先生のアパートが燃えた後くらいから」
「……」
 六道は悪気なんてない。邪気のない顔でにこにことその名前を口にした。六道も例に漏れず津田先生とは仲が良かったはずだった。それでも、こいつは津田先生の名前を笑いながら言えるのか。私は一瞬でもこいつは他の奴らとは違うと思った自分を、今すぐにでもぶん殴りたい気分になった。やはり、男子なんて愚かな存在だ。
 私の、六道への期待がスルスルと引いていったタイミングで六道は「じゃあ」と会話を打ち切った。提出のノートを手にしたまま、別の子の席に遊びに行ってしまった。
「……」
 ずっとかき混ぜたていたせいで、卵スープには渦ができていた。時計を見ると、給食の時間が終わるまであと五分だった。五分でどこまで食べきれるのだろうか。給食の残飯をバケツに捨てる自分を想像して、吐き気がした。憂鬱だ。

「ねえ、ちょっと」
 人気の少ない自転車置き場に、腕を組んだ佐倉が現れたときはいじめか何かかと思った。佐倉にはそういう貫禄があった。今まで、教室の無口な佐倉しかしらなかったから、この子がこんなに高圧的な喋り方をする女の子だとは知らなかった。
 授業が終わってすぐの時間帯は帰宅にねらい目だ。部活に行ったり、友達と喋ったりするのに忙しい生徒はまだ校内にいるので、自転車置き場には私と佐倉以外はいない。
「え、なに」
「あんた、六道になんか話した?」
「え、六道……?」
 佐倉は可愛い顔を歪めて、いかにも怒っていますという表情を浮かべている。わざとそんな表情を浮かべているのか、感情が表に出やすいだけなのかがわからない。私は佐倉という人間がわからないのだ。佐倉、佐倉と呼んではいるが、佐倉の下の名前すら知らない。
「なんかって、なに……?」
「そりゃ、」
 佐倉はそこで一度言葉を区切り、周囲を見渡した。そんなことをしなくても、こんな時間にこんなところに来るのは私みたいな友達のいないやつだけだ。
「そりゃあ、津田さんのことしかないでしょ」
 佐倉と私の唯一の繋がりがそれだった。
「何か話した?」
「……いや、何も」
「ほんとに?」
「あ、……なんていうか、給食のとき、」
「何?」
 佐倉の声には怒りが滲んでいた。佐倉なんて怖くもなんともないけれど、佐倉の怒りに比例するように私の声は小さくなってしまう。真っ昼間の太陽は、じわじわと私と佐倉の肌を焼く。私なんかは今更日焼けしようがなんだろうが関係ないが、佐倉はクラスの中で最も肌が白いから、こんなところに長居するのは良くない気がする。
「津田先生のアパートが燃えたくらいから、私と、あ、えっと佐倉さんが仲良いって」
「……それだけ?」
「うん」
「ふーん」
 佐倉の怒りはなんとか静まったのか、声のトーンがほんの少し柔らかくなった。それに安堵する自分がいることに気付いて、驚いた。佐倉が何を思っていても私には関係のないことなのに。私は、たとえ佐倉と体育で二人組を組むことになろうが孤高の存在なのだ。子どもでしかない同級生となんてつるまない。
「……あいつ、なんか察しがいいから嫌なんだよね」
「六道は、実家がお寺だから」
「寺? 何か関係あんのそれ」
「……いや、別に」
 寺の一人息子であることはすごいだろう。六道の家は地元では有名な寺だった。寺の息子なんて特別な肩書を持つ六道を、小さいころは羨んだものだった。
「あいつさ……」
 佐倉はそこで一度言葉を切り、「帰ろう」と私の手を引いた。
「え、待って、自転車……」
「じゃあ、早く」
 私がもたもたと学校指定のヘルメットを被っていると、佐倉はイラついた声で「そんなダサいのどうでもいいから、早く」と言葉を重ねた。
「ダサいのって、学校指定だから仕方ないじゃん……」
「そんなん真面目に被ってるの雛森さんくらいじゃないの? どうせみんな学校から離れたら脱いでるでしょ」
「でも校則で決まってるから」
 佐倉は徒歩通学生なのか、私から学校指定ヘルメットを奪い取るとそのままスタスタと歩いていってしまった。仕方がないので前籠に荷物を押し込む、自転車を押しながら私もそれについていく。
 学校指定の自転車ヘルメットは、自転車登校をしている生徒全員が購入しないとならないものだ。オシャレで使っているわけでもなく、ただの白いヘルメットに黄色のラインと校章の入ったデザインは似合う似合わないで選ぶものではない。
 佐倉は私を待つことなくどんどん進む。私も佐倉を追いかけて、学校の敷地内から出た。佐倉と私はそこから暫く黙ったまま歩いた。学校から大分離れたところまで来て、佐倉はやっと立ち止まった。
「はい、これ返す」
「え、ありがとう……?」
 自転車の前籠にヘルメットを返される。私は一度自転車を止めて、前籠から邪魔な荷物を取り出した。私が荷物を紐で荷台に括り付ける様子を佐倉はじっと見ていた。
「……雛森さん、めっちゃ真面目だね」
「……そう?」
「クソ真面目。……ツイッターではあんなキャラなのに」
「……」
 そういえば、私はまだ佐倉さんのアカウントをフォローしたままだったことを思い出した。今更フォロー解除をするのも、ブロックをするのも不自然過ぎるし、佐倉が私の知らないところで津田先生のことを呟くなんてことがあったらと思うと、不安で仕方が無い。
「ウザいくらいにテンション高くて、どうでもいいことばっか呟いてんのに」
「……言うほど呟いてないよ」
 本アカのほうがよっぽど稼働している……と言いそうになって、私は口をつぐんだ。趣味の領域まで踏み込まれたくない。それに本当の私を、佐倉には理解できないだろう。
「あ、コンビニ寄っていい? アイス買う」
「学校帰りにコンビニ寄るの、校則違反じゃないの……?」
 ついでに言うと、学校に現金を持ち込むのも校則違反であり、買い食いなんてもってのほかだ。
「バレなきゃいいし、バレても問題ないでしょ。嫌ならここにいて」
 そう言うと、佐倉は鞄の中から財布を取り出し、財布以外の荷物を私の自転車の前籠に入れた。そのままコンビニに向かって歩いていく佐倉を、私は追いかけることもできずに大人しく自転車の横で立ち尽くしていた。ちらっと見えた佐倉の財布は他の同級生の持っているようなものとは違う、大人の人が持つようなブラウンの長財布だった。
 数分後、コンビニの袋を持った佐倉が戻ってきた。
「はい」
 佐倉に差し出されたのはパピコだった。佐倉は二つあるうちの片方を私に持たせると、もう片方の封を開けて食べ出した。
「え、えっと」
 アイスの片割れを手に立ち尽くす私に佐倉は「早く食べないと溶けるよ」とだけ言い、自分のぶんを食べるのに夢中になっていた。
「私、お金持ってない……」
「知ってる。教室でスマホは弄るけど、自転車通学の校則は守る良い子ちゃんなんでしょ」
「……」
 そうだけれど、そういう言い方はないのではないだろうか。このアイスを受け取っていいのかわからなくて、手の中でじわじわと溶かしていく。佐倉を見ると、もう半分近く食べきっていた。
 のろのろとした動きで、封を切る。もう一度佐倉を見て、こちらを見ていないことを確認してから、思い切って一口食べてみる。溶けかけていたけれど、ひんやりと冷たかった。
佐倉はその白い肌に汗を浮かべながら、表情だけは涼しげにしていた。私は佐倉のことがわからない、理解できない。佐倉が他のクラスメイトとは違うということは、ここ数日で何となくわかった。けれど、佐倉がどうして私と一緒にこうしてアイスを食べているのかも、佐倉が私に津田先生の炎上について打ち明けた理由もわからないままだ。
佐倉の言っていた「私もここの一人だったから」という言葉の意味もよくわかっていないままだった。
「六道がさ」
 突然話しかけられて、心臓が飛び出るかと思った。しかし佐倉は私を気にも留めずに話しを続ける。
「今日の昼休み、私にライン聞いてきたんだよね」
「そ、そう……」
「いや、そう……じゃないじゃん。六道だよ? 男子、しかもカーストトップレベルの男子! いくら私が可愛いからって、あんなガキが突然色目使ってくるとか有り得なくない?」
 佐倉は食べ終わったパピコのパックを振り回しながら熱弁する。表面に付いた水滴なこっちにまで飛んでくる。私はパピコに口を付けたまま、話の続きを待った。
「まあ、だから六道は六道なりに何か考えがあったのかなあとは思うの。アイツ、バカじゃないもん」
「……そうなの?」
 普段、バカみたいにバカ騒ぎをしているイメージがあるから、あのグループに属している六道もバカなのではないかと思っていた。
「バカじゃないっていうより、賢いよ。成績めっちゃ良いらしいし」
「……なんでそんなこと知ってるの?」
「津田さんが言ってたから」
 また「津田さん」だ。時々佐倉は津田先生のことを津田さんと呼ぶ。親密な、生徒と先生とは違う関係性を匂わせてくる。それが何となく気持ち悪くて、でも不用意に触れてはいけないことのようで、いつも居心地が悪くなる。
「このタイミングで、六道が私とアンタ……じゃなくて、雛森さん両方に話しかけてきたのって、津田さんのこと以外に思いつかなくて」
 佐倉は自分の長い髪を指で梳いた。どうしたらその長さでそんなにサラサラになるのか不思議なくらいに綺麗な髪だった。やはり、佐倉みたいに可愛い女の子はお風呂上がりにきちんとドライヤーをするのだろうか。
「……雛森さん、何か心当たりない?」
「あっ、え、私?」
「雛森さんくらいしか、聞ける相手いないじゃん、私」
 佐倉はふてくされた表情で、綺麗な髪を引っ張った。そんなことをしたら抜けてしまうのではないかとハラハラするが、佐倉の髪はそのまま頭皮にくっついていた。
「……そう、だな」
 私は、津田先生のアパートが燃えたときのことを思い出した。今まで佐倉のことで手一杯で忘れていたが、そういえば、六道もだった。六道と、佐倉と、私だけの共通点。
「……六道くんは、津田先生のアパートが燃えたとき、笑ってなかった」
「ん?」
「私と、佐倉さんと、六道くんだけだったよ」
「……ふーん」
 佐倉は私の自転車にもたれかかり、何かを考え込んでいた。私は佐倉に何と声をかけたらいいのかわからなくて、ただ黙って溶けたパピコを食べ続けた。空を見上げると、太陽の光が眩しかった。
「津田さんがさ……」
 佐倉が喋り出したのと、私がアイスを食べ終わったのは殆ど同時だった。
「六道の話を、結構してたんだよね。……津田さんが大学生のときバイトしてた塾の小学生クラスに六道が通ってたらしくて。それで仲良かったって」
「塾の先生ってバイトなんだ……」
「……そこ突っ込む? 雛森さんってちょっと変だよね」
 佐倉のほうがよっぽど変わっているような気がする。佐倉みたいな可愛い顔をしていたら、人生なにもかも上手くいくだろうに、何故かいつも一人でいる。
「ま、もしかしたら六道は何か知ってるのかもってことだから、もし六道に何か聞かれても絶対喋ったら駄目だからね」
「言うわけないよ……」
 もし、私のしたことが先生や親にバレたらどうなるのだろう。具体的にどうなるのかはわからないけれど、絶対に良くないことだけはわかる。
「……まあ、そうだよね。雛森さん、私のことすら聞かないもん」
「え、」
「普通聞くじゃん、津田さんとどういう関係なんだとか、なんであんな画像持ってるのとか」
 佐倉は突然私の手からアイスのゴミを奪い取った。
「これ捨てとく。じゃあね」
 コンビニの袋にゴミを詰めて、流れるような仕草で佐倉は自転車の前籠から荷物を取り上げた。そのまま、小走りでコンビニのほうに去っていく佐倉に声をかけることも、佐倉を追いかけることもできなくて、私は佐倉の姿が見えなくなるまで、そこで立ち尽くしていた。

