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スピリチュアルネイティブについて解説 なぜ俺は嫌われるのか?


俺の自己紹介も兼ねて

スピリチュアルネイティブ、って、聞きなれない言葉だと思う。ブログを立ち上げた2024年3月時点で、この言葉でググっても、出てくるのは俺の記事だけだった。

そりゃそうだ。これは単なる俺の造語だから。

俺は、生来親譲りの豊かなスピリチュアリティ(霊性)に恵まれて育った。俗っぽくいえば霊力がある、みたいなこと。父は神職で強い霊感があり、母もまた、幼少期の臨死体験を経て、人には感じないものがわかる体質だ。さらに両家の祖母も霊感ありという筋金入り。

加えて、俺の故郷は、世間的には「パワースポット」と呼ばれるようなところ。雑誌なんかでパワースポット特集をしたら、必ず名前が登場するような神社のそばで育った。ちなみに父はその神社の禰宜にあたる。

そんな環境で育ったので、俺はカルチャーとしてのスピリチュアルに必然的に詳しくなる。俺の親世代に浸透したニューエイジから、今のスピブームに至るまで、あらゆるスピリチュアルイズム、スピリチュアルカルチャー、スピリチュアリストたちと巡り合いながら、時にそこから離れ、忘れ、また思いだし、向き合ったりを何度も繰り返して、都会生活と普通の会社員生活を謳歌してバランスをとりつつ、俺は大人になっていった。

フリーの今も、俺はフツーの仕事をしている。なので、長い間俺は、自分のバックグラウンドを積極的には人に話さないようにしてきた。成長するにつれて、俺の背景にあるものは、世間様から見た時、それなりに偏見に塗れた場所であることにも、薄々気がついていたから。

そんなバックグラウンドをある時、とあるジャーナリストの知り合いに打ち明けたら、「へー、つまりタケルくんはスピリチュアルのネイティブなんだね」と言われたことがあった。

「ネイティブ? なんでですか?」

「いや、俺は霊感とかないけど、カルチャー的にスピリチュアルとかオカルトは結構明るい方でさ。でもこういうのが好きな人たちは、たいてい後追いでしょ。大人になってからハマったり、あとは救いを求めて興味を持ったり。だけどタケルくんの場合、生まれながらにスピリチュアルな環境が、否応なしに人生のスタートだった訳だよね」

俺は彼からのフィードバックを得た時、目から鱗が落ちるとはこのこと!と思った。


スピリチュアル好きの人に、嫌われがちな理由

俺は大人になって、再び自分のスピリチュアリティと向き合い出した時、必然的に数多くのスピリチュアル好きの大人たちと知り合いになった。と言っても自分から探したことってほとんどなくて、俺はその手の人たちから、しょっちゅう声をかけられた。

ところが、どうもスピリチュアル好きな人たちと自分との間で、明らかな違いを感じてしまう。その違いがなんなのか、長年分からずにいた。しかも、初めは彼らと仲良くなれるのに、時間が経つと、必ず疎遠になっていく(または仲違いしてしまう)のが常だった。

俺が思うに、スピリチュアルが好きな人たちーー例えば、アセンションしたい!とか風の時代だから宇宙の波に乗ろう!とかツインレイと出会って統合!とか、引き寄せとか量子力学がなんちゃらとか、瀬織津姫の復活!とか、とにかくそういうのが好きな人たちというのは、

根本的に、スピリチュアルに救いを求めている人たちだ。

言い換えると、スピリチュアルによってちょっといい思いをしたいとか、世界を広げたいとか、居場所が欲しいとか、自分の体験を説明して欲しいとか、そういうこと。人生をより良く生きたいから、スピリチュアルに触れたい。現実がしんどいから、逃避したい。

その気持ちは俺にも良くわかるし、その効用や楽しさにも身に覚えがあるから、なにも否定してるんじゃない。楽しむこと、時に縋ることは、それでまた元気がでるのなら、大いに結構なことだと思う。

多くの宗教だって、そういう役割なんだから、いわんやスピリチュアルをや、って話だよね。それに、今から伝統宗教や新興宗教に入るよりは、お手軽で気軽なのも、スピリチュアルのいいところ、なんだろうし。

