匿名性が可能にした自由な発言の機会
SNSの最大の武器は匿名性であり、本音を言うことの楽しさを気づかせてくれる。
まず初めに大体の方が自己紹介をされている(?)のかもしれませんが、ぼくはあえてせず、この投稿を始めようと思ったきっかけだけ話していこうと思います。
議論をすること=自分を見つめなおすこと
普段、自分は議論するのが好きです。議論の過程で他者の考えを摂取して、自己の考えをまとめなおして、それを教養とするのが目的です。あくまで論戦をすることが目的ではありません。
議論のときは、できるだけ本音を言うようにしています。「本音」というのは、多義的で、よく言われるのは「建前と本音」など、ネガティブな一面や、これまで言えなかったことを戦わせるイメージではないでしょうか。
しかし自分は、本音というのは「自分の奥底にある言葉」であり、本音を探る努力をすることでしか自分を見つめなおせないと考えています。学校で習ったことを表面的に伝達するだけでなくて、結局自分がどう考えているのか。そこがなければ、議論の時に自分の知識をひけらかすだけになり、戦いになってしまう。
議論の条件としての「匿名性」
というようにある程度議論に対する哲学、というか姿勢を持っているのですが、「自分を見つめなおすという議論の目的を持つこと」ともう一つ議論の必要条件となってくることがあると思います。それは「匿名性」です。
どういうことかというと、「議論の根幹は議論の内容であって、議論の話し手のステータスなどの条件は関係ない」ということです。
よくSNS上では研究者同士の「論破」を目的とした議論が横行していますが、そうした議論を外部から見るとき、当事者の肩書やフォロワー数を根拠にその人の言うことを判断してしまうことは往々にあるのではないでしょうか。
ここに自分は問題意識を持っています。
議論には本来所与の正解はないはずで、お互いが自己の考えを見つめなおしながら他者と対話する中で生まれてくるはず。けれども私たちは「何を言うかより誰が言うか」が優先される世の中で、ステータスに基づいて、あるはずのない「正解」を下そうとしてしまう。ですから、そのような事態を避け、理想的な議論を闊達にするために、できるだけステータスを排除することがもとめられるのではないでしょうか?
上で述べたことは「自分がしている議論に対する他者からの見方を補正するための視点」=「他者⇒自分」です。一方で、「自分が他者を気にすることで議論が阻害されることを補正するための視点」=「自分⇒他者」も考えてみる意味があると思います。
すなわち、議論している自分の要素全てが議論を阻害し、自主規制をかけてしまうということ。例えば、その人が日頃どんなサークル活動をしているか、そのサークルでどの立場にいるか、どういう友人関係があるかということも、時には議論を邪魔する原因になりえます。自分の所属する社会集団や、立場、友人関係を気にするあまり、自分の本音よりも自分の見え方を優先してしまうことは、社会集団にいる人であれば経験したことがあるはず。
したがって、議論している自分の要素を見せず匿名でいることが、「他者⇒自分」の関係でも「自分⇒他者」の関係でも議論を闊達にする一つの手段となりうることは否定できないのではないでしょうか?
匿名性が生み出す自由な議論
見てきたように、私は、自由な議論は匿名な場でこそ行われると考えています。
この結論はSNS時代ではすでに強調されてきた目新しさのないことで、匿名が故の攻撃性など、むしろ弊害の方が目立っているという側面もあるかもしれません。
しかしながら、自分が先に定義したように、「議論」はある意味「自己内対話」であり、正否を問う「論戦」ではないということをきちんと認識することから出発するとすれば、その弊害は克服できるだろうと感じています。そこにさらにメディアリテラシーなども求められることとは思いますが。本当の自分を見つけ、その本音を語り合い、他者の本音を取り込んだうえで自己内対話を行うことの意義は非常に大きい。
これが自分の議論に対する哲学です。
というようなことを考えたからある程度匿名性のあるnoteを使うんですが(笑)
きっかけの説明で1500字ほど使ってしまいましたが、日記感覚で自己内の議論を投稿できればと思う次第です。
よろしくお願いします。
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