 佐倉から、DMが来たのはその日の夜だった。十二時を過ぎたくらいのころ。そろそろ寝ないとお母さんに怒られると、とりあえず部屋の電気を消してツイッターを開いた。
 一日で溜まったリプライを返して、みんなのツイートを見て、いいねをする。好きなアニメとゲームの公式ツイッターをチェックする。私のナイトルーチンだった。だから、同級生たちを監視するために使っているほうのアカウントは、普段見ることはなかった。それなのに、今日は珍しくもそちらのアカウントから通知が来ていることを、アイコンの横に表示されている数字が知らせていた。
 津田先生のツイートに関しては、もう通知を切っているからそれ関連のことではない。私は一体何の通知なのか戦々恐々としながらページを開いた。
「……佐倉」
 佐倉のアカウントからDMが来ていた。こっちのアカウントでDMの通知が来たのは初めてだった。まっさらなDM画面に、佐倉のアカウントのアイコンだけが浮かんでいた。綺麗な空の画像だった。
『まだ起きてる?』
 なんの変哲もないメッセージに、返信しようかどうか迷った。起きていると返事をしたら、どうなるのだろうか。佐倉とメッセージのやり取りをするのは正直面倒臭いから、本当は寝ているふりをしてしまいたい。けれど、何か津田先生に関する重大な情報が入ったとか、そういう話だったらきっと私は後悔する。自分の身を守れるのは自分だけなのだ。大人も子どもも信用できない、世界は結局自分のものでしかないのだから。
 だいぶ迷った挙げ句、私は
『起きてる』
とだけ返信した。すぐに返事がこなかったら、寝落ちしたということにしてしまおうと思っていたら、すぐに返信がきた。
『津田さんと、私のこと、雛森さんには話しておいたほうがいいかなって思ったんだけど』
 続けて、メッセージが来る。
『雛森さんが聞きたくないって思うなら、言わないけど』
『佐倉さんが言いたいなら、いいよ』
 そう返しはしたけれど、これはいつまで続くのだろうか。
『私……』
 佐倉の話はこうだった。一年生のとき、津田先生に一目惚れをした佐倉は一年生の夏休み前に津田先生の告白をしたこと。津田先生はそれを受け入れたこと。
『すごいね。少女まんがみたい』
『それ、私も思った』
 文字だけでも、佐倉が少しだけ得意げにしているのは感じ取れた。
『それに、私と津田さんは大人の付き合いをしてたからね』
『大人のお付合いって?』
『雛森さんって頭良さげなのに、察し悪いよね』
 頭良さげじゃなくて、頭は良いと私が反論する前に、佐倉からのメッセージが届く。
『えっちするってことだよ』
「えっち、する」
 思わず声に出ていたことに気付いて、思わず口を押さえた。隣の部屋で寝ているであろうお母さんに聞こえたらいけないことくらい、私にもわかる。
 想定していなかったわけではないけれど、佐倉本人から聞かされると生々しさが上がった気がする。なんだか心臓がドキドキし始めてきた。悪いことをしているような、私は何一つ悪くないのに、佐倉のしている「悪いこと」を共有しているような、そんな気持ちになった。
『だけど、津田さんのことを好きだったのは私だけじゃなかったみたい。他の人とも津田さんはえっちとかしてたから』
『だから、他の子とえっちなことしてる写真をツイッターにアップしたの?』
『でも、それを更に広めたのは雛森さんだよ』
 時々いらつくこともあるけれど、佐倉との話は面白かった。ただの嫉妬であの写真をばらまいたのは子どもっぽいところではあるけれど、佐倉は他のクラスメイトとやはり違う、大人の世界に生きている。佐倉は私と似ているかもしれない。
 気がついたら、もう時計の針は二時を指していた。佐倉からのメッセージも届かなくなっていた。眠ってしまったのかもしれない。
 私はスマートフォンを充電器に差した。なんだかまたドキドキしていて眠れそうにないけれど、布団を被り直して、目を閉じた。明日もまた学校のために、七時には起きないとならない。
 お父さんがシャワーを浴びている水温が遠くに聞こえる。私は今日もそれを子守歌にして、眠る。

 教室には、一番最初に入る。後から入ると自分の席に近藤さんが座っていたり、近藤さんに限らず、坂木さんのグループの子が彼女の席に集まって喋っていて自分の席に座れなかったりすることが多くて困るからだ。それに、黒板に書かれている日付を今日のものに変えてしまわないといけない。できたら今日の予習もしておきたい。それに、あまり家にはいたくなかった。
 けれど、今日は珍しく私は一番乗りではなかったらしい。教室の鍵を取りに職員室に入った途端、扉付近の先生に「今日はもう六道くんが鍵を持っていったよ」と声を掛けられた。職員室の扉付近は副教科担当の先生の席が集まっている。更に一番扉に近いところに座っている音楽教師は常に笑顔を崩さないような女性だ。本名は覚えていない。門番というあだ名を付けたから、心の中でそう呼んでいる。
 私は門番に頭を下げると、そのままとぼとぼと教室に向かった。六道と二人になってしまったらどうしようと私は悩む。せめて佐倉がいてくれたらまだマシだけれど、佐倉はいつもギリギリに教室にくる。だから佐倉を人柱にする作戦は駄目である。きっと、六道は津田のことで私か佐倉に何か言いたいことか、聞きたいことがあるのだろう。それ以外に私たち二人に話しかける理由が思いつかなかった。
 二年四組のプレートの前で暫く立ち尽くしていたが、いつまでもこうしているわけにはいかなかった。恐る恐る扉を開けると、六道は一番前の自分の席で鼻歌でも歌いそうなくらい上機嫌に漫画雑誌を読んでいた。本来、それは学校に持ってきてはいけないものではあったけれど、それを六道に注意する気にはなれなかった。
 六道がこちらに気付いていないうちにと、私はそのまま静かに扉を閉めた。後ろの扉からそっと入ったら、六道は私に気付かないだろう。それに、そのうち六道の友達が来たらそちらに意識を向けて、私のことなんてすぐに忘れるはずだ。
 そっと後ろの扉を開ける。顔だけを教室に突っ込んだ瞬間、六道と目が合った。
「おはよう」
 六道は自分の席に座ったまま、私に声を掛ける。私はと言うと、突然挨拶をされても、喉に何かが引っかかったように声が出なかった。
「雛森?」
「……おはよう」
 やっと出た声は、情けなくなるほど小さく、裏返ったものだった。
「雛森、朝早いって聞いたから待ってたんだ」
「そう、なんだ」
 誰に聞いたのだろうか。六道は友達が多いから、私の知らないことを当たり前のように知っている。だから苦手だ。
「ちょっと喋ろ?」
 六道はほんの少しだけ首を傾げて私を見上げた。
「ここ、座る?」
 当たり前のように六道の後ろの席を指された。
「……いや、私、えっと、図書室行かないと」
「今の時間、早すぎて空いてないんじゃない?」
「でも、……どうして、私のこと待ってたの」
 後ろの扉の前で、どこに行くこともできずに立ち尽くしている私の前に、六道がやってきた。こうして六道と向き合うのは初めてのことだった。六道は、想像していたよりも小さくて、細くて、目が大きい、中性的な印象の少年だった。小学生のころから殆ど身長が伸びていない。私はこのクラスメイトのことを何一つ知らなかったことを改めて思い知らされたような気持ちになった。
「……雛森にしか話せないことだから。お願い」
 私は、思わず頷いてしまった。押しに弱いところは、直さないといけないと思った。それと、六道は私よりほんの少しだけ身長が小さいのだとも思った。
 結局私たちは、教室の後ろの窓に並んで立った。私は六道のほうを見るのも、外を見るのも廊下を見るのも嫌だったから、自分の上履きの先だけを見ていた。赤いラインの入った上履きは、ほんの少しだけ薄汚れていた。
「最近、雛森って佐倉と仲良いじゃん?」
「そんなことないよ」
「そんなことあるよ。佐倉のあんなに楽しそうな顔、久しぶりに見たもん」
 なんだそれ、と思った。佐倉の何なのだ。佐倉は六道と親しいなんてこと、一言も言っていなかったけれど、六道は何か訳知りみたいな顔をしている。こいつの、こんな風に何でも分かっていますとでも言いたげなところが、本当に嫌いだったことを思い出した。それは、六道と同じクラスだった小学校五年生のときに芽生えた感情だ。
「俺の考え過ぎかもしれないけど、佐倉から津田先生のこととか何か聞いてない?」
「聞いてない」
 食い気味に返してしまった。怪しまれたかもしれないと思うと、余計に六道の顔が見られなくて私はより強く上履きを睨み付けた。横目で見た六道の上履きは、私のものよりもずっと汚かった。
「……じゃあ、なんで突然仲良くなったの」
「ろ、六道くんに、関係ないじゃん」
 声が裏返る。久しぶりに、六道の名前を呼んだような気がした。一瞬だけ、二人が小学校五年生のときのことを思い出しそうになったが、当時の私も孤高で、六道となんて禄に喋ったことはなかった。思い出すべき記憶なんて、何一つない。
「そもそも、六道くんはなんなの。今まで全然喋らなかったくせに、突然。津田先生のことなら、六道くんだって、止めなかったじゃん」
 とても震えた声だったと思うけれど、六道は私が黙るまで、静かに私の話を聞いていた。
「雛森、めっちゃ喋るじゃん」
 挙げ句の果てに、そんな感想まで言う。笑いながら言われたその言葉に苛立ちを覚えた。そうやって、真面目な話を茶化すところも嫌いだった。男子なんて、みんなそうだ。私がどんなに真剣にやっていても、すぐそれをバカにする。同年代の人間なんて結局みんなバカだ。
 どうせ私を理解してくれないのなら、せめて関わらないでほしい。
「津田先生のさ、炎上のこともだけど。俺はあの火事のことのほうが気になる」
「火事?」
 そっと顔を上げると、六道と目があった。ずっとこっちを見ていたのかもしれない。
「あの火事、原因はまだわかってないらしい。でも、火の気のない部屋から燃え広がったらしいから、放火じゃないかって言われてる」
「……そう」
 六道の家はお寺だ。だから、地元の情報は六道の家に集まるのだと、お父さんが言っていたことを思い出した。今の時代でも、インターネットに負けないくらいの人脈があるのだと。六道本人みたい。
「なあ、はっきり聞くけど、火事の犯人をお前らは知ってるの?」
「は?」
 低い声が出た。六道が私の威圧感に怖がっていたら申し訳ないとは思ったが、それより六道は自分が私と違う世界に住んでいるということを心に刻むべきだろう。どうせ相互理解できない関係性なのだから、六道の心を私は慮らない。
「それは、なに、私とか、佐倉さんとかが犯人だと思ったってこと? だから私たちのこと探ってたの?」
「いや、そこまでは思ってないけど……」
 六道はずっと薄ら浮かべている笑みを浮かべていなかった。私は言葉を無くした。
「思ってない、けど。でも、実際どうなの? 二人は無実なの?」
「……さあ、どうだろうね」
 少し俯く。長い前髪で顔を隠した。
「正解なんて、誰もわかんないよ」
 六道の表情が見たかったけれど、顔を上げることはできない。六道が津田先生の炎上事件について探っていたわけじゃないのなら、私たちの敵になるようなことはないだろう。もう、六道と話すことはないはずだ。
 丁度話が途切れたタイミングで、六道と同じグループの男子が登校してきた。そういえば、いつも私の次に来るのはあいつだった。私の登校時間の情報源はきっとあいつだったのだろう。