ただ。。。

俺が思うに、スピリチュアルというのは、救いを求め、それに応える目には見えない性質を孕んでる時点で、

無自覚な宗教みたいなもの

だと捉えている。

なんだけど、スピリチュアルが好きな人というのは、スピが宗教性の強い文化だという自覚がない。スピリチュアルが、宗教ではないがゆえに。

だから彼らは、根本的にスピリチュアルを安全かついいもの、だと思っている節がある。それは、例えば宇宙とか神様とか光をなんの疑いもなく「いいもの」と捉えて信頼することと、イコールだと、俺は思う。

そして、そこが根本的に、俺と彼らの違うところなんだろうな、と思う。俺は、否応なしに長年、スピリチュアルカルチャーの人々を見てきたし、自分もあらゆる体験をしてきた上で、そもそもスピリチュアルはリスクや危険な面、思考停止や逃避、他力本願を生むような、嫌な部分もたくさんあるもの、だと思っている。(もちろんいいところもたくさん)。

だから、俺のスピリチュアルへの態度みたいなものは、これは宗教みたいなもんだという自覚があるからこそ、それなりに険しく厳しくなる。だから、スピリチュアルをいいものだと思い、救いを求めている人たちと話しだすと、意見がバッティングしてしまうんだ。これは、どちらが正しいとかではなくて、タイミングが合ってないんだよな。

救いを求めてるなら、それは大いに求めた方がいい。俺は、何も今現在救われたい人の気持ちを否定してるんでは全くない。ただ、その状態にある人には、俺の意見や体験は、必ずしも救いに値しない場合がある

なぜなら、俺にとってのスピリチュアルとは、

自分を成長させ、向き合っていくためのツール

でしかないからだ。そして、救いを求めなければならないくらいしんどい現状にある人にとって、たった今「自分と向き合え」と言われることは、おそらくすごく辛いことだと思うんだよな。

だから俺はしょっちゅう、スピリチュアル好きの人に意見しては、「タケルくん、スピな割に考え方が硬いってか、古いよね! もう風の時代だよ? そういう頑固なのも手放して、軽やかに行こ?」と返され、そっか〜つって、笑顔でさよならをしてきた。これ以上はお互いが不幸になるだけだから。

ただ、先述したとおり、俺は生まれながらにスピリチュアルと向き合わざるを得ない環境で生まれ育った。だから俺にとってスピリチュアルとは、自分と徹底的に向き合うために、避けられないものだったし、自分を深く知っていくために、通過していかなければならないものでもあったんだ。だから、俺としても「そうだね、こんな古い考え、手放しちゃえ」とはできないわけ。

どんなスピな考えが流行ろうが、俺は俺の人生をしっかり生きたいからね。

自分と向き合うこと、それが出来ればスピじゃなくたっていい

例えば前世の記憶が開いたのも、俺に霊感があったからってだけじゃない。

自分と向き合い続けていたら、自然と思い出すに至った、というだけ。これについてはまた書きたいが、俺は20代の頃から、不仲だった母親と何年も向き合い続けてきた。それが一段落した矢先、今度は前世の記憶を思い出すようになったんだ。

考えてみれば自然なことだよな。自分と向き合い続けていくことを極めていけば、今の自分を超えた記憶が開くのは、必然的なことだから。

例えば俺が漁師の上に生まれたら、俺は海や漁を通して自分と向き合い、両親とも向き合ったんだろう。テニス選手の家に生まれたらテニスだったかもしれないし、普通のサラリーマン家庭で育ったら、親の生き方に反発しながら向き合ってたかもしれない。

そういう、生まれながらに避けられない課題が、俺には、スピリチュアルだった。ただそれだけのことなんだ。

だから、俺はスピリチュアルについて書いていく上で、あえて自分を「スピリチュアルネイティブ」と位置付けることにした。それは別に、自分と人を区別したいのではなくって、俺の視点から語れることを、大事にしたいっていう表明みたいなものなんだ。

伝わるといいな。





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