管理人の雑記帳 DJ≒選曲家だった。

タイトルのまんまです。

2010年3月~2018年9月まで西宮市の障害者の自立支援センターで介助者として働いていて、働き始めた時に事務所が移転するという話があってその事務所は自立支援センターでは珍しく3階建ての持ちビルのような事務所で、音響に金をかけて館内放送が出来るようにすると。そのセンターは年中海外の研修やら日本国内の障害当事者の運動家や支援者がきてはパーティーをしたり、忘年会ではかなり凝った出し物をしたり、公的な集まりの場所にもなってたりで音響設備が必要だったんだと思います。

それで平日の昼間食事中にラジオやろうって提案があったらしいです。それはラジオをやることでセンターのスタッフの会話力を上げるのが主なる目的で、自立支援センターの役割の1つに差別の状況や自分達の要望を伝える役割があり、ラジオをやればその力が付くんじゃないかっていう狙いがあってのことらしい。

そのラジオを始める前にセンターの代表やスタッフの人達とコミュニケーションをしてた事もあって誘いを受け、最初は断ったんですが、あるスタッフさんの誘いを受け最初の一年間は準レギュラーとして加わってました。

実際月~金まで30分程度、曜日毎それなりの色があって楽しくやっていました。ちなみに自分が担当した金曜日は音楽好きが集まっていたので割りと音楽の話題中心でした。

翌年、正式にメンバーになり更に本格的に音楽に特化した放送になりテーマを決めてパーソナリティーが3人いたんですが1曲ずつ持ち寄って紹介するっていう事をやってました。

前にあるスタッフさんに誘われたって書きましたが、その人は実はラテン音楽に特に精通していて専門誌のライターをやっていた経歴がありラロロドリゲスやラリーハーロウなんかと親交があった方だったのです。

その年は自分とそのスタッフと音楽好きな女性の介助者の3人でやってて楽しくやっていた思い出があります。

その次の年はそのスタッフさんがスペイン語も堪能で、そのスキルをいかして中米の障害者の自立が遅れてる国に支援をする事業に参加することもあって他のスタッフと行う事に。

そこのセンターのスタッフは年に何回も国内外に出向き障害者の自立を広める活動をしていて、他の曜日のパーソナリティーであるスタッフの人も抜けがちになったり、スタッフの配置転換でできなくなったり、そのセンターの短所である飽き性のせいもあり(笑)2年後には金曜日、しかも自分だけがラジオをやってる状況になってました。

月~金でやってたときは他の曜日と差別化もありマニアックな、でも良い曲っていうのを選曲できたけど1人、週一っていう状況ではそうもいかずヒット曲やらそこにいる介助者、スタッフ、障害当事者の年代似合わせた曲やら網羅して選曲していくようになりました。

そして時間も本来30分のはずが、1時間、1時間半、2時間、仕事を辞める1年間はもう2時間半くらい好きに選曲して流してました。音源元は基本事務所の音響用のPCからYouTubeで流すっていう海賊ラジオ(笑)たまに自分が買って気にいったCDをかけたり、気になるアーティストのアルバムを全部借りて自分なりに選曲してプレイリスト作って流すみたいな事もやってました。

実際ざっくり自分の中でテーマを決めてその場、その場で選曲して繋ぐっていう作業が楽しくてやってたみたいな事もあったり踊らせることが主目的ではないからこその自由度があって一人でやってたときはそれがモチベーションになっていったのが間違いありません。

そんなこんなでやっててクレームが来たのがたった一度、ラジオそのものを反対するような怪文書が事務所の質問箱に入っていたけど結局犯人が分からず他に反対してる人もいなくて無罪放免で続行。

結局仕事を辞めるギリギリまでまっとうできたのは感慨深かった。

初めて自分の趣味で自分と他人を結びつける事ができた出来事だったのかも知れません。

タモリがいいともを辞めた時はこんな感じだったんだなとえらいもんと重ね合わせながら(笑)感慨にふける事がたまにあります。

ただまた同じような事をやってくれって言われたらさすがにいくらかもらうかな~(笑)


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