「……だから、六道は大丈夫だと思う」
 今日も、当たり前のように自転車置き場にやってきた佐倉と一緒に帰る。二人きりの今なら良いだろうと思い、佐倉に朝の話をしたら、たった一言「バカ」と罵られた。
「雛森さんめっちゃバカ。それだけなわけないじゃん。っていうか、六道が津田先生のお家に火を付けた犯人を捜してるってほうが不自然じゃん。絶対可笑しいじゃん」
 佐倉はバカバカと連呼しながら、私の自転車の前籠に自分の鞄を突っ込んだ。
「六道くん、津田先生と仲良かったんじゃないの?」
「雛森さんだってあんなに津田先生に纏わり付いてみたやつらが全員、津田先生の炎上に加担してたの見たでしょ」
「そもそも、津田先生はどうしてるの? 佐倉さんは連絡取ってないの?」
「……」
 佐倉は無言で私の靴の先を蹴った。佐倉の履くローファーは、私のスニーカーと違ってピカピカに磨かれていた。
「とにかく、津田さんのこと探ってるなら、どっちにしろ警戒しておくべきだと私は思う」
 私はぎこちなく首を縦に振った。
「わ、わかった」
「……ねえ、雛森さんって六道の家知ってる?」
 佐倉が突然自転車の前に立ち塞がった。私の足は自然と止まる。
「家っていうか、お寺だけど、まあ、一応」
「今から行こう」
 佐倉は私の手に、自分の手を重ねた。佐倉の手は、今日もやはり冷たい。
「なんで……」
「二人で問い詰めたらいいじゃん。六道だったらチビだから勝てるって」
「えぇ……」
 言葉を濁す。六道の家に乗り込むなんて、乗り気になれるわけがない。一応、向こうの親は私のことを知っているのだ。五年生で私の家と六道の家は、チャリティバザーの役員に選ばれている。親同士はそこそこ親しいという背景があるから、子どもとしてはとても気まずい。
「そもそも、六道くんはまだ帰ってないと思うよ。自転車残ってたし」
「じゃあ尚更、今行かないと。六道の帰り道であいつ待ち伏せよう」
「待ち伏せ」
 佐倉に真っ直ぐ見つめられて、それならと頷いた。
 私と佐倉は二人並んで、私の道案内で六道の家のお寺へと向かった。佐倉は気まぐれに話をする。それは津田先生の話だったり、どうでもいい雑談みたいなことだったり様々だ。
「そもそも、大人が中学生とお付合いするのって犯罪にならないの……?」
「相変わらず良い子ちゃんだ。学級委員がそんなに偉いの?」
 話の流れで生じた疑問を口にしただけで、罵倒が返ってくる。佐倉のこういうところが、余計に人を寄りつかせないのだろう。黙っていれば、男子だろうと女子だろうと友達なんて作り放題だろうに。佐倉とは小学校の学区が違うから、佐倉の小学生時代のことを私は知らない。知らないけれど、友達といる佐倉というものが想像できないから、きっと小学生の頃から佐倉は今と同じで一人だったのだろう。
「学級委員は関係ないよ」
「……それはごめん。そうだよね、貧乏クジ引かされただけだよね」
 二年生が始まってすぐの委員会決め。一年生のころはすぐ決まった委員会も、二年生になって現実を知った私たちはそんな面倒臭いことはやりたくないと、全員が人任せというスタンスを貫いた。最終的に津田とのじゃんけん大会で勝ち残ってしまった私が、学級委員に選ばれた。負けたものがやるのではなくて、勝った人がやるというところがなんとも津田らしいと今になって思う。
 私は為す術なく黒板に書かれた「雛森千景」の文字を睨み付けることしかできなかった。
「佐倉さんがやれば良かったんじゃないの?」
「は? なんで? そんな面倒くさいこと私がやるわけないじゃん」
「……いや、津田先生と一緒にいる時間増えるから」
「雛森さんそんなこと考えてたの? マジないわ」
 今日の佐倉はどこかいらついているように見える。いつもより言葉に棘が多い。
「そうじゃなくて。学校じゃあんまり一緒にいられなかったんじゃないの?」
「そんなの仕方ないでしょ。これは秘密の恋愛なんだから」
 秘密と言いながら、私には自分と津田先生の関係性や、どんな風に連絡と取り合っていたか、デートをしたかをぺらぺら喋っている。こんな、誰が通るかわからないような帰り道で生々しい、えっちな話をしようとするからそれは止めた。
「六道くんの家、次の角を曲がったところだよ」
 暦上では秋だけれど、日中はまだまだ暑い。ざらざらとしたアスファルトの地面からの照り返しで汗をかくほどだ。隣を歩く佐倉は平然とした顔をしている。長い髪を背中に付くくらい垂らしているのに、どうしてどんな涼しい顔をしていられるのだろうか。
 そんなことを考えながら、こっそり佐倉を盗み見ていると、佐倉が突然声を上げた。「あ」とも「きゃあ」とも付かないその悲鳴は、普段の佐倉からは想像できない大きさで私の鼓膜を震わせた。
「佐倉さ、」
「津田さん!」
 そう言うと佐倉は突然走り出した。私の自転車に預けた鞄も、私自身も放ったまま、本来六道の家へ向かうために曲がるはずだった角を曲がる。佐倉の姿が見えなくなってから、私ははっとした。追いかけないといけないと思った。普段だったら佐倉に置いて行かれてもきっと諦めて、そのまま帰宅していたけれど、今日は佐倉の鞄を私が持っている。そして、佐倉は「津田さん」と言ったのだ。津田先生を見つけたのだ。
 待って、佐倉さん。そんなことを言ったかもしれない。自転車を押しながらじゃ走りづらく、ヘルメットを被る時間も惜しかった。私は中学生になってから初めてヘルメットなしで自転車に乗った。
 程なくして佐倉は見つかった。佐倉は六道の家を少し通り過ぎたところに、一人で立ち尽くしていた。
「……佐倉さん」
「いたの。本当にいたんだけど、でも、私が追いかけたときにはもういなくて」
 佐倉は真っ直ぐ前を向いたまま、私の顔を一切見ずにそう告げた。恋人に逃げられた女にしては、しっかりと伸びた背筋をしていた。
「どうして」
 私に聞かれてもわからない。そもそも、佐倉は私に尋ねたわけではないのだろう。私は孤独を愛し、孤独と共存している人間だから、恋愛なんてことをしている人間の気持ちはわからない。佐倉と私は、違う生き物だ。
 私は佐倉を突き放すことも、慰めることもできずに黙ってその背中を見ていた。
「あれ、雛森と佐倉だ。どうしたん、こんなところで」
 聞き覚えのある声に顔を上げる。そこには自転車に跨がったままの六道がいた。空気を読まない声に私はここが六道の家の、殆ど前であることを思い出した。六道は無邪気に笑顔を浮かべたまま、乗っていた自転車を止めるとこちらへ駆け寄ってきた。よく見たら、六道のヘルメットは首に引っかかっていた。
「雛森んちってこっちじゃないじゃん。佐倉んちは知んないけど」
「あー……」
「てかやっぱ二人一緒に帰るとかめっちゃ仲良しじゃん! なんでこないだ嘘ついたん?」
 私が言葉に詰まっていると、さっきまでこちらを振り向きもしなかった佐倉が突然六道の前までやってきた。私は佐倉を避けるために一歩下がった衝撃で転びかける。自転車を支えたまま移動するのは結構大変であることを佐倉は知るべきだ。
「ねえ、アンタ」
「え、俺?」
「津田先生のこと、何をどこまで知ってんの?」
 六道は面食らったように口ごもる。目を大きく開いて、閉じる。そして首に引っかけたままだったヘルメットを外して、小脇に抱えた。
「あー、まあ、あれだ。暑いし麦茶飲む?」
「は?」
「いや、えっとさ、普通に、檀家さんとかに見られるとあんま印象良くないから……」
 いらいらした様子を隠さないまま、佐倉は「さっさとして」とだけ言った。
「雛森も。こっち」
 道の端っこに止めたままだった自転車を押して、六道は家の門を潜った。木製の大きな門を通ると、古くて大きな家が見えた。玄関横の犬小屋で、柴犬が寝ていた。
「うちのポコ。柴とゴールデンレトリバーの雑種」
 六道が自転車を置いた隣に、私も置いた。荷台に括り付けた鞄を取るか悩んで、そのままにした。代わりに佐倉の鞄を手に取った。ポコと紹介された犬は、来客に慣れているのか、私たちをちらっと見た後は興味なさそうに昼寝に戻った。
「ただいまー!」
 六道は無駄に大きな声で叫ぶと、靴を脱ぎ捨てずんずんと家の奥へ進む。私も、佐倉も戸惑いが勝って靴を脱ぐこともできないで玄関に取り残されてしまう。
「何してんの?」
 六道が振り返り、やはり大きな声でそう言った。私は意を決してスニーカーを脱いで、玄関から一歩家に上がる。
「千景ちゃん?」
 そのタイミングで丁度、六道のお母さんが現れる。なんだか悪戯を見つかった子どものような心地になって、足を引っ込めた。足が汗ばんでいたからか、私が足を乗せたところに薄らと足形が残っていた。
「千景ちゃん、久しぶりじゃない? 学校帰り?」
「あ、……はい」
「私が」
 佐倉が私の手を引いた。
「学校帰り、私が体調崩しちゃって。六道くんが家で休んでいったらって」
「そうなの? 千景ちゃんのお友達?」
「はい、佐倉柚香と言います」
 私はここで初めて、佐倉の下の名前を知った。さくらゆか。名前の響きが全てにおいて女の子らしくて、可愛らしい。口のなかでその名前を転がした。さくらゆか。佐倉柚香。
「横になる? お布団出そうか?」
「いえ。影のあるところで少し座れたら、それで大丈夫なので」
「熱中症かしら? 冷たい麦茶出すね。蒼也、座布団出してあげて」
 あれよあれよという間に私たちは六道の家に上がり、麦茶と桃を頂くことになった。ガラスの器に盛られた桃は綺麗に剥かれており、こんなの家では見たことがなかった。
「お母さんちょっと出かけないといけないけど、蒼也一人でおもてなしできる? 何かあったら電話してくれたら帰るから」
「大丈夫だって。雛森だっているし」
 あれこれと私たちの世話を焼いた後、六道のお母さんはすぐに家を出た。麦茶を飲みながら見た六道のお母さんは、小学校の参観日に見たときよりも、ずっと綺麗にお化粧をして、スカートを履いていた。
「佐倉、体調悪いんだ」
「バカにしてる?」
 六道はにやにやと笑いながら、一気に麦茶を飲み干してしまった。
「いや、普通に俺の友達ってことにしたら良かったじゃん。クラスメイトだし」
「クラス一緒なら友達って考えがキモい」
 やはり佐倉は機嫌が悪い。六道のお母さんがいたころの弱々しい微笑みは鳴りを潜め、睨み付けるように六道を見ていた。
「全部吐いてもらうから。津田先生のこと」
 腕を組んだ佐倉の姿は、和室で座布団に座っていることも相まって貫禄があった。セーラー服だから、どこかの組のお嬢とか、そんなイメージ。
 机の上を見ると、佐倉は出された麦茶を最初に一口飲んだきり、麦茶にも桃にも手を付けていなかった。普通に食べていた自分が少しだけ恥ずかしい。私は桃の最後の一切れを食べるか迷って、結局自分の信念に従い口にした。冷たくて、甘くて、美味しい。
「じゃあ、逆に聞くけど。二人は津田先生の住んでたアパートの火事には関係してない?」
「当たり前じゃん。私らあの時授業受けてたんだけど?」
「そりゃそうだよね」
 六道は案外アッサリ納得した。
「いや、雛森がなんか意味深だったから、なんかあるのかなあって勝手に勘違いしてたわ」
「は?」
 隣からの佐倉の視線が痛い。私はできるだけ音を立てないようにフォークを置いた。
「別に、変なことは言ってないけど……」
「雛森、普通にいつでも変じゃん」
 六道は空気を読まない。こんな時なのに麦茶のお代わりを注いで、飲み干している。私と佐倉がお邪魔してから、もう五杯以上飲んでいる。
「……」
 私が俯いていると、佐倉はわかりやすく溜息を吐いて、六道に矛先を戻した。
「で?」
「まあ、正直に言うと、俺の家で津田先生を匿ってるわけ」
 佐倉の空気が一気に変わった。具体的にどうとは言えないけれど、なんだか佐倉が突然知らない人になったみたいな感覚だ。ぶわっと鳥肌が立った。
「なんで」
「うーん、今更だしなあ。……ここだけの話、うちのお母さん宗教やってんの」
 机に乗り出すようにして、私たちが聞こえるギリギリの声量で告げられた事実に私も佐倉も、そうですか、以外の反応ができなかった。六道の家は、再三言っているが寺だ。クラスの誰もが知っているし、ここら辺に住んでいる人はみんな知っている。
「……あれ、伝わってない?」
「いや、多分だけど、みんな知ってる……」
 小さな声でそう訂正する。六道は「そうじゃなくて」と言葉を重ねた。佐倉は呆れているのか、口を挟まない。興味がないのかもしれない。髪の毛を弄り始めている。
「うちの宗派のじゃなくて、なんか怪しげなやつ」
「……仏教とか、キリスト教とかじゃないやつってこと?」
「そうそう! 雛森やっぱ頭いいじゃん」
「……」
 佐倉のように、黙っているのが、一番頭が良い判断だったかもしれない。六道は少しだけ空気が読めない。一言多いというか、今言わなくて良いことを言う。バカにされているように感じるのだ。思慮深さというものがない。
「ちょっとこっち来て」
 六道は家の奥のほうへ私たちを手招いた。静かにして、と付け足されたが一番煩いのは六道本人だった。
 六道の家は広い。お寺の関係者とかがやってきたり、修行体験なんてのも受け入れているのだとお母さんが言っていた。
「あの部屋、そっと覗いてみて」
 言われた部屋を佐倉と二人で覗く。そこには、若い女の人がいた。どこにでもいる、普通の、二十代くらいの女の人だった。茶色に染めた髪と、短いスカートが印象的で、だけれど雰囲気以外印象に残らなそうな人だ。
「何?」
「あの人、津田先生の彼女」
 私の手に、冷たい手が触れた。佐倉の手だ。ぎゅっと握られる。私は混乱して佐倉の顔を見たが、佐倉が今まで見たことないくらいに不安そうな表情をしていたため、どうすることもできなかった。さらに、佐倉は不安そうな表情をしている割には、食い入るようにして津田の彼女だという女のことを見ていた。
私は結局、言葉をかけることも、手を握り返すこともできずに、さっきの部屋へ戻る六道の後について行くしかなかった。佐倉が大人しく私の後を付いてきていて、少しだけほっとした。あのまま、あそこに居たら良くないような気がした。
 佐倉を座布団に座らせて、あまりに顔色が悪いから麦茶を飲ませようとして、コップに沢山の水滴が付いていることに気付いた。佐倉の手を濡らすのが、なんだかいけないような気がして、私の制服の袖でそれを拭ってから渡すと、佐倉は思いのほか大人しく口をつけた。
「なんで六道くんの家に、津田先生の彼女さん? がいるの?」
 さっきまで率先して話を聞こうとしていた佐倉が黙ってしまったから、仕方なく私が水を向ける。
「母ちゃんがはまってる宗教の信者仲間みたいなやつらしい。で、なんか先生には悪いものが付いてるとか言って、うちに転がり込んできた」
「じゃあ、津田さんもここにいるの?」
 佐倉の声は弱々しかった。そして、ずっと私の手を握ったまま離さない。
「一応いるよ。母ちゃんが修行体験者のカップルっていう名目で二人を連れてきたから」
「会いたい」
 震える声でそう言った。私はここでようやく、佐倉がずっと不機嫌だった理由を察した。私のせいだ。私が「津田先生と連絡は取っていないのか」なんて言ったから。佐倉がこんなに悲しんでいる理由の一端を、自分が担っていることに今の今まで気づけなかった。
 佐倉がずっと握ったままの左手を見た。佐倉の綺麗な手と、私の不格好な手がぴったりとくっついている。私はほんの少しだけ、わかるかわからないかの力で佐倉の手を握り返した。
「ごめん、津田先生には学校の子連れてくるなって言われてて。ちょっと今家で険悪な空気作りたくないから、直接合わせることはできない」
「じゃ、じゃあ、さっき佐倉さんが津田先生を見つけたって言ってたの、本人だったんだね。……えっと、あの、ぶ、無事、だったんだ」
 六道はキョトンとした表情を浮かべ、直ぐに「ああ火事のこと」と合点がいったと頷いた。
「あの火事が起こる前にうちに来てたぞ。津田先生本人も、津田先生の私物も全部無事」
 佐倉の手に力が入った。佐倉は俯いていて、どんな顔をしているのかわからないけれど、泣きそうな顔をしているような気がした。
「……どうして、そんなことまで教えてくれるの」
「二人に協力してほしいことがあるから」
 佐倉が黙ってしまっているから、ずっと私が喋っているような気がする。佐倉はきっと、色々と知りたいだろう。私も自分が陥れた人が今どうしているのか、知りたい。そんな私たちに六道は沢山話をしてくれている。家にまであげてくれている。
「津田先生の住んでたアパートの火事、あれ放火なんだよ」
「言い切れるの?」
 六道の言葉に、こんなときなのに、なんだかドキドキしている。何だか大きな陰謀が隠れているのではないだろうか。その一部に自分が加担しているのではないか。大きな渦に巻き込まれているのかもしれない。
「俺、犯人を知ってる」
 隣で佐倉が息を飲んだ。
「誰……?」
「先生の彼女さん」
 そう言った六道の声は三人で顔を寄せ合って、そうしてようやく聞こえるくらいの声量だった。私はなんだか現実感がなく、体がふわふわしているような感覚がした。私は世界に選ばれたのだろうか。この世界の真理を知ってしまうのだろうか。
「なんか怪しい宗教やってるし、そもそもうちの母ちゃんが可笑しくなったのも、あの人のせいだし」
「おばさんが……?」
 六道はぐっと眉根を寄せた。泣くのを我慢しているような表情だ。
 佐倉と六道、泣きそうな二人に挟まれる形になってしまい、私は狼狽えた。どうしてこんなことになっているのだろう。私は他の同年代よりちょっと出来が良いだけの、普通の中学生なのに。
「見ただろ。最近、格好が派手になったし、すぐどっか出かけちゃうし。前はもっと家にいた」
 六道の表情はどんどん暗くなる。こんなに暗い表情の六道を見たのは、津田の部屋が燃えたあの日と、今日くらいのものだ。
「……行こ」
 突然、佐倉が私の手を引いた。
「え、でも、まだ話……」
「犯人捜しみたいなことだったら、私は協力できない」
 あくまで暗い表情のまま、それでも佐倉はきっぱりと言い切った。六道は、ただ黙って肩を竦めた。
「……お茶、ありがとうと伝えてください」
 佐倉はそのまま、私の手を掴んだまま振り返ることなく六道の家を出た。そして当たり前のように私の自転車の前籠に自分の荷物を入れて、自転車を押して歩く私のすぐ横を付いて歩いた。六道は門のところまで私たちを見送り、底抜けに明るい声で「また明日」と言われたが、私たちには返す言葉がなかった。ポコは、来た時と同じ様子で眠っていた。
「……佐倉さん、大丈夫?」
 六道の家を出てすぐに恐る恐る声をかけたが、返事はない。私たちは黙っていつも二人が別れるところまで歩いた。
「……」
「……帰りたくない」
 佐倉は俯いたまま、立ち止まる。私の自転車の前籠に荷物を入れたまま、その両手はスカートを握り締めていた。
「……でも、帰らないと」
 私は手汗で湿ったハンドルを握り直した。まるで、知らない女の子と喋っているようで、いつも以上に緊張している。今日はそもそも六道とも話をしたし、私にしては喋り過ぎだ。
 佐倉は黙ったまま、ノロノロと自分の鞄を手に取った。佐倉の鞄は元々軽いのに、突然自転車が軽くなったような気がした。
「帰る」
 佐倉は振り返ることなく、分かれ道を歩いていった。

 家に帰るとお母さんが晩ご飯をテーブルに並べていた。
「おかえり、千景。今日は遅かったね」
「あー……クラスの子と喋ってた」
 そう言うと、お母さんはほんの少しだけ驚いた顔をして、直ぐに微笑んだ。そういう、母親みたいな表情をされるとどうしたら良いのかわからなくなる。
 私のお母さんは良い母親ではあると思う。友達のいない娘を気遣って、家事も完璧にこなして、料理も上手だし、優しくて、私がダメなことをしたら叱ってくれる。ただ、お父さんとの没交渉は私が物心ついた頃から今まで続いている。良い母親と、良い妻は共生できないのだろうか。
「千景。おばあちゃんがぎっくり腰になっちゃったらしくてね。お母さん、明日から二、三日おばあちゃんのところ行ってくるけど、一人で大丈夫?」
「大丈夫」
「ご飯は冷凍庫に入れてるやつチンして食べて。洗濯物は置いておいて良いけれど、お皿洗うのとお風呂掃除はちゃんとしてね」
「わかったから」
 適当に話を聞き流す。お母さんが居ようが、お父さんが居ようがあまり変わらない。きっとお母さんは、私とお父さん二人分の食事を作り置きして、洗濯籠に入っている私とお父さんの服を洗濯してから出かけるのだろう。
 食事をしながら思い出したのは、泣きそうに肩を震わせて俯く佐倉だった。

 次の日、やはりホームルームが始まるギリギリの時間に登校してきた佐倉は、赤い目をしていた。六道はいつも通りに友達とはしゃいで、副担任の女性教師に注意されている。けれど、威圧感が全く無いから怖くない。六道たちは悪びれもせずにへらへらしていた。
 その日は英語も体育も理科の実験もなかったから佐倉とは一言も話すことがないまま放課後になった。いつも通りの日のはずなのに、なんだかお腹の辺りがスカスカした。
いつも通りに帰りのホームルームが終わった途端に教室を出て、自転車置き場に向かう。できるだけゆっくり、荷台へ荷物を括り付けてヘルメットを何度も両手で捏ねくり回したが、佐倉が来ることはなかった。私は昨日よりもずっと軽い自転車を押しながら校門を出た。
(あ……)
 少し前を歩く、黒のロングヘア。佐倉だった。いつもの佐倉は一人だったとしても、背筋をピンと伸ばして、堂々とした様子で歩いているのに、今日の佐倉はなんだか小さく見えた。
 なんとなく、ダメだと思った。あれは、私の知っている佐倉柚香じゃないと思った。あれは私の共犯者じゃない。自転車を押して歩くのがもどかしくて、ほんの少しの距離だけペダルを漕いだ。
「佐倉さん!」
 佐倉が肩をびくつかせて振り返る。私自身も自分の声に驚いた。こんなに大きな声を出したのは初めてかもしれない。けれど、今はそれよりも佐倉が立ち止まったことに安堵した。
「ひ、雛森さん……? なに、どうしたの」
「えっと、佐倉さん」
 どうしたの、と聞かれても、私もわからない。どうしたのだろう。どうして私は自分から佐倉に声をかけたのだろう。頭の中が真っ白になる。声が出なかった。
「何もないなら、私帰るけど……」
 昨日の佐倉の表情がフラッシュバックした。
「帰りたく、ない?」
「は?」
 佐倉は意味がわからないと眉を顰めた。私だって意味がわからない。わからないけれど、口が勝手に動くのだ。さっきまで何も言えなかった口が、突然、私の意志と関係ないところで話し出しているだけなのだ。
「帰りたくないなら、うち、来ていいよ」
 佐倉は呆然と私を見つめていた。私も、これ以上言葉が出てこなくて黙った。
 どれくらい時間が経ったのか、帰宅部の生徒たちが何人か私たちの隣を通っていったけれど、私たちは見つめ合ったまま立ち尽くしていた。
「……行く」
 佐倉が鞄を自転車の前籠に乗せた。私はそれを確認してから、ゆっくりと自転車を押して歩き始めた。

 途中のコンビニで晩ご飯用に冷凍食品と、お菓子とジュースと、佐倉の歯ブラシを買った。全部佐倉が払った。
 家に帰るとお母さんもお父さんもいなかった。親に勝手に人を家に連れてきたのは初めてだったから、なんだか悪いことをしているみたいな気分になったけれど、佐倉が借りてきた猫みたいに大人しいのはほんの少しだけ面白かった。
 そして、佐倉は私の親について殆ど何も聞いてこなかった。母親が祖母のところに行っていることと、父親の帰りが遅いことだけを伝えると、素直に納得した。そしてほんの一瞬、ほっとした表情を浮かべた。だから私もメール一つであっさりと外泊を許可した佐倉の親について何も尋ねなかった。
二人でお母さんが作り置きしてくれていたおかずと、コンビニで買った冷凍食品を食べた。コンビニのご飯は初めて食べたけれど、こんなに美味しいことを知らなかった。
 二人でお皿を洗って、二人でお風呂に入った。佐倉は私の部屋にヘアオイルも化粧水もないことに少しだけ怒り、仕方ないと笑い、私の髪の毛を乾かしてくれた。
 帰ってきたお父さんは、佐倉がいることに驚いたけれど、何も言わなかった。お母さんみたいに娘に友達のようなものができたことを喜ぶことも、娘が突然見ず知らずの中学生を家に連れて来たことに対して怒ることもなく、ただ静かに受け入れた。
「なんかいつもより髪の毛サラサラな気がする」
「私はいつもよりゴワゴワしてる。コンビニでヘアケア用品とかも買っとくべきだった。あと、化粧水ないとか有り得ない」
 佐倉は丁寧に丁寧に髪を梳いて、三つ編みに編み上げている。佐倉が私の部屋で私のベッドに座って、私の部屋着のジャージを着ていることが不思議でたまらない。
「今度、ヘアオイルと化粧水と、あと乳液買いに行こ」
「それ、いる……?」
「いる! 絶対必要!」
 佐倉が身を乗り出してきて、私は半身のけぞった。
「いつ暇? 私、選んであげるよ」
「だいたいいつでも暇、だけど」
 こんなことを言ったのは初めてのことだった。誰かのために時間を使うなんてバカのすることだろう。私は私のために時間を使うべきだし、他人に言われて自分を曲げるなんて言語道断だと思っていた。けれど、佐倉の言葉には、素直に頷いてしまっていた。
 私は生まれて初めて、お小遣いでヘアオイルだとか、化粧水だとかを買うことになるらしい。
「じゃあ、今度六時間目無い日にでも行こうよ。私、駅前のショッピングモールが良い」
 佐倉は私に身体を寄せてきた。これ以上私が佐倉から離れると、私がベッドから落ちてしまう。仕方がなくそのまま佐倉と腕同士がくっつく距離に腰を落ち着けた。佐倉の腕は風呂上がりだからか、いつもより温かかった。
「……ねえ、佐倉さん」
「うん」
「佐倉さんは、津田先生のどこが好きなの?」
「私にも、当たり前に優しく手を差し伸べてくれたところ。甘えても許してくれたところ。特別だって言ってくれたところ。……」
 佐倉は指折りいくつも津田の良いところを話してくれた。佐倉の話す津田縁という男は、私の知っている津田縁という先生とは違う人のように思えた。それに、どれだけ聞いてもどうしてそれで津田を好きになるのかは理解できなかった。けれど、今、私の隣に座っている女の子が津田の話をしながら、それはそれは幸せそうに頬を染めているのを見ると、なんだかそれはそれで良いことのように思えてならなかった。
 津田は、どちらかというと最低な人間で、私は津田が嫌いだったけれど、津田と過ごした佐倉が、津田を好きになった佐倉が幸福であったことは、確かだった。
「私ばっか喋ってるじゃん。ねえ、雛森さんの話も聞かせて」
「私のことって?」
「なんでも良いよ。雛森さんがどんな人か、私、知らない」
 頷いた。
 速く大人になりたいと、ずっと願っていた。大人になったら、色々な煩わしさから解放されると信じている。家族は嫌いではないけれど、煩わしいから家は出たい。そういう煩わしさを知らない無邪気な同級生は子どもに見えた。
 家にパソコンがあったから、小学生の頃からネットの世界に没頭していた。ネットの世界では、私も一人前の人間として扱って貰えたし、無理矢理子どもだけの空間に放り込まれたりしなかったのが、心地よかった。
 私はネットでお勧めされたマイナーな本やゲームや音楽を、片っ端から試していった。周囲の子とは違うものを好きになるのは楽しかった。分厚い本を読んで、パソコンのゲームをして、洋楽を聴けば聴くほど周囲の同級生たちが子どもに見えたけれど、私はみんなと違うと思うとそれだけで嬉しかった。はやく大人になりたくて、心だけでも大人になろうと思って沢山努力した。努力したつもりだった。
 二人で、お互いに好きになった対象について一晩中話をした。段々眠たくなってきて、私たちは二人で私のベッドに潜り込んだ。狭かったけれど、小声で話をするには丁度良かった。
「ねえ、雛森さん」
「うん」
佐倉は一度足りとも、私の話に共感はしなかったけれど、否定的なことは言わなかった。私も、佐倉の恋に理解を示すことはできなかったけれど、津田を好きな佐倉のことを否定しなかった。
「私、やっぱり津田さんのことが好き。私以外の女の子とお付合いして、セックスしてるのは本当に許せないけど、でも最終的に私だけを選んでくれるならそれで許すから」
「うん」
「だから、どうしたら津田さんが私のところに戻ってきてくれるか、一緒に考えて。 津田さんが六道のとこにいるなら、私の頑張り次第で会えるかもしれないから」
「うん」
「……あとね」
 佐倉が布団に潜る。声がくぐもって、聞こえづらい。耳を澄ました。
「千景って呼んでいい?」
 うん、と答えた。けれど声が佐倉に聞こえていたのかはわからない。佐倉はそのまま黙ってしまった。眠ってしまったのかもしれない。前に、ダイレクトメッセージでやり取りをしていたときよりも、ずっと遅い時間になっていた。二人とも、ホームルームに間に合う時間に起きられるかわからない時間だった。
「おやすみ、柚香ちゃん」
 初めて呼んだ佐倉の名前は、思いのほか柔らかい響きで私の舌に乗った。
 その日、私は初めてホームルームぎりぎりの時間に登校した。

 六道蒼也という人間は、運動神経がすこぶる良い。それなのにどの運動部にも所属していない。でも、あらゆるスポーツが得意で、あらゆる部活の人と仲が良く、顔が広く、私とも佐倉とも違う種類の人間だ。
 そんな六道が、校門前という目立つ場所で生活指導の沢村に怒られていた。おじいちゃんと言っても差し支えのない年齢の沢村の小脇には、派手な原色のスケートボードが抱えられている。
「何あれ……」
 柚香ちゃんが顔を歪める。柚香ちゃんはきっと沢村のことも嫌いなのだろう。あらゆる教師を嫌いと言ってのける彼女が、津田のことだけ好きになったのは、ある種の運命だったのかもしれないと私は思う。
「スケボー登校?」
 私は自転車を押しているせいで、指を差すことができないから顎で指す。
「……よし」
 柚香ちゃんは何かを思いついたように手を打った。
「ちょっと六道助けてくるから、千景はここで待ってて」
 そう言うと、柚香ちゃんは私に鞄を預けたまま六道と沢村のところに小走りで向かっていった。
 暫く三人で何かを話した後、六道が沢村に頭を下げ、柚香ちゃんは六道を連れて颯爽と戻ってきた。
「ねえ、千景。津田さんのこと、六道に話そう」
「……え」
「協力して貰おう。六道は役に立つよ、多分」
 柚香ちゃんは六道を従えて歩く。その堂々とした姿はなんとなくだけれど、津田先生と並んでいるよりもずっと柚香ちゃんに合っているように感じた。
「どこがいいだろ……。公園とか? なんか良い感じの場所ないかな」
「公園でいいなら、ちっちゃい公園あるよ」
 六道が言った公園は私も覚えのある場所だった。幼稚園くらいの頃に、お父さんと来た覚えがあった。佐倉は公園に着いた途端、自動販売機で缶の炭酸ジュースを二本買って、一本を私に渡した。
「お金、ないけど」
「いいって」
 小さい公園のベンチは、子どもが遊んだ後なのか砂が盛ってあった。一番上には飾りなのか木の棒と、葉っぱが一枚刺さっていた。
「六道さ、私と千景の関係性知りたいんでしょ」
「教えてくれるの?」
 六道は足でスケボーを弄びながら、いつも通りの声色でそう尋ねた。
「別に。……ただ、私たちからお願いがあるの。私を津田先生に会わせて」
 柚香ちゃんはもう一本のジュースを両手で握り締めていた。
「お願い」
 そして、そのジュースの缶を六道に差し出した。てっきり、自分用に買ったものだと思っていた私はその様子に多少面食らった。六道もそうだったのか、ずっとスケボーを弄っていた足の動きが止まった。柚香ちゃんは本気なのだと、改めて理解した。
「じゃあ、こっちからもお願い」
 六道は、柚香ちゃんが差し出した缶ジュースを手で押し返した。柚香ちゃんは差し出したそれを引っ込めることもできずに、手を彷徨わせた。
「先生の彼女を家から追い出したい。手伝って欲しい」
 そう言った六道は、今まで見たことないくらいに暗い目をしていた。
「あいつさえ居なくなれば、きっと前みたいに暮らしていける、多分」
 こうして、津田とその彼女を六道の家から引きずり出すための同盟を私たちは結んだ。私は、六道の家の事情も、柚香ちゃんの恋愛も自分には関係ないとは思っているけれど、それでも事の切っ掛けを作ったものとして、責任を果たさないとならないと思った。それに、柚香ちゃんが泣くのを見たくなかった。
 その日の夜、私は久しぶりに火元となったツイートを見た。いいねの数が一つだけ増えていた。柚香ちゃんのアカウントは、何の投稿もされていなかった。

「お待たせ!」
 次の日から、六道も自転車置き場へやってきた。いつも一緒に帰っている友達たちはどうしたのかと聞きたい気持ちはあったけれど、そんな雑談みたいなことをする勇気が私にはなかった。
「そもそも、あんたのお母さんが入ってるっていう宗教、なんて名前なの?」
「ああ、それなんだけど」
 六道は自分の自転車の前籠に突っ込んでいた通学鞄を取り出した。横からそっと覗いてみると、想像よりずっと整理整頓された綺麗な鞄だった。これだったら私のほうが汚いかもしれない……と思って、それを認めたくなかった私はそこから目を背けた。
 六道が鞄から取り出したのは、薄い冊子だった。駅の「ご自由にお取りください」のところに置いてある広告とか、旅行のパンフレットのようなそれはポップな表紙に神だとか救いだとかいう胡散臭い言葉を並べていた。愛で地球が救えるのなら、四十年以上前にもう救われていても可笑しくないだろう。世の中、最終的に信じられるのは神なんかじゃなく悪魔と堕天使だけだ。
「……怪しくない?」
 柚香ちゃんは苦いものを食べたときみたいに顔を歪めた。柚香ちゃんは大人っぽい見た目をしているのに、好む食べ物は子どもっぽい。買い食いするアイスは一本百円しないくらいの安いものばかりだし、唐揚げとか焼き鳥も好きだ。コーヒーは苦いから飲めないらしく、紅茶は香りが苦手らしい。そもそもお茶があまり好きじゃないなんて言いながら、タピオカの入ったチーズティーとか言うものの店のホームページを熱心に眺めていた。
 私と六道が自転車を押しながら歩く。柚香ちゃんは鞄を私の自転車に乗せ、身軽な格好で冊子をペラペラとめくりながら歩く。
「歩きながらは危ないよ」
「大丈夫。やばかったら千景が教えてくれるし」
 柚香ちゃんの甘えが擽ったかった。私はそれを否定できないし、きっと柚香ちゃんが転びそうになったら声を掛けるだろう。それを否定できなくなったことで、私は弱くなったのかもしれない。柚香ちゃんと出会ってしまったことが、私にとって良いことだったのか、悪いことだったのかはわからない。けれど、柚香ちゃんと出会っていなかったら、きっと私は今日も一人で帰っていた。
「この教会っての、学校から割と近いね」
 柚香ちゃんが冊子の最終ページを見ながら呟いた。
「……乗り込むって言わないでね」
 私がそう言うと、柚香ちゃんは少し間を開けてから、「言わないって」と返した。
「今直ぐ行こうなんて言わないけど、様子だけは見に行こうよ。私、教会って見たことない」
「それだったら期待しても意味ないぞ。教会って言ってるけど、見た目普通の家だし」
 六道の足が、地面の小石を蹴飛ばした。石はころころと転がって、最終的に用水路へと落ちた。水に落ちる音すらしなかった。
「一回だけ、先生の彼女に連れて行かれたことある。って言っても、中まで入ったんじゃなくて、外で別れてそのまま帰ったけど」
「何のために行ったの、それ」
「さあ」
 私は、ふと思いついた疑問を六道に投げかけた。
「そもそも、六道のお父さんはこれ知ってるの? 知らないんだったら、言ったら先生と彼女さんのこと追い出してくれない?」
「……言ったら、母ちゃんはどうなるんだよ」
 それ以上何も言えなくて、黙った。ハッとした。世の中には、相互理解に乏しいまま表面的に平和に過ごす夫婦、または家族というものも存在するのかと、当たり前のことを理解した。夫婦の形といったら、自分の両親か動画や漫画やゲームで見るものくらいしか知らない。相手の瑕疵一つで壊れるかもしれない夫婦関係、それはつまり今は壊れていない夫婦関係。
「母ちゃんも一緒に追い出されたら、母ちゃんはきっとあの教会ってとこに行っちゃうし、そうしたらもう会えなくなるかもしれない。……母ちゃんが、知らない人になる」
 適当な道の端に私と六道は自転車を止めて、私は柚香ちゃんから受け取った冊子を捲った。そこには、どんな神を崇めているのか、どうすれば救われるのか、教えとはがわかりやすく書かれていた。それだけの人間がこの教えを道しるべにして生きているのかは、私にはわからない。表面的に見れば、悪いことなんて何一つ書かれていないけれど、その冊子には得体の知れなさだけが詰め込まれているようで、恐ろしかった。
「そもそもあんたは、津田さんの彼女だけを追い出したいの? 津田さんごと追い出したいの?」
「……先生は、まあ、良いよ。あんなんでも、俺の先生だし、仲良かったし。今でも二人で一狩りしようぜってするし」
「私は嫌。津田さんの家でデートできないじゃん。お家デートが六道の家とか絶対嫌」
 ツン、と顔を背ける柚香ちゃんは文句なしに可愛い。これで恋人として名前が挙げられる相手が、同年代の人だったら完璧だっただろう。
「今までなんとなく聞けなかったけど、佐倉と先生ってどんな関係なの? ……付き合ってんの?」
 こいつはやはりバカだと思った。六道レベルの人間が津田の噂、炎上の写真を知らないはずがない。そもそも、お前のグループの男子たちが嬉々としてあの画像を拡散していたことを知らないなんて言わせるつもりはない。私は六道のツイッターアカウントも知っている。あまり稼働はしていないが、それでも存在している。
「……そうだけど。私は津田さんの恋人だし、津田さんも私の恋人」
 柚香ちゃんはそう言い切った。
「そっかぁ。……まあ、そうだよなぁ」
 六道は地面にしゃがみ込んだ。アスファルトの照り返しが暑いだろうに、六道は汗を掻きながらそれでも表情だけは涼しげだった。
「でも、先生、他にも俺らくらいの歳の子に手ぇ出してたんじゃないの?」
「あんなお遊びと一緒にしないで。私は、私だけは少なくとも本気だった」
 それは、柚香ちゃんが本気だったという話なのか、津田が本気だったという話なのか。私は津田の件だけは全面的に柚香ちゃんの味方なので、柚香ちゃんがそれで幸せになるのなら津田とよりを戻してほしい。
「じゃあ、あの人が津田先生のアパートに火を付けたっていうこと暴露したら?」
「それじゃああの女の素性が調べられて、六道のお母さんのこともバレるんじゃないの?」
 柚香ちゃんの言い分に、成る程と頷いた。不思議なことに、柚香ちゃんは津田のアパートが燃やされたこと自体には怒りを感じていなかった。あの火事が事故でも事件でもどちらでも良く、津田本人が無事で自分のところに戻ってきてくれたらそれでいい。柚香ちゃん本人がそうなら私がどうこうすることでもない。
「だから、こう……穏便に出て行ってもらいたいんだけど」
 考えが甘い。けれど、六道だってただの中学生だ。愚かであることは仕方が無いだろう。
「とにかく、六道。あんたはあの女の弱みとかなんか調べてきなさいよ。話はそっからでしょう」
「穏便って言ったんだけどなあ。もしかして脅して出て行かせようとしてる?」
「それはあんた次第じゃないの?」
 今日のここで解散となった。柚香ちゃんとは分かれ道のところまで一緒に帰った。
 生産性のない会議だった。大抵の委員会や学級会もこうだ。ダラダラと言いたいことばかりを言い合って、結局まともな意見が出ないまま妥協して終わり。今までそれは皆のやる気がないからかと思っていたけれど、もしかしてそれは本当に良い意見が思いつかなかった結果だったのかもしれないと思い直した。もしかしたら、私以外の愚かな中学生たちの愚かさは悪意のないものだったのかもしれないと思えるようになった。
 マンションの駐輪場に自転車を止める。今日は小学生の集団はいなかった。もしかしたら少し遠くの公園まで出かけているのかもしれない。エレベーターに乗って、スマホの電源を入れる。ロック画面は今日が金曜日であることを教えてくれていた。私はふと思い立ってカレンダーを開き、明日の予定を入力した。
『津田のアパートを見に行く』

 休日に家から出るのなんて久しぶりだった。休みの日は勉強をしているか、ゲームや動画を見るかツイッターをしているか、とにかく家でできることばかりしていたから、休みの日に私が出かけると言ったらお母さんは、私が柚香ちゃんことを漏らしたときみたいに少し驚いて、そして微笑んだ。ただ、私の服装がジャージなことに納得がいっていなかったようだった。
 私は自転車を漕いで、学校を通り過ぎ、津田のアパートの方向へと向かった。細かい場所は知らないけれど、近くまで行ったらわかるだろうとどんどん進む。
「あ、」
 そのアパートは案外あっさり見つかった。学校を通り過ぎてから自転車で五分。想像よりもしっかり建物の形を残した三階建ての小さなアパートだった。かつて津田は、ここで暮らしていたのだ。
アパートの敷地はカラーコーンとバーで外と仕切られていた。立ち入り禁止ということだろう。乗り越えて入ることは簡単だが、どこで誰が見ているかわからないのだ。軽率なことはできない。警察はまだここを調べているのだろうか。黒く煤けたアパートを見上げながら、私は何も知らないなと実感した。無知の知と言うと、古典の笹原が言っていた。六道に聞いたらわかるだろうか、私はスマホで何枚か写真を撮って、アパートから少し離れたところに設置されていた自動販売機でコーラを買った。自転車に凭れて、スマホを弄りながら時々アパートを観察した。こうしていると、探偵にでもなったような気分だ。アパート側からこちらは見えない位置にいるから、今なら何が起ってもこっそり見ていられるだろう。
現実はそんなに甘くなく、私は十数分に渡って変化のないアパートを見つめるだけだった。もうこれを飲んだら帰ろうとペットボトルを傾けた瞬間、話し声が聞こえた。私は息を潜めて自転車の影に身を潜めた。遠い声が段々と近づいてくる。声の主の姿を捉えた瞬間、私は声を上げそうになった。
 六道と女の人だ。もしかしたら、あの人は津田の彼女だという女かもしれない。六道の家で見たような女性らしい格好じゃなく、黒いパーカーにスウェットのズボンを履いているから印象が全然違う。六道本人も似たような格好をしている。あの人がこのアパートを燃やしたのかと思うと、緊張から鼓動が早くなる。
 二人が何を話しているのかはよくわからないが、あまり良い雰囲気には見えなかった。私は息を潜めて二人をのぞき見た。
「共犯者」
 その言葉に肩が跳ねた。両手で自分の口を押さえた。女の口から出た言葉だ。私と柚香ちゃんを示す言葉でもあった。二人は暫くアパートを見ながら話をしたかと思うと、すぐに帰っていった。私は自転車に凭れかかったまま、自分の口を押さえた格好のまま、暫くそこから動けなかった。
 嫌な言葉だけ、しっかりと聞き取ってしまった自分の耳が嫌だった。女は六道を見ながらはっきりと、『お前も共犯者だ』と言った。お前、とは六道のことだろう。女の犯した罪と言ったら、私はこのアパートを燃やしたことしか思いつかない。柚香ちゃんに言わせたら津田の彼女という立ち位置で津田と一つ屋根の下で暮らしていること自体が罪なのだろうが、今はどうでもいいだろう。
 嫌なことばかり考えてしまって動けなかった。どうして六道はあの人がアパートを燃やしたことを知っていたのか。昨日六道は女に連れられて教会に行ったと言っていたが、女が六道を連れて出かける理由は何か。どうして六道は女と津田の両方に出て行ってもらいたいじゃなく「女に出て行ってもらいたい」と言っていたのか。
 私が動けるようになったころには、ペットボトルの中に残っていたコーラは温くなっていた。冷や汗なのか、この暑さのせいなのか汗で、着ていたTシャツがびしょびしょに濡れていた。私はポケットの中のスマホを取り出した。ツイッターのDMを開く。柚香ちゃんにメッセージを送ろうとして、何と言えば良いのかわからなくなった。私はそのままスマホをポケットにしまい、自転車に跨がった。家まで一心不乱にペダルを漕いだ。

 翌週の月曜日、体育の授業中ふらついている私の手を引いたのは、柚香ちゃんだった。
「どうしたの、具合悪い?」
 柚香ちゃんは私のおでこに手を当てた。柚香ちゃんの手が冷たくて気持ち良かった。
「昨日、なんか、寝れなくて」
 今日の授業はチームに分かれてバスケの試合だった。私も柚香ちゃんもそれぞれ違うチームに強制的に入れられていたが、一チーム五人以上いるから私も柚香ちゃんも当たり前のように試合に出ず、コートの端っこで座っていた。体育館の隅っこには予備のボールがいくつも転がっていた。
 バスケ部らしい近藤さんが無双しているのをぼんやりと見ていた。陸上部で副部長をしているという渡辺さんも悪くはないが、近藤さんに比べて技術が拙い。得点係をしている坂木さんが大声で近藤さんの応援をしている。坂木さんは運動部じゃなかったっけ、と考える。いつも近藤さんと一緒にいるからてっきり同じ部活だと思っていたのだが、それにしては近藤さんはバスケが下手だ。
「ねえ、千景? 聞いてる?」
 柚香ちゃんの顔が想像よりずっと近くて思わず仰け反る。壁に頭を思い切りぶつけてしまい、呻き声が出る。
「ちょっと、何してんの?」
 柚香ちゃんが心配そうに声を上げる。近くで同じように休んでいた女子の数人がこちらを見る。
「体調悪いなら保健室行こ。頭もぶつけちゃったし、見て貰わないと」
 そう言うと柚香ちゃんはいつぞやのときのように私の手を引いた。そして偶々目があった女子に「何か聞かれたら保健室行ってるって言って」と言い残して、真っ直ぐ体育館から出た。やはり田口先生は私たちに気付くことなく、試合に夢中になっていた。
「柚香ちゃん」
「何? 歩くの速い?」
「なんで田口先生のこと嫌いなの?」
 柚香ちゃんは私の顔を見て、それから足元を見て、立ち止まった。暫くそのまま何かを考えて、小さな声で「キモいから」と答えた。
「先生のくせに自分のやりたいことしかやらないし、自分の見たいものしか見ない。あと可愛い系の女子には優しい。だからキモい」
 柚香ちゃんの言う「キモい」がしっかり言語化されたのは初めてのような気がする。柚香ちゃんが何を思って、どうして嫌なのかを私は聞いたことがなかった。人を、知ろうとしてこなかった。
「私ね、土曜日に六道のこと見たんだ」
「はあ」
「津田先生の彼女って言う人と一緒にいた」
「……そう」
「私、そういえば津田先生のアパート見てないなと思って。行ってきたんだ」
 柚香ちゃんに、私の見てきたもの、そして推測を全部ぶちまけた。体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下は太陽の熱が直射する。いつかのときみたいに授業の声が遠くに聞こえる。静かだった。私が話し終えるまで、柚香ちゃんは辛抱強く黙って聞いてくれていた。
「……ごめんね」
 柚香ちゃんの口からそんな言葉が出てきたこと私は少なからずショックを受けていた。
「私が六道は役に立つとか言ったから。……でも六道は私らのツイッターのことは知らないから、今ならまだ大丈夫だよ」
 柚香ちゃんは私が落ち着くまでずっと、何度も大丈夫と繰り返した。
「私が言い出したことだし、千景は気にしないでいいよ。……まあ、今までみたいに六道と作戦会議的なことはできないけど」
「うん……」
「とりあえず保健室行こう。ちょっと寝たほうが良いよ、顔色最悪だし」
 今日はあのときみたいに柚香ちゃんは保健室に居座ることなく、私を送り届けてすぐ体育館に戻っていった。あんなに嫌っている田口先生のいる体育館に、あの柚香ちゃんが素直に帰っていった理由を私は考える。柚香ちゃんは大丈夫と言っていたが、私はそれを信じてはいけないのだろう。
 保健室のベッドは冷たくて、非日常の柔らかさで私を受け止めた。私は消毒液の香りの中、すぐに眠ってしまっていた。柚香ちゃんの手で、私の制服が保健室に届けられていたことを知ったのは、この時間が終わるチャイムが鳴った後だった。

 六道蒼也と佐倉柚香が揉めていたという目撃情報がクラス内で出回っていた。私が保健室から教室に戻ったころには、不機嫌そうな柚香ちゃんと、頬を赤くした六道がいたから事実なのだろう。あの佐倉柚香に張り飛ばされたということで、六道はクラス中の男子から弄り倒されていた。
 その日の放課後、柚香ちゃんは自転車置き場には来なかった。勿論六道も。私は下駄箱に柚香ちゃんの靴がないことを確認して、六道の自転車もないことを確認して、のろのろと自分の自転車を押して歩き出した。乗ったほうが速いのに、そんな気分になれなかった。この胸のもやもやの正体が掴めなくて、苦しくて、目の奥が熱かった。
 柚香ちゃんからDMが送られてきたのは、その日の晩だった。直接話したいという柚香ちゃんに、LINEのQRコードを送るとすぐに通話の着信音が鳴った。こんな遅い時間に電話をしていると知られるとお母さんに怒られると思い、私は急いでそれに出た。
『もしもし?』
 スマートフォンからは、普段より遠慮がちな柚香ちゃんの声が聞こえた。
「もしもし……」
 小声で返す。こうして柚香ちゃんの声を聞いたのは今日が初めてのことだった。柚香ちゃんの声は、不安定に聞こえた。それが電話越しだからというわけでないことはわかる。
『お願いがあるんだけど』
「うん、何?」
『……ツイッターのアカウント、消してほしい』
 柚香ちゃんの言葉は突然のことではあったけれど、すぐに納得できるものでもあった。それから柚香ちゃんは、そう思うに至った経緯を話してくれた。
 今日の放課後、柚香ちゃんは六道に津田に会えるように取り計らってくれと頼んだらしい。六道自身が津田のアパートを燃やしたかもしれないことは、言わなかった。言えなかったのかもしれない。
 六道は、それを断った。柚香ちゃんが何と言おうが「できない」の一点張りだった。そうして柚香ちゃんは六道の頬を叩いたらしい。叩いて、そして六道に頼らないという選択肢をとった。六道よりも、私よりも速く教室を出た柚香ちゃんは一度私と行った記憶を辿って六道の家まで向かった。そこで一人、ずっと張り込みをしていたらしい。
 柚香ちゃんは物陰に隠れて、津田本人が出てくるまでずっと待っていた。そして、六道が帰ってきた後、もう日も暮れたころに津田は六道の家から出てきた。仮にも修行のために居候しているという体なのだから、そんな時間に外出するなと言いたかったし、柚香ちゃんだってそんな時間に一人で出歩くのは良くないと言いたかった。そう言ったら、きっと柚香ちゃんは「真面目ちゃん」「良い子ちゃんぶりっ子」と冗談っぽく言うのだろう。それくらいには、彼女と私の関係性は柔らかいものになっていると、思っている。
『もう、あの人は私の好きな津田さんじゃない』
 電話越しで柚香ちゃんの表情はわからなかったが、泣いているのだろうな、と思った。そう想像させるくらいに、柚香ちゃんの声が弱々しかった。私は、柚香ちゃんが泣きたいときに傍にいることはできないのか、と思った。傍で話を聞くことができない、柚香ちゃんが泣いているときに慰めることもできない、私と柚香ちゃんは友達じゃないから、できない。
 津田と話したらしい。説得しようとした。ここを出て、あの女性と別れて、自分と暮らそうと。あと一年ちょっとしたら、自分も働くことができると。柚香ちゃんは、津田と二人で生きて行く覚悟があったのかもしれない。その言葉の何割が本気だったのか、私には推し量れない。私には、天地がひっくり返っても言えないことだった。
 津田は、ダメな大人だ。当たり前のように子どもに手を出し、柚香ちゃんを泣かせた。それなのに自分には別に大人の恋人がいた。柚香ちゃんを裏切った。津田は柚香ちゃんを拒絶した。もう関わるなと、突っぱねた。引き留めようとする柚香ちゃんを突き飛ばして、逃げた。もう柚香ちゃんは泣いていることを隠そうともしていなかった。私もそれをわかっていて、聞き取りづらい涙声について触れることはなかった。
 柚香ちゃんの話を聞いて、柚香ちゃんはやっと津田の呪縛から解き放たれたのだと感じた。柚香ちゃんは私とは全然違う女の子だ。泣く柚香ちゃんと向き合って、やっとそのことを理解した。
 私はずっと、私と同じ人を求めていて、理解してくれる人を探していたのかもしれない。柚香ちゃんに、ずっとそれを期待していた。だって、柚香ちゃんは他の同級生と圧倒的に違う存在だったから。
 柚香ちゃんの話は段々要領を得ないものとなっていった。それでも私は柚香ちゃんが満足するまでずっと話を聞いた。電気を消して、布団に潜り込んで、眠っているふりをしながら、柚香ちゃんの話に耳を傾けた。不思議と眠くはならなかった。保健室で沢山お昼寝をしたからかもしれない。だから、柚香ちゃんがどれだけ話し続けても、私はその話を聞くことができた。
 気がついたら、外が明るくなっていた。柚香ちゃんとは通話画面で繋がっていたが、柚香ちゃんはもう長いこと沈黙している。眠っていたらいいな、と思う。眠っている間は、つらい夢を見ていないと良い。そう願う程度に、私は彼女のことが好きなのだ。私にとって唯一無二の女の子。私と柚香ちゃんは友達ではないけれど、共犯者ではあったから。
 私は、ツイッターのアカウントと、写真フォルダに入っているツイッターのスクリーンショットを全部消した。それから少しだけ眠って、学校に間に合う時間に起きて、制服に着替えて、髪を丁寧に梳かしてから家を出た。ほんの少しだけ背筋を伸ばして、はしゃぐ小学生の女の子グループを通り過ぎて、自転車に乗って学校に向かった。
 柚香ちゃんは、今日もホームルームぎりぎりの時間に登校していた。いつも通りの雰囲気を保ちながらも、時々眠そうに目を擦っていた。
 その日の放課後、自転車置き場に現れた柚香ちゃんは私に小さな紙袋を渡してきた。
「何、これ」
「化粧水。あと、乳液と、ヘアオイルと、ヘアブラシ。このブラシ凄いんだよ。めっちゃ髪ツヤツヤになる」
 私はこの前のお泊まり会のときにした約束を思い出していた。
「一緒に、買いに行こうって言ったのに」
「私の使ってるやつの買い置きとか、小分けにしたやつとかだから、千景の肌に合わなかったら使うの止めて、捨てていいから」
 なんだか形見分けみたいで嫌だった。けれど、形見なら貰わないわけにはいかなかった。私は押しつけられたそれを嫌々ながら受け取った。
「……新しいの買うまで、使うね」
「うん。そうして」
 そして、柚香ちゃんと一緒にいつもの分かれ道まで歩いて帰った。津田の話も、ツイッターの話も、なんなら学校の話もしなかった。それでも案外、話題というものはあるもので、好きな食べ物、休日の過ごし方、お互いの家族のことを沢山話した。帰り道の十数分では全然足りないと感じたのは初めてのことだった。
 柚香ちゃんの家は、お父さんだけだということも初めて知った。お母さんは? と尋ねると「知らない」と言われた。柚香ちゃんが知らないというのなら、本当に知らないのだろう。私はそれ以上、尋ねなかった。知る必要があるとか、ないとか、そういうことではなく柚香ちゃんは本当に今、母親がどこにいるのか知らないのだろう。
「パパは、私のこと好きだとは思うけど、あの人、父親に向いてないんだよ。仕事してばっかだったから。あと女の趣味悪いと思うよ」
 千景のお父さんとは全然違うタイプ。そんな柚香ちゃんの呟きに苦笑を返した。
「うちのお父さん、別に真面目な人とかじゃないよ。コミュ障なだけだよ。私に興味あったら寝坊しそうな娘を放置して仕事行ったりしないし、そもそも泊まりに来た柚香ちゃんにノータッチなの、変だと思うよ」
「それは、ちょっと思った」
 私たちは顔を見合わせて笑った。お互い、どうしようもない家だねと言って、笑った。本当は、もっと話をしたかった。柚香ちゃんと話をして、いっぱい遊んで、柚香ちゃんと一緒に化粧品とか服とかを買ってみたかった。柚香ちゃんに、面白いゲームとか、良い音楽とかを教えたかった。
「千景。しんどくない?」
 心細そうな表情で、柚香ちゃんは私に問いかけた。綺麗に磨かれたローファーに包まれたつま先が、やんわりと私の踵を蹴飛ばした。痛くなんてない、くすぐったいくらいだ。
「大丈夫だよ」
 私は背筋を伸ばした。
「生半可な現実じゃ、私の心は動かせないから」
 決まったな、と思った。良い台詞だったのではないかと私はほくそ笑む。柚香ちゃんは、一瞬呆れたように眉を下げ、それから笑った。私はもう一度、意識して背筋を伸ばした。柚香ちゃんの姿をイメージしながら、彼女を真似るように。そうして、私たちは別れた。

 津田が児童買春容疑で逮捕されたのはそれから暫く経ってからのことだった。通報をしたのは例の写真に映っていた少女の親だったらしい。少女が、自分の写真が自分の知らないところで拡散されていることに気付いたことがきっかけだった。私や他のクラスメイトのところにも警察官がやってきて、私たちは画像の拡散に関与したということで厳重注意となった。お母さんには少し怒られて、お父さんは何も言わなかった。
 津田の彼女だという女も、芋づる式に捕まったらしい。罪状は放火だ。私は考えた。彼女は彼女で、本気で、津田のことが好きだったのではないかと。だから津田が自分より十歳くらい年下の子どもと付き合っていても、それを止めようとしなかった。それを隠そうとした。誰にも見つからないように、全て灰にした。そして、自分の出来る手段で連れ出した。
 私は考えた。彼女は、津田のそんなどうしようもなく、おぞましいところも含めて愛していたのかもしれない。もしかしたら、そんなことはなかったけれど、それを許しても有り余るくらいに津田のことが好きだったのかもしれない。
 私は考えた。柚香ちゃんは、津田のために同じことができたのか。そうする選択肢をとることが、万に一つもあったのだろうか。
 六道の家は、表面上今までと何も変わらない。きっと六道のお父さんは全てを知っただろうし、お母さんは今更宗教を止めてはいないだろう。そして、六道は津田の彼女の放火に関わったとして、一度警察に連れていかれた。連れていかれて、そして直ぐに帰ってきた。何があったのかはよくわからないが、六道はその後も普通に学校に来ていた。仲の良い友達数人には事情を話したようで、そいつらはそいつらで何かを言いふらすようなことはしなかった。チャラチャラした集まりだと思っていたけれど、実はきちんと友達をやっていたのだな、とほんの少しだけ感心した。
 六道とは、少しだけ話をした。六道はうちのマンションの近くで私を待っていた。いつか、私と柚香ちゃんが六道の家に行ったときのことを思い出した。六道と私は、マンション内の公園の端っこ、人目に付かない遊具に腰掛けて、話をした。
「なんか、全部ごちゃごちゃになって、ごめん」
「六道くんが謝ることないじゃん……」
「まあ、でも、俺、雛森たちに秘密にしてたじゃん」
 私は口を噤んだ。時間を稼ぐように、自分が腰掛けている遊具を見下ろした。ところどころ塗装の禿げた、不細工なパンダの形の遊具だ。小さいころは、これが好きでいっぱい乗りたかったけれど、六階に住んでいる一つ年上の笹川が怖くて、あまり近づけなかった。当時はあいつがこの公園のボスだった。もう笹川だってこんな遊具に構っていられる年齢ではないから、やっと何に恐れることもなくこれに乗れた。
「あのね」
 話す内容を考えながら、口を開く。
「あのね、私と柚香ちゃんも、六道くんに言えてないこと、ある、よ。……だから、無理に、言わなくても。私には責める権利は、ないから」
「そっか」
 暫く、遊具に腰掛けたまま二人でぼんやりとしていた。私のお尻の下のパンダも、六道の下の犬もぼんやりしているように見えた。最近、この遊具で遊んでいる子どもを見ない。あの子たちには、こんなのよりも、ずっと良いものがいっぱいあるのだろう。エントランスでよく鉢合わせるあの小学生たちだって、こんなマンション内の小さな寂れた公園でなんて遊んでいない。
「母ちゃんは、人質だったんだと思う。最初は単純に住む場所探してたんだと思うけど、いざうちに来て、丁度よく言うこと聞かせられるやつがいたから」
 六道は苦しそうに息を吐いた。その両手は、ズボンの膝をぐっと握り締めていた。
「俺のせいで、母ちゃんは人質になったんだと、思う」
「……そう、かも」
 放火の手伝いをさせられたと言っても、六道がさせられたことなんてコンビニでライターを買ったり、女に指示されたゴミを駅のゴミ箱に捨てたりしたくらいのことだったらしい。言ったら、お前の家族をめちゃくちゃにしてやると脅されて、無理矢理やりたくもないことをやらされた中学生。しかも平均よりも小柄で子どもっぽい六道のことを表だって責められる人はいないだろう。だから六道は今こんなところにいる。
「全部バレて、全部ぐちゃぐちゃになったけど、俺、なんかほっとしてる」
「うん」
「想像してたより、みんな、話ちゃんと聞いてくれたし、父ちゃんも大丈夫って言ってくれたし。想像してたよりずっと、大丈夫だった」
 六道の言う大丈夫がどの程度の大丈夫なのかを、私は知らない。けれど、六道を慰めるのは私じゃないのだろうなと思う。
「そっか」
 私も、六道に話をしたほうが良かったのかもしれない。私のやったこと、私が責められるべきこと。津田のこと、柚香ちゃんのこと、先生のこと。それらを話したら、きっと六道との釣り合いは取れるのだろうと思うけれど、話したら、柚香ちゃんに悪いな、と思った。真っ先に柚香ちゃんの顔が浮かんだのだ。だから私は消してしまったものたちについて、何も話さなかった。代わりに、
「良かった」
とだけ、言った。六道は、「ありがとう」と言って、一回だけ私の手を握って、そのまま振り返らずに帰っていった。自転車が立ち漕ぎのし過ぎで左右にふらふら揺れていた。六道の姿が見えなくなってから、あれが握手というものだということを理解した。
 柚香ちゃんとは、話していない。あの帰り道が最後だった。両親と、公式アカウントしか友だち登録されていなかった緑色のアイコンには、「Y.」というアカウントとの通話履歴だけが夢みたいに残っていた。
 暫く授業があったり、なかったりして、気がついたら私は三年生になっていた。クラス替えがあって、私は後ろの席の女の子に声を掛けられた。切っ掛けは、「消しゴム貸して」とかそんなことだったような気がする。あまり覚えていない。
 私は彼女の名前を知って、彼女のあだ名を知って、彼女の去年のクラスを知って、彼女のLINEのアカウントを知った。彼女と繋がるために、新しくツイッターのアカウントも作った。彼女の名前は、梶原梨紗子と言った。リサリサと呼んでくれと煩い彼女は、私がどれだけ素っ気ない態度を取っても気にせず話しかけてきた。いつの間にか、リサリサの友たちだという子も私に話しかけるようになっていた。
 相変わらずレベルの低いクラスメイトに、姦しい女子たち、バカな男子たち。去年と何も変わらないけれど、いつの間にか私は自分から二人に話しかけるようになっていた。二人と過ごすようになって、ゲームや芸能人の炎上ネタのスクリーンショットばかりだった写真フォルダに、三人で撮った写真が増えていった。人間や、食べ物、景色の写真がこんなに増えたのは初めてのことで、私はちまちまとそれらの写真をフォルダ分けしていった。
 二人は、私の趣味を否定しない。しかし、共感もしなかった。私がそんな二人との距離感が心地良いと認めるまで、そんなに時間はかからなかった。
「チカチカ! ちょっとトイレ行ってくるね!」
 リサリサは、私にもあだ名を付けた。お揃いだね、と単純なそのあだ名を指して、得意げに笑う彼女のことを、私はどうしても憎めなくて、自然に浮かんだ表情のまま頷いた。
「わかった。リサリサとユゥユゥも人多いから気をつけてね」
 二人は私に大きく手を振って、トイレの列に並ぶため去っていく。修学旅行を友だちと回るなんて初めてのことだな、と私は初めて降り立った土地で浮き足立つ。小学校のときは、人数合わせで入ったグループで一人ぼっちだったから。
 お土産もの屋が並ぶ通りを、一人でふらふらと歩く。人通りが多いが、ぶつからないようにして歩くのは得意だった。あの様子ならトイレは結構混んでいるだろう。お母さんとお父さんに何を買って帰ろうかと考える。小学生のときは、こんな余裕なかった。どうすればより惨めにならないかばかり考えていた。
 お菓子の試食を順番にして時間を潰していたら、目の端に見覚えのある黒髪がよぎった。思わず。名前を呼びそうになって口を噤んだ。柚香ちゃんとは、あれから一度も口を利いていない。ツイッターも消した。だからあのDMのメッセージも全部消えている。クラスも変わった。柚香ちゃんは一人で、下を向いてスマホを弄りながら歩いていた。柚香ちゃんは、一人で歩いていた。
 私は先ほど名前を呼ばなかったことを後悔した。柚香ちゃんの背中が、いつの日だかに見た、弱々しいものととても似ていたから。あの事件の後も、柚香ちゃんはいつも通りホームルーム直前の時間に登校してきて、一人自分の席に着いていた。休むことはなかったし、保健室登校なんてこともなかった。体育だってきちんと受けていた。柚香ちゃんは強かった。強くて、綺麗な女の子だと思っていた。けれど、私の耳にも柚香ちゃんと津田の関係についてクラスメイトたちが噂していることが聞こえていた。きっと、柚香ちゃん本人にも聞こえていたことだろう。
 柚香ちゃんは、今まで以上にクラスで浮く存在になっていた。あの、優しく、詰めの甘い副担任からも腫れ物に触れるように扱われていた。そのまま、私たちは進級した。
私は友だちを待っていたことを忘れて、柚香ちゃんを追いかけた。人を掻き分けて、あの艶やかな黒髪を追う。柚香ちゃんは、どうせ行く当てなんてないのに、足を止めない。不安そうにしていても、立ち止まらないし、迷わない。
 私は必死になってその背中を追った。柚香ちゃんに追いついたときには、私はもう息も絶え絶えだった。柚香ちゃん本人は涼しい顔で、土産もの屋さんの一角で売られているソフトクリームのメニューを眺めていた。
「あ、あの、ソフトクリーム、ダブル、二つ」
 走ったせいで上がった息のまま注文をすると、柚香ちゃんが驚いたように振り返る。彼女の顔を見ること事態がとても久しぶりなことを、思い出す。柚香ちゃんは記憶の中の彼女と変わりなく、相変わらず顔が可愛くて、ふてぶてしい。
「二つで六百円ね」
 地元の訛りが濃いおばちゃんの言葉に頷いて、私は財布の中から硬貨を二枚取り出し、渡す。おばちゃんは皺のある顔でにっこり笑い、コーンを二つ手に取った。ソフトクリームが機械から絞り出される二色を、私は柚香ちゃんの手を掴んで待った。柚香ちゃんは、黙ってそこにいた。
「はい、ソフトクリーム二つ」
 おばちゃんはそれぞれ私と柚香ちゃんにソフトクリームを差し出した。迷いなく受け取った私に対し、柚香ちゃんは恐る恐るといった風に紙に包まれたコーンを手にした。不安そうに私の顔を見る柚香ちゃんが、柚香ちゃんらしくなくて笑った。私は彼女の手を掴んだまま、暫く歩いて人通りが少し少ないところまで出た。二人で適当な段差に座って、ソフトクリームを食べた。
「……お金」
「いいよ、別に」
 会話はなかった。それでも良かった。柚香ちゃんの纏う空気が少し和らいだから、それで良かった。ソフトクリームを完食してもなお、私たちの間に会話はなかった。話さないとならないことばかりあるようで、その実、何も話す必要なんてないのかもしれないとすら思っていた。柚香ちゃんは食べ終わったソフトクリームのゴミを手の中でぐしゃぐしゃに丸めて、転がし続けている。
「班の人のとこ、戻らなくていいの」
 最初に口を開いたのは、柚香ちゃんのほうだった。
「あー……まあ」
 思い出して、スマートフォンを確認する。リサリサから心配のメッセージが入っていた。私はそれに対して、「友だちに会って、少し喋っている」と打ち込み、送信する前にそれを消した。
『ごめん、去年のクラスメイトに会って、ちょっと喋ってる。どっか移動するなら連絡ちょうだい』
『おっけー! 暫くユゥユゥとお土産見てるから、どっか行くときまたLINEする(^^)v』
 リサリサは他クラスにも友だちが多く、今回の修学旅行でも同じようなことが何度かあった。だから、あまり気にしないだろう。
「柚香ちゃんは、なんで一人?」
「……別に。私がいないほうが良いっぽかったから」
 可愛い顔をした子だな、と思う。同時に可愛げのない子だな、とも思う。普段下ろしている髪を三つ編みにして、普段付けないようなヘアピンを付けたりして、柚香ちゃんなりに修学旅行を楽しみにしていたようなのに。結局台無しにするのは自分なのだ。
「そっか」
 でも、私は柚香ちゃんのこういうところを知っている。知っているし、理解して、共感してしまう。柚香ちゃんの真意は理解できなくても、柚香ちゃんという人間を知っている。もしも、あと一年クラス替えがなかったら、リサリサと近くの席にならなかったら、リサリサが消しゴムを忘れなかったら、きっと私の今はない。
「あのね、私ね。友だちできたよ」
「……へえ」
 柚香ちゃんの声は震えていた。けれど、表情は普段通りの何にも興味がないとでも言うような、初めて私が柚香ちゃんと目があったときみたいなものだった。
「良かったじゃん。もうこれで私みたいなのと連む必要もないし、そもそもクラス違うのになんでここにいんの? 帰れば」
 柚香ちゃんのその態度になんだか可笑しくなって笑ったら、厳しい声が返ってきた。舐めてるの? とか、何のつもり? とか言っていたけれど、それすら可笑しい。
「あんなに不安そうに歩いてたくせに」
「は? 何、記憶捏造してる? 千景のくせに生意気」
 柚香ちゃんの声で名前が呼ばれるのも久しぶりだった。私のことを名前で呼ぶのは、親以外は柚香ちゃんだけだ。私がけらけらと笑っていると、物凄く以外そうな声で「雛森?」と私の名前が呼ばれる。
「げ」
 それと同時に、柚香ちゃんが心の底から嫌そうな声でうめいた。
「久しぶり~。雛森も佐倉もクラス変わっても相変わらず仲良いのな」
 そこには、脳天気な笑顔を浮かべた六道が立っていた。
「荷物、多くない?」
 柚香ちゃんは眉を顰めた。彼女の美意識に反しているのだろう。六道の手には重そうなビニール袋が二つに、紙袋が一つ。そのうえリュックまで背負っている。私も柚香ちゃんと同じように、「鞄、大きいね」と疑問を投げかけた。
「あぁ、うち、こっちに親戚いるから。挨拶行ってこいって父ちゃんに言われて。自由時間の間にちょっと寄ったら、あれもこれもって持たされた」
 荷物を全部地面に置いた六道は、ごそごそとビニール袋を漁り、「これやる」と、私には煎餅のお得用パックを、柚香ちゃんには三本入りのみたらし団子を渡した。
「ここら辺の名物?」
 私が聞くと、六道は首を横に振った。
「いや、なんか普通に家にあったもん手当たり次第持たされたから」
 そういう親戚付き合いというものには縁がないから、あまりわからない。柚香ちゃんもそうなのか、片手にソフトクリームのゴミ、もう片手にみたらし団子のパックを持って、呆然としている。
「ていうか、マジ、二人で何してんの? 二人で回ってんの?」
「いや、私は班の子とはぐれた」
「……同じようなもん」
 すると六道は楽しそうな表情を浮かべ、じゃあ三人で回ろうと言い出した。私も柚香ちゃんもこいつ、何言っているんだと顔を見合わせ、久しぶりに互いの顔をしっかり見たなと思っていたら、突然柚香ちゃんがふっと笑った。
「とりあえず、なんか買おう! あっちに買い食いできる店あるから!」
「うーん、私らさっきソフトクリーム食べたからなあ」
「え、ずるい! 俺も食べよっと」
 大荷物を持ったまま騒ぐ六道に私が笑うと、柚香ちゃんも釣られて笑う。
「行こ」
 私は手早く、新しくできた友だち二人に暫く戻らないことを連絡して、それからスマートフォンを鞄に直し、柚香ちゃんの手を取った。今度は柚香ちゃんも私の手を握り返してくれた。相変わらず、ひんやりとした手だった。

「あ、チカチカ帰ってきたよ」
 ユゥユゥの声に、リサリサが顔を上げる。ぱっと笑って迎え入れてくれるリサリサと、仕方ないなとばかりに微笑むユゥユゥに大きく手を振った。二人とも、私が来るまでホテルのロビーで待っていてくれていたし、いつの間にか私も二人が待ってくれていることを当たり前に思っていた。
「ギリだよ~、もうちょっと遅かったら学年主任ぶち切れてた」
「まじ? それは困るな」
 時間を確認するためにずっと鞄の中に入れっぱなしにしていたスマートフォンを取り出した。スリープを解除すると、成る程集合時間ギリギリだ。
「あれ、チカチカ、ロック画面変えた?」
 リサリサとユゥユゥが両側からスマートフォンを覗き込む。
「あー、うん。……前のクラス一緒だった、友だちと撮ったんだ」
 そっとスマホの画面を撫でる。ロック画面に収められた私と、柚香ちゃんと、六道の表情は、中々に良い笑顔だ。

表紙:いもこは妹 さんhttps://www.pixiv.net/artworks/56126639

